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我が良き友よ

父親のことは会った回数に比べれば割と濃密に記憶している。

おそらく面と向かって会ったのは中学卒業のころか、高校に上がりたての頃が最後になるだろうか、同じくらいの時期に両親の離婚が成立したから、そのくらいの時分だったろう。

それから一年半ほど経った頃に父親は急逝した。

自殺ではなかったのだが、そのときには時間さえ掛ければ返せなくはない程度の借金を抱えていたらしく、カードの連帯保証人に名前を貸していたことなどすっかり忘れていた元妻である母親はバツついでに思わぬオマケを喰わされた上、もちろんその皺寄せは実の息子である自分にも当然巡ってくるわけで、高校を卒業してすぐ働きに出される羽目に遭った。

別に両親が嫌いな訳ではないのだが、離婚したあとの母親の苛立ちや父親を語るときのトゲトゲしい物言いはさすがに気が滅入る。

じゃあその父親の血が半分流れるおれはどうなんだ、と、言われなくても思ってしまう。

だから母親とはわずかに距離を置きたくなって、寮完備の仕事に就いた。
完備とは便利な言葉だ。
風呂なしトイレ共同のボロ屋でも、部屋さえあれば完備と言える。
とりあえず歩いて五分の場所に風呂屋はあるし、そう困ることでもなかった。
いまどきそんな生活をしてる若者は居ないと番台のじいさんは笑っていたけれど、とりあえず、稼げさえすればどうでもよかった。

漫画のように煙突の突き立つその風景はあまりの風情に一度はテレビに取り上げられたこともあるらしく、物好きもちらほらやってきたりもしたそうだが活性化には繋がらなかったとじいさんは言う。
いまどきシャワーもついてない、壁に富士山の描かれたようなあからさまな銭湯に好き好んで通う輩はそう居ない。
一年ほど前までは同じくらいの時間帯に一人じいさんが来ていた程度だが、その姿も最近は見なくなった。
今はただ、掲示板に貼られた“テレビで紹介されました”の手作り感満載のポスターが、濡れて乾いて干物になって黄色く変質したセロテープが危うくそれを支えているのがこの風呂屋の行く末を暗示しているようでもある。

寮母のおばちゃんの話では、夜中近くになると唐獅子牡丹のヤクザたちが舎弟をぞろぞろ引き連れて風呂を浴びにやってくるからなんとか成り立ってるらしく、それを聞いてからは出来るだけ早めに来て帰るようにしている。
特に定時上がりの日になれば、自分が来る頃には誰もいない。
デカイ湯船を独占できてこれはこれで気分が良かった。
やや熱めの湯温にもすっかり慣れて、ふと歌でも歌いたくなってくる。

そういえば。

父親の遺品は価値のありそうなものは殆んど売り払ってしまったのだが、そのうち幾つかの値段がつかなったものは自分が引き取った。
例えば父親が昔練習しているところを見せてくれたギター。
そのとき一緒に聞いた、やや延びて気の抜けた音になってたカセットテープ。

そのときの曲が不思議と耳に残っていて、いまでもたまに口ずさむ。



ギターを鳴らして奴が来る

腰に手拭い ぶら下げて

学生服に染み込んだ

男のにおいが やって来る……

「あぁあー……夢よ」

「ガッハハハハ!」

突然響く笑い声に驚きと恥ずかしさで気が動転する。

「ボーズ、ちげえ、ちげえよ」

真っ黒に日焼けしてしわくちゃの笑顔で入ってきたおっさんは、ほんとうにこんな笑い方する人いるんだと思うほどのガハハ笑いを暫く続けてからこう言った。

「ギターじゃねえ、ゲタだゲタ」

「……ゲタ……すか」

「そうそう、下駄」

おっさんの言うゲタが履き物の下駄だと理解するのに数秒。

「下駄なんすか」

「そうよ、なんでバンカラ番長みたいなのがギター鳴らして来るんだよ」

おっさんの言葉に、あっそういう歌なんだととりあえず納得するのに数秒。
その後からやって来た陽気にギターをかき鳴らしながらやって来るバンカラ番長のイメージに笑いを堪えるのに数秒。
そしてその恥ずかしい勘違いをしたまま数年にわたりそれを口ずさんできた恥ずかしさを隠すのに数秒。
このわずかの数十秒でどれだけ顔色が変わったことか。

