少女の目に世界は泳ぎ廻る文字の羅列に見えた。
同世代の若者に流行するその「タグ」と呼ばれるアプリケーションは、概念そのものは過去に存在したソーシャルネットワーキングサービスの再現であった。
端的に言えば、今自分が居る座標に「どうということのない一言」を書き残すというものだ。
システムそのものは単純で、それをストレスの捌け口に使う者もあれば、縄張りの拡大の為に自身の存在証明を書き残す者、さらにはその余りの流行から有料ポルノサイトへの誘導を行う刺激的な画像を散布する企業があったりと、街は大量のタグで溢れかえっていた。
タグはSecAIの公式サービスではなく、海外ユーザーの一人が公開しているフリーアプリケーションだ。
位置情報にイリーガルな方式で情報を追記する都合上、メンテナンスAIがバックグラウンドで追記されたタグを次々と消してはいるのだが、それも間に合わないほどタグは街に急増している。
メンテナンスの遅れから都心部では一部のサーバーがダウンしたり、公式サービスのバグが未だに修正されていないなど、社会問題にもなりつつある。
一部ではタグの多大な負荷は発育途上の若者の脳に悪影響を与えるとも騒がれているが、それを証明する科学的根拠は今のところ無い。
それを知ってか知らずか、少女は特にタグが密集する地帯を好んだ。
タグは投稿日時や関連する物事からフィルタリングを行わなければまともに読むことができないほど密集しているが、少女はそれをあえて行わず、視界を文字の羅列で埋め尽くすのが好きだった。
一つ一つのタグにはそれこそ公衆トイレの落書き程度の意味しか持ち合わせていなかったが、それが無数に重なりあったその光景に少女は何か退廃的な美を感じとっていた。
ああ、世界が、本当にこんなだったらいいのに。
ヒカワ=マキナは周囲から浮いた少女だった。
今年で18歳になる高校生だったが、他人と群れることを嫌い学校へは通っていない。
そういう若者は多かった。
むしろ、若者特有の自己顕示欲の現れというか、自己が特別であることの証明としてはメジャーな部類に入るだろう。
マキナもそういう少女だった。
自分は誰とも違う、誰にも属さないという意識からか、誰の目から見ても風変わりな物事を好んだ。
最も、そういった一連の傾向すら全体的な視点で見れば「自分を特別視して欲しい人たち」というマイナーなカテゴリーに属す何ら特別性のない人物像であることを、彼女自身は理解している。
その点で彼女はある意味「特殊」だったのかも知れないが。
少女にとって世界はくだらないタグの吹き溜まりに等しかった。
誰もが大手ファッションブログやブランドコミュニティによって規格化された衣装を纏い、やれ仕事だのやれコンパだのと肩で風切って歩くのを、マキナは覚めた目で見つめていた。
結局世の中は超カワイイとかまぢヤバいとかそういったもので括られていて、人類というものはたかがその程度の言葉や主観で自身を規格化し、形にはまっていないと生きては行けないらしい。
それがマキナの哲学だった。
だからマキナの見る世界は、フィルタリングを外したタグビューアが見せる文字の洪水が全てだったのだ。
そんなマキナにも、乙女心を揺さぶるある一つの関心事があった。
【Johnny=angel】。
それは都市伝説と言うにはあまりにも目撃談や体験談が多すぎる噂話の搭乗人物だ。
ジョニイ=エンジェルなるその人物……否、人物と言えるかどうかも解らないそれは、実体の無い神出鬼没の存在だと言う。
ジョニイは気まぐれで、不可思議で、美しい。
ジョニイに遭遇できたと主張する人間は口を揃えてそう言った。
ある者は彼の正体を、絶滅したはずの全能のハッカーと言い、ある者は彼をどこかの企業が産み出したキャンペーン向けのAIだと言い、またある者はきっとジョニイはSecAIに降り立った本物の天使だと推測した。
いずれにしてもジョニイ=エンジェルなるその人物は、民衆が好き勝手に作り上げた幻影(アイドル)に過ぎない。
ではそれを、そういったものに対して酷くシニカルな見解を示すマキナが見たとき、一体何が見えるというのか。
天使のツラの皮を剥がしたい。
それがマキナの唯一の夢であった。
マキナは夕闇の中、市営公園の広場のベンチに腰かけていた。
ここは彼女が数週間前に「餌」を仕掛けた猟場だった。
タグビューアのフィルターを外すと、視界はみるみるうちに文字で埋まっていく。
その中央、自然とスレッドを構築するタグの群れの最奥には、マキナが仕掛けた一つのタグが存在した。
“ジョニイ=エンジェルを知ってるか?”