「あっ、そういう歌なんですね」

「そーよ、ずいぶん渋い歌知ってんなボーズ」

「や……親が好きで」

少し大人になった今ではこういうおっさんの気まぐれにもそれなりに対処できる。
ただ僅かに面倒だ、それだけ。

「懐かしいなあ、学生のころ思い出すな」

石鹸で身体を泡だらけにしながらおっさんが言う。
土木作業でもやっているのか、最初は小太りだなと錯覚したその体格は思いの外筋肉質で、歳に似合わなそうなそのガタイにふと背中に紋々でも背負ってないかと覗き込んでしまった。

「なんだいボーズ、珍しいかい?」

「いやいやいやいや」

背中に弁天さんも無ければ桜も咲いてないのは確認できたものの、おっさんに気づかれてニッカリと笑われた。
もしやそっち方面の人じゃないかと別の懸念が生じる。

「よッと」

前も隠さずおっさんは豪快に湯船へ身を沈める。

「ああ゛ぁぁぁぁぁぁーッ……」

おっさんすぎる。

「ヘェェー、いい湯だなァ」

ほんとうに絵に描いたようなおっさんである。

「……じゅぅーごぉーじゅぅうーろくゥー、じゅうしちとぉーッ」

「ぶッ」

「アタシのォーッ、人生ェエ、暗かったあァーッ」

「ちょッ、なんで“圭子の夢は夜開く”なんスか」

思わぬチョイスに吹き出してしまった。

「……ボーズなんでも知ってンのな」

そっちは母親の趣味だった。

「や、親が」

「へへへぇ、良い歌ばかり知ってんなぁボーズは」

またおっさんがニカリと笑う。

「……浴衣のォ君はァー、ススキのかんざしィー……」

「あっそれは知らないです」

「おァ、タクローだぞタクロー、かまやつより有名だろうよ」

「……えッ」

「あ?」

「……ぼくの名前です、拓郎」



かなりどうでもよい話なのだが、この拓郎という名前はそれほど好きではない。
両親より若い世代の親たちが友達に格好のつく名前をつける一方で、拓郎と言う名は平凡すぎた。
アニメも漫画も詳しくないのに名前のせいでオタク野郎みたいなあだ名がついたこともあった。

ただ今、この見ず知らずのおっさんと気まぐれに交わした会話によって、自分の名前への認識が改められることになる。

別れた二人の共通点は、フォークソング好きだと言うこと。

おそらくは二人の出逢いのきっかけも。

そうして産まれた自分に付けられた名は、フォークと言えばの吉田拓郎から拝借したものであろうと言うこと……

やはり自分は二人の愛した末の子供なのだと思う反面、何故そこまで愛し合った二人が別れてしまったのか。

まだ恋愛を知らない自分に、その答えを見いだすことはしばらくは無理そうな話だった。



「ボーズは今いくつだ」

「えッと、今二十一です」

「おっさんみてえな奴だなァ」

おっさんに言われてしまった。

「親が、フォーク好きなんスよ、それで」

「そうかァ、だから拓郎かあ」

やはり解る人には解るらしい。

「おじさんはフォーク好きなんですか」

「まあなー、学生のころな」

気分よさげに腕を組みながら、鼻唄混じりの答えが返る。

「……良く来るんですか」

「夜勤明けに必ず来てるんだよ、いつもはもっと早えんだけど」

何故だか不思議と会話が弾む。

「ボーズは学生さんかい?」

「いや、一応社会人です」

「ヘェー、まだ若ェのにな……」

おっさんはニヤリと笑う。

「カノジョは?」

「え、え、え、いません、よ?」

「なんでェ、じゃあアレか、まだドーテーかぁ?」

これはなんだか色々と嫌な予感がする。

「え、あ、はい、スミマセン」

何故謝ったしおれ。

「バッキャーロ、もうハタチ過ぎだろォ、童貞なんかとっとと捨てちまえ」

「あ、や、あの」

「オッサンは十八ンときに捨てちまったゾ、大事にとっといて得なんかなんもねえ」

おっさんがそんな話を切り出したタイミングで、前も隠さず風呂の縁に腰かけるのはやはりそういうことなのだろうか。
ぶら下がる黒々としたそれの全貌が目に飛び込む前に顔を背ける。

「お、おじさんは、やっぱり、カノジョさんとですか」

「や……金溜めてよ、ソープでフデオロシしてもらったんだよ」

照れんなオッサン。

「いやあー、まあ、オバンっちゃオバンだったけどよ、よかったぞォー」

「……そ、そんなですか」

「おーよ、まぁ、そんときゃケツ振るので精一杯だったけどな、あんなもん、よーは力づくよ」

「……そんなですか……」

「……ンだよ、照れてンのか、かわいいなあボーズ」

「ブフゥッ!」

「ヨシッ、おっさん気に入ったぞ、このあとソープ連れてってやるッ」

「いやいやいやいや、まだ、まだ早いッス! 未熟者ッス!」

そういうとオッサンはまたでっかくガハハと笑って

「ガッハハ、いまどきのボーズにしちゃ硬派じゃねェか、余計気に入った!」

余計にヤバくなった。

「ハハハハ、顔真っ赤だぞ、冗談だから上がれ上がれ」

「ああああ!」

オッサンに湯船から引っ張り出され、突然の猥談に膨らみきった愚息を隠すので精一杯だった。

「悪ィ悪ィ、酒入ってるからヨォー、オッサンも今日は撤退するわ」

「……はあ」

「拓郎よォ」

「あ、はい」



「また、唄おうな」




名も知らぬオッサンはそう言ってそそくさと風呂から上がってしまい、残された自分はのぼせにのぼせて暫くの間ぐったりしていた。
やっとこさ気分も良くなり、着替えを終えた辺りで、ドレッサーにその“忘れ物”を見つけることになる。

それは随分と年季の入ったヨレヨレの革の手帳で、さすがに中は見なかったがどことない雰囲気であのオッサンのもののような気がした。

次に遭ったときに渡してあげようか。

何故そんな考えが過ったのだろう。

また再びオッサンに出会える確証は無いし、というか、なぜまた会えると、あるいはなぜまた“会いたい”と思ったのか。

確かにあれだけスカッと気持ち良く男らしい人物は初めて見たし、それなりに楽しいひとときを過ごした相手だ。
また会えたら楽しいかもしれない、そんなところだったのだろう。

「……あの、スミマセン」

「……」

番台で眠りこけるじいさんに声をかける。

「スミマセン、ちょっと」

「ホァ!?」

肩を小突くとじいさんはようやく目を覚ます。

「これ、落とし物……」

「……あー……ヒロシんかな」

「ヒロシ?」

「さっき来てたろ、声のでけーのが」

ああ、じゃあやっぱりオッサンのだ。

「あー、ヒロシんだな、間違いネェ」

じいさんは躊躇なく手帳を開く。

「わぁった、どーせまた来ンだろ、預かっときやす」

「その……良く来るんですか?」

「まぁー週に一、二度は来ンかね、あいつもヒトリモンだからよォー、学生ン時から知っとぅけえ、ンだども今だにヨメもねーカネもねーじゃあ」

このじいさんにだけは身の上話をしちゃいけないというのが良くわかった。

「……じゃあ、頼みます」

「おー、さんきうべりまっち」

本当に大丈夫なのかなと思いつつ、じいさんに手帳を渡して銭湯を後にした。



そう、ただ、気まぐれに声を掛け合っただけだというのに。

なぜあのオッサンとまた語り合ってみたいなどと思ったのだろう。

おそらくテープの寿命だったのだろう、いや、自分がそう思いたかっただけなのだが、例のカセットテープはとうとう伸びきり千切れて絡まってしまい、レコーダーもろともお陀仏となってしまった。
こうやって聞きたいときに限って駄目になるのはだいぶ堪えたが、すでに曲名も判っていたので次の休みにCDを借りに行くことにして、今日はそのまま床に入った。