そのたった一言に、びっしりと纏わりついたタグは20000以上。
その中には根も葉もない目撃談から賛美の声、罵詈雑言にいたるまで、ジョニイに対するありとあらゆる言葉が犇めいている。
これはマキナにとっては撒き餌だった。
単純に侮蔑の言葉でジョニイを誘い出すこともできたが、相手がそんな知恵のない出方をするだろうか。
否、実際にジョニイを否定する言葉は街中に溢れ返っているし、ジョニイのような賢い人間がそんな些細な問題に興味を示す筈がない。
問題はディテールよりも規模なのだ。
収拾が付かないほどに膨れ上がるジョニイの情報、それらの提供者達は、結局のところ天使崇拝の狂信者にすぎない。
供物を捧げる祭壇に天使が舞い降りる。
ジョニイと言うアイドルは、そんなセンセーショナルな舞台(ステージ)を望むはずだとマキナは考えた。
マキナは今、祭壇を仰ぎ見る狂信者の乙女を演じている。
美しき天使の降臨を待ち望んで。
「……?」
マキナは視界に何かの動体を感知した。
“knock knock”
そう記された一つのタグが、ひらりひらりと風に舞うペーパーメディアの広告のようにマキナの目の前を通過したのだ。
基本、タグと言うのは空間座標データにテキストファイルをイリーガルな方式で追記したものであるため、書き込まれたその場所から移動することはない。
ビューア上で余計なタグを払いのけたり興味あるタグを拾い上げたりすることは可能だが、それは一時的な見かけ上の現象でしかなく、自ら能動的に移動することはまず有り得ない。
だがこの文字列は、誰かが放った紙飛行機の如く確かにマキナの目の前を通り過ぎたのだ。
「……えっ、なに……?」
その後の光景にマキナは目を疑った。
20000に及ぶタグの群れが、まるでハーメルンの笛吹きにでも誘われたかのように列を成して空飛ぶタグを追いかけ始めたのだ。
巨大な文字列の塊が、一条の糸に紡がれて宙を舞う。
「……わあ」
マキナは思わず声をあげた。
掃き溜めに過ぎなかったタグの群れが、ダンスを踊る蛇のように宙で孤を描く様はもはやアートと呼ぶべきものだった。
その光景に目を奪われていたマキナだったが、ふとした瞬間に我に返る。
タグの蛇が突然速度を上げ、空中で巨大な輪を描いたのだ。
「天使の……輪」
マキナがそれを連想したのも無理はなかった。
こんなにもセンセーショナルな舞台を作れるのは、件の天使に他ならないのだ。
「ジョニイ=エンジェル、そこに居るの!?」
マキナは周囲を見渡したが、彼女以外に人影は無い。
だが、天使は確かにそこに居たのだ。
「どこにいるの、ジョ……」
マキナが巨大な天使の輪に向き返ると、回転する無数のタグからいくつかの文字が剥がれ落ち、一つの文字列を作り上げた。
“maybe yes, meybe no”
その文字列は天使の輪から遊離すると、ひらりと舞ってマキナの顔のすぐ横を通り過ぎた。
「ま、ちょ……」
マキナが振り向いた時、そこには一人の男が立っていた。
男はニットで編まれた黒のロングコートを身に纏い、黒のキャスケット帽を深々と被っている。
髪は美しいブロンドで、口元には優しげなアルカイックスマイルを浮かべている。
首から下がる沢山のシルバーアクセサリーがどこか神秘的な雰囲気を漂わせ、身長はそれ程高くはないものの、スマートな印象は自然とシャープな美しさを演出する。
そう、彼は美しかった。
“天使”と形容するに相応しいほどに。
「ジョニイ……エンジェル……?」
「そうさ」
ジョニイはそう答えて微笑んだ。
「もっと天使らしいと思った?」
「……」
マキナは言葉を失っていた。
「こうすればもっと天使らしく見えるかな」
ジョニイがそう囁くと、タグの群れが彼を取り囲んだ。
ある一塊は彼の頭上でくるりと輪を描き、ある一塊は空中に落書きするかのように背中で翼を象った。
「あなた、本当に天使なの……?」
「キミがそう思うなら、そうなのかもしれないね」
そうでなければ、目の前に居るのはとんでもない能力をもつハッカーなのだ。
SecAIが予め持っている空間座標値の任意改竄は、許可なき場合は特A級の電脳犯罪にあたる。
20000に及ぶタグの座標値を狂わせて操ると言うのは人間の成せる業ではない。
ならば空間座標値の方を狂わせて、タグに座標を誤認させて引っ張り出すほうが方法としては現実的だ。
しかし、SecAIの空間座標値と言うのは一般アカウントでは認識できない“バックヤード”と呼ばれる舞台裏の領域でのみ管理されている。
バックヤードのアクセスには256に及ぶアカウントチェックをクリアしなければならないし、その上常に監視プログラムが走っているためアクセスを感知された時点で即座にアカウントを停止、そのまま警察送りとなってしまう。
この鉄壁の防壁によりバックヤードへの通常アカウントによるアクセスは不可能となり、SecAIを改竄、破壊するハッカーは事実上絶滅したはずなのだ。
マキナは妙にSecAIの仕組みに詳しかった。
その一連の雑学(トリビア)が、SecAIへのハッキングがそうたやすいものではないことを証明した。
しかし、マキナの目の前の男はいずれにしてもその離れ業を涼しい顔でやってのける。
ならばきっと、ジョニイ=エンジェルという存在は人知の及ばぬ特別な何かに他ならない。
例えるならば、そう、天使のような。
「きっと、キミがそう思うなら、ボクは天使なのかもしれないね」
ジョニイ=エンジェルはそう言って微笑んだ。
「キミが望むならボクはそこにいる。キミが望まないならボクはそこにはいないだろう。ボクは、そういうものさ」
ジョニイ=エンジェルは強張るマキナの頬に優しく触れた。
「また会おう、マキナ」
マキナが我に返ったのは、まるでシャンデリアが落ちてきたかのような衝撃を受けた次の瞬間だった。
気がつけば周囲には沢山の文字が無残に散らばり、それを修正プログラムがイリーガルデータとして認識し片付け始めていた。
まるで夢のような光景だったが、マキナの頬は確かに天使のすべらかな指の感触を記憶していた。
ジョニイ=エンジェルは結局のところ天使に他ならない。
マキナは、既にその悪戯な天使に心奪われてしまったのだった。
<to be continued...>
最終更新:2010年06月16日 02:29