ふと父親のことを思い出す。

おそらく離婚が決まっていたからだと思うのだが、晩年、別居状態だった父親には覇気がなく、なんとなく萎縮しているように感じた。
それ以前の父親の姿がだいぶおぼろげになってしまっていて、なんだかすこしさびしかった。

だだ、自分が小さかったからなのか、もう少し大きな存在だったような、そんなあいまいな記憶だけがある。

母親に何故離婚するのかを問いかけたことがある。
そのときは母親も酒がわずかに入っていたので饒舌だったのだが、ようするに、前々からパッとしないところが気に食わず、長い結婚生活の果てにそれが耐え難い苛立ちへと変わっていったから、ということらしい。

そういうことでも百年の恋が冷めるのか。

母親は言った。

「もっともっと男らしいところが見たかったんだけどね」



レンタル屋の帰り道、もどかしくなってつい歌詞カードで確認したのだが、やはり鳴らしているのはギターではなく下駄だった。
そのついでに立ち寄った楽器屋でコード譜も衝動買いした。
コードの押さえ方解説付き、これでもう今月は無駄遣いできない。

ついでのついでに風呂屋に寄った。
これは必要経費なので心配はいらない、風呂上りのコーヒー牛乳さえ我慢すれば。

平日の夕方前という結構早めのタイミングで入りに来たのにはそれなりの期待があったからだ。
もちろん、会える確証はないのだが。

やはり洗い場には人っ子ひとり居ない。

「……下駄を鳴らしてェ奴がァ来るぅ……」

なんとはなしに口ずさむ。
そうすれば本当に来るんじゃないかと、思いのほかお守りの御利益も信じてしまう自分の性分がそうさせる。

「腰に手ぬぐいブラ下げてぇ」

ほんとうにブラ下げて来そうな気がする。

「学生服に染み込んだ……男のにおいが」

カラリ、と音を立てて。
湯煙の向こうにゴリラのようなシルエット。

「……拓郎じゃねえか」

オッサンは驚いた顔で自分を見る。
驚いたのはおれのほうだ。

「……また会えたなあ」

最初に話した時とは違う、なんだか嬉しそうな笑顔でオッサンはおれに話しかける。



「手帳、ありがとうな」

「ああ、良かった、おじさんのだったんですね」

「おー、仕事で使ってるわけじゃねーんだけどさ」

あの手帳はしっかりと持ち主の元に戻ったらしい。
じいさんのことだから中身はしっかり確認されただろう。
おれも気を付けないと。
下町にプライバシーの概念は無い。

「……ヒロシさん」

「おぁ、よせよ、名前で呼ぶな」

「え、なんでスか」

「平凡な名前だから好きじゃねーんだよ、日本のサラリーマンって感じの名前だからよ」

「そ、そうですか……?」

「おっさんだからオッサンでいいよ」

オッサンが正式採用された。

「……オッサン」

「おーよ」

「仕事、なにしてンすか」

「ビル警備」

「あー……」

オッサンのガタイと不思議な生活リズムに納得がいく。

「柔道とかかじってたからな、一応」

「ガタイいいですもんね」

「まぁ全部学生のころのアレだけどなあ」

そう呟いて、オッサンがおれを見る。
その瞳の奥にはなにかが秘められてる……ような気がして目を反らす。

「……や、スマン、拓郎と喋ってると学生のころに戻ったみたいでさあ」

ニカッと白い歯が並ぶ。

「……オッサン、まさか両刀とかじゃないっスよね」

「ンぐっ」

この際狙われる前に牽制することにした。

「……バレたぁ?」

「えッ、マジすか!?」

「……ブッハハハハッ、じょーだんだよじょーだん」

いや絶対に怪しい。

「でもなぁ、よく言われるんだわ」

「そう、なんすか?」

「目付きがヤラしいからな」

「ああ……」

「おい、納得すんな」

「へへ、スンマセン」

「まぁー拓郎はかわいいから喰っちまってもいいけどなぁー!」

だからそのタイミングで腰を上げるな。

「拓郎、メシ、まだだろ」

「あ、はい」

「手帳の礼に奢ってやるよ、メシ食いにいこうぜ」



何故かその帰り道、妙にウキウキとした自分に気づく。
金欠の時分でラーメンを奢ってもらえたからだろうか、そういう事ではないようだが。

そんなにオッサンに会いたかったのか。

メールアドレスまで交換して。

なぜ二十ちかく年の離れた相手にここまで執心するのか。
布団に横たわり、借りてきたCDを流しながら考えてみた。

おそらくは。
おれはオッサンにどこか“父性”のようなものを求めているのかもしれない。
父親と“こんなことがしたかった”と思う一種の妄想。
その父親役に、無意識のうちにオッサンを配役しているのかもしれない。

事実、オッサンと話しているとなんだか懐かしい気持ちになる。
それに話していて不思議と気分がいい。
飄々とからかわれるのも嫌な気がしない。

それどころか、あんな大人になってみたいという憧れすら抱いているようである。




繁忙期過ぎて桜の咲くころ、オッサンから花見に行こうと誘われた。

とは言えなかなか休みが合わずに生憎の夜桜見物となってしまったが、初夏のような昼間の日差しに比べて夜の緑道には心地よい風が吹いていて、街灯に照らされて淡く浮かぶ桜の花はなかなかに風情があった。

「もうちょい奥の方が眺め良いんだよ」

反面、ジャージに白シャツ、サンダル履きで風情どころではない格好のオッサンに連れられて、緑道のなかを進んでいく。

「なんか、暗いね」

「節電ブームだからなあ、おい」

「え」

「手、足元悪ィからよ」

そう言ってオッサンは平然と手を差し出してくる。

「さぁすがに男同士は……」

「いーじゃねーか誰も見てねぇし、拓郎に怪我されたら困るんだよ」

確かに緑道の足元は中途半端に飛び石が埋められていて良いとは言えない。
とりあえず躓いたらオッサンのぶっとい腕にしがみつこうと考えてそのゴツゴツした手を握る。

「へへへ、恋人同士みたいだナ」

「絶対言うと思った」

「じょーだんだよ、ほんとはよ、俺薄暗いの嫌いなんだよ」

「……ビル警備員なのに?」

「おーよ、怖えから唄いながら回るんだよ」

どこまでが本当なのやら。

「……じゃあさ、オッサン、歌おうよ」

「お?」

「オッサンと歌おうと思って、おれレバートリー増やしたんだぜ」

「へぇー……」

少し間を置いて。

「……シンシアァーッ」

オッサンからの不意打ちに

「フゥー、フゥーッ」

と返す。

「……やるねェ」

「だろ?」

そうして二人で笑い合い、いまどき二人にしか分からないような歌を交わし合う。

そうして笑っているうちに、拓けた公園にたどり着いた。

「おぉーっ、いいねーッ」

「だろーッ!?」

公園中央の大桜がライトアップされてより美しく輝いている。

「……」

暫く桜に見とれていたが、ふとオッサンの手を握ったままの自分に気がついた。

「あ、スンマセン」

「え、あ、ああ」

オッサンも桜に見とれていたらしい。
互いの体温で暖まった手のひらに風が冷たい。

「さて拓郎よ、一杯やろうぜ」

「うん」

片手に下げていたコンビニのビニール袋からワンカップを取り出してオッサンに手渡した。

「拓郎はチューハイでいいのかよ」

「うん、酒、全然知らないから」

二人でベンチに腰かけて、ワンカップとチューハイとで乾杯する。

「じゃあ今度飲み屋にも連れてってやんねェとなあ」

「ネーチャン居る飲み屋にはいかないよ」

「ガッハッハ、そういうんじゃねェよ」

日本酒をちびりと煽ってから、オッサンがおれの肩に手を回す。

「もう酔ったの?」

「こんくらいじゃあまだシラフだよ」

またへんな冗談だろと思いつつ、一口目のチューハイが早くも回ってきたのだろうか、オッサンの腕の中が何故だかひどく心地よくて、そのまま身体を預けてしまう。

「オッサン」

「おう」

「……オッサンは、カノジョいるの?」

何とは無しに問いかける。

「……いねえよ」

「奥さんは?」

「いるわけねえ」

「意外だな」

「……そうか?」

「オッサン、いい男だもん」

「……男に言われちゃしゃーねーな」

「そらそーだ」

わずかの沈黙。

「……好きだった奴はいるよ、ひとりだけ」

小さくオッサンが切り出した。

「過去形なんだ」

「大学までは一緒だったな」

「幼馴染みとか?」

「そうなるなあ」

「……ふられた?」

「……いや」

あのガハハ笑いのオッサンからは想像もできないくらい悲しい声で。



「告白、出来なかったんだよ」



また少しの沈黙。



「……楽しくてさ、そいつと一緒に居るのが」

「うん」

「一緒に風呂に行ったり、酒呑んだり、唄ったりしてよ……」

「……それって」

「……男だよ」

触れてはいけないところ。
小さな棘の刺さった指先に触れた時のように、胸の奥がちくりと疼く。

「たぶん、好きだったんだと思う」

「……」

「いろんなものが邪魔してさ、云えば、もう、一緒に居られない気がして」

「……」

「……拓郎が拾ってくれた手帳あるだろ」

「うん」

「そいつがさ、餞別だなんて云ってさ、卒業前にくれたモンだったんだよ」

そうだったのか。

「……なんで、云えなかったかなァ」

「……」

「俺にゃア、恋は難しすぎるンだよ」

オッサンは込み上げてきた気持ちを呑み下すかのように、酒をぐびりと流し込んだ。

「……拓郎はよォ、色恋のハナシはねーのかよ」

「……ないよ、恋、したことないもん」

「なんでェ、若ぇのによ」

「親が離婚とかしてるからさ、なんか、ね」

「……」

「たぶん、おれにも、恋は難しすぎるんだと思う」

それだけ伝えて、胸の奥で混乱して飛び出してきそうな言葉をチューハイで流し込む。
オッサンの腕の中が苦しいくらいに心地いいのはきっと酒に酔ったせいだ。
そうに決まってる。

「……」

「……」

互いに言葉を交わさぬまま、身を寄せあった。

酒に酔っているからなのか、これ以上踏み込むなと身体が訴えかけているのか。
胸の高鳴りが、苦しい。

腕を回すオッサンの左肩から伝わってくる走り気味の心音が、得体の知れぬ焦燥を呼び起こす。

しちゃいけないことをしているような気がして、なのに心地よくて。



振りほどけなくて。



「オッサン」

「……おう」

「……きょう、オッサンの家に泊まっても、いいかな」

ピクリ、とオッサンの身体が震えた気がした。

「……今夜は、だめだよ」

「……だめかな」

「部屋、きたねえし……」

「気にしないよ、おれの部屋もきたねえし……」

「……や、でも……」

「……つめたいひとだなぁ」

「そ、そんなつもりじゃ、ねえけど」

「……眠れなさそうなんだよ、落ち着かなくて」

「……」

このまま、二人の時間が終わるのが嫌だった。

「明日、おれ、休みだし」

「……俺も夜勤だから、遅出だけどさ」

「……おれに酒、教えてよ」

「……」

ひとつ、ため息をついて、オッサンは、おれの手を握った。



セックスは、しなかった。

多くの言葉も交わさなかった。

わずかに煙草の匂いのする布団のなかで、オッサンの腕に抱かれて過ごした。

ただ、それだけ。

なのに、ひどく心地よかった。



ひとつ解ったことは。

おれは間違いなく、オッサンが好きらしいと言うこと。

初めて知った恋の味は、

酒や、煙草や、あるいは麻薬にも似て

こんなに辛く、苦く、苦しいのに

ひどく、ひどく心地よかった。



その日から、オッサンと風呂屋で出くわすことは無くなり、メールの返信頻度も減り始めた。

日に一度返ってくればいいくらいになったメールによると、勤務時間が変わって忙しくなり、サボって返信する機会が減ってしまったのだと言う。

おれには、その言葉すらもおれと距離を離す為の言い訳に聞こえて、それが薄ら恐ろしかった。

オッサンのことが好きでいたいから、おれはオッサンに嫌われたくなかった。

オッサンのことが好きでいられれば、それで良かった。

だから返事の無理強いや、深追いもしなかった。

なによりそれが辛かった。

二ヶ月に一度くらい、運良く休みが合う時にだけ、オッサンと二人で飲み屋に行った。
その都度でサラリーマンや大学生が店のなかで騒ぎ立てるのが腹立たしく、旨い酒には巡り会えない。
顔を見る度オッサンも疲れた顔をしていて、身体のことが心配になったけど、やはり深追いはしなかった。

そしてなにより。

只でさえ深まる溝が二度と戻れなくなる、そんな気がして。

愛してる、とは、云えなかった。



秋に近づきふと考えることがあった。

自分はほんとうに、オッサンが好きなんだろうか。

ただただ、オッサンに甘えたいだけなんじゃないだろうか。

そこはかとなくオッサンに自分の“好き”を押し付けて、振り向いてほしいだけなんじゃないか。

そしてその一方で、裏返しのように生じるひとつの疑念が、よりおれを苦しめた。



そういえば。

疲れたオッサンの顔はどことなく。

最期に見た父親の寂しげな表情に似ていた。



二十二歳の誕生日の夜、会いたいとオッサンが迎えに来た。
あの桜の頃に歩いた緑道は銀杏の黄色に染まっていて、互いに口数の少ないまま、言われるがままに手を引かれて奥まで進んだ。

「もうすぐ冬なんだね」

公園に吹く風がわずかに肌寒い。

「……そうだな」

あのときと同じようにベンチに腰掛け、オッサンの肩に身を預ける。

あのときと同じはずなのに。

「……元気ないね」

「……おう」

オッサンは寂しそうに口を開く。

「転勤、するんだ」

「……」

「……会えなく、なる」

「……そっか」

胸の最奥がチクリと疼く。

「……なあ、拓郎」

「うん」

「……いろいろ、ごめんな」

「……なにが」

「いろんなこと、してやれなくて」

「……」

「有給とれたらさ、また帰ってくるよ、そしたらどこでも連れていってやる」

「……」

「……怒るなよ……俺だって、もっと拓郎と一緒に居たいんだ」

「……」

「……帰ってくるから……だから」

「……」



「拓郎のこと、好きでいさせてくれ」



待ち望んでいた言葉。

それなのに。

……それなのに。



「……オッサン」



きっと今日しか云えない言葉。



「……オッサンが好きなのは、おれじゃなくて、オッサンが好きだった、その人じゃないのかな」

「……たく……」

「……おれも、わからない。オッサンが本当に好きなのか」

「……」

「だから、だめだよ」

「……」

「……おれにも、恋は、難しすぎたよ」



空が白み始めたことで、ようやく互いに区切りがついた。

また会えたら、一緒に唄おう。

それだけ言って、オッサンと別れた。



やはりあのときの気持ちは、ただの春の気の迷いだったのか。

一人酒の呑み方も、ゴロワーズの薫りも解るくらいの歳になってなお、まだ恋が解らずにいる。

若気の至りと片付けるにはあまりに惜しい十年前の想い出が、今更ながら我儘な自分を戒める。

おれと同じあの星を見つめて、オッサンは何を想うのだろう。

懐かしさと後悔に、便りをしたため探してみたけど

暑中見舞いが返ってきたのは、秋だった。



-了-
最終更新:2013年03月23日 23:26