アットウィキロゴ

乙女座の墓標

緊張と興奮から来る自分の荒い息づかいをまるで嘲笑うかのように、遥か空は青く、花の香りが鼻孔を僅かにくすぐっていく。
前線の後退に合わせ、我らの本土防衛線も絶えずその戦力を的確に分散し、敵国よりの猛攻に備えねばならない。
慣れぬ山道の移動といつ銃弾が飛んでくるかわからない恐怖とでじっとりと汗ばむ肌を、春の生暖かい風が撫でていくのが酷く腹立たしくもあった。

「そう恐い顔をするな、新兵」

「ッ、上官殿」

緊張の糸を爪弾かれたように心臓が跳ねた。

「前線が踏ん張っている、敵の後退もあるやもしれぬし、我らの出番は相当先だ。今からそのような顔をしていては先が持たぬぞ」

隣を足早に歩く上官殿の目元は鉄帽に隠れ伺いしれなかったが、口許は確かに微笑んでいるのだ。

「あ、ありがとうございます……上官殿」

数時間ぶりに声を発して些か気が緩んだように思えた。
改めて考えてみれば、上官殿が私個人に声をかけて下すったことなど初めての経験であった。

「ま、正直な話」

「えっ」

「我々が向かうのは防衛線の隅の隅よ、貴官以外の皆は内心安堵しているのであるぞ」

「隊長殿ぉッ!」

背後の下士官達からも笑いがこぼれた。

高笑いする上官殿の清々しいほどの笑顔。

今思えば、ここから何かが狂い始めたような気がする。



戦時中と言うのに山桜の見事な絶景が夕日に映えた。
駐屯地は高台にあり、我々の任務は空からの強襲に備え、領空を監視することだ。
とは言え、上官殿の仰るとおり、この地は本土防衛線の中でもさほど重要視されない辺境だ。
母上様の思惑も、我が身の不運に潰えることになりそうである。

「おい新兵!」

「は、はい!」

「上がって来い、絶景であるぞ!」

物見やぐらの上から上官殿が無邪気に手を振っておられる。
戦時中に何を呑気なという気持ちの裏腹、まるで子供のころに遊びに誘われた時の様な懐かしい気持ちが内心に沸き起こり、つい梯子に手を伸ばしてしまった。

一段、一段。

登るごとに近づいてゆく。

まるで少年のように無邪気な顔で私を見るのだ。

この戦場が、あの厳格な父上が居たのと同じ戦場だと言うのか。

「ほれ、もう少しだ」

「あっ」

無意識のうちに差し出された手を握り返していた。

暖かな、指だ。

「そらよッ」

上官殿に引き上げられ、私は物見やぐらの頂きに降り立った。

「はは、女子のような指だ、この先豆だらけになるのが勿体ない」

「わ、私は男子です、そんな……」

「ほれ、見よ新兵」

上官殿が指差す先、空が茜色に燃えていた。

「よい夕日だ、明日も晴れるだろう」

「……はい」

そうして上官殿は私にまた爽やかに笑いかけた。
小柄ではあるががっしりとした四肢にはそれを感じさせぬ堂々とした風体があり、精悍な顔つきが時おり見せる少年めいた笑顔はなんとも魅力的に見えた。
それでいて、この頼もしくさっぱりとした人柄もまた、この人物の堅実剛健さをよくよく表していて、私は非常に感銘を覚えた。

私の見知る軍人というものは、風体が示す気品や誠実さと裏腹に、内面は酷く湿っぽく、嫉妬深く、狡猾な、品性の仮面を被る怪物でしか無かったと言うに。



私は、上官殿こそ、軍人の、男子の鏡であるとして



内心、惹かれていた。



着任からどれ程の日時が流れたろうか。
戦線は膠着しながらも僅かに僅かに我が国へ押し寄せてきているかのように見えた。
日が暮れると物見やぐらからは地平線が微かに光っているかのように見えた。
何処かの街が燃えているのだろうか。

それにしても我が駐屯地は、まるで戦禍から乖離しているかのようなのどかさで、それが反って不気味でもあった。

すでに春と言うに、日暮れ過ぎに吹き荒ぶ北風は、物見やぐらで監視に勤しむ者の体温を着実に奪っていく。
交代した下士官も肩をぶるぶる震わせながら、暖かな宿舎へ足早に帰ってしまった。

一人、宵空を眺めていると、圧し殺していた不安が再び呼び起こされる。

戦禍に呑まれる不安よりも、星ひとつ飾らずに家に帰る不安が強い。
下士官達も、上官殿も、新兵である私を気遣い、優しく、時に厳しく接してくださる。
あるいは、そのような環境が、私にとって余りにも心地よい場所だったのだろうか。
この戦場が、あまりに心地よすぎたろうか。

「新兵」

「……ッ、上官殿!?」

梯子の向こうから上官殿が顔を出していた。

「冷えるだろうと思ってな、茶を淹れてきた」

いそいそと隣に座る上官殿に、思いきって疑問をぶつけてきた。

「何故私に良くしてくださるのです?」

上官殿は些か心外そうに眉を上げた。

「まあ……部隊を任され、初めて入ってきた新兵だからな、おれはそれが嬉しいのだ」

「そう、ですか」

「ひゃあ、氷のような手だ」

水筒を手渡しして下すった上官殿の指先にまた触れてしまった。

暖かい。

「……飛行機の類いは未だに無しか」

「ええ」

上官殿が淹れて下すった茶が身に染みる。

「……星ばかり眺めておりました」

「星を?」

私は徐に空を指す。

「牛飼い座のアルクトウルス」

「お?」

「その右手側にあるのは乙女座のスピカ、そのもうすこし上にある少し小さい星がデネボラ」

「……?」

「春の大三角です」

私は上官殿に微笑みかけた。
それにも気づかず、上官殿はしかめ眉のまま空を睨んで星を探している。

それもそうか。
私の視界の中の星を指差した所で、上官殿の見る星空とでは外れてしまう。
よく幼い日の母上が、同じ顔をしていたのを思い出す。

「貴官はずいぶん星に詳しいのう」

「幼い頃、父上が星の本を下すったのです、狂ったように読み耽りました」

「聡明な幼少であったな、父上殿もさぞかし誇らしかったろう」

「……」

その言葉に少し感傷的になった。

「……父上と血の繋がりの無いことがわかったのは、私がまだ八つのことです」

ふと口からこぼれた言葉に、上官殿の顔から笑顔が消えた。

「母上の不貞の果てに私は生を受けました。八年も過ぎて、本当の父親が現れたのです……厳格な軍人であった育ての父は、実の子である兄を残して母と私を勘当しました」

「……」

「兄は今ごろ父上と共に、あの戦禍の内にいるのでしょうか……母は、なんとか名誉を取り戻すため、私を士官に仕立てたいようです」

掌の中の茶が冷たくなっていく。

「功績が士官殿に認められれば士官学校への推薦が得られます。ですが仰る通り、ここは平穏そのもの……内心、安堵はしておるのです、命あっての物種ですから」

「……そうであったか、すまなかった」

「いえ……家庭の事情です、それに」

冷たい茶で唇を潤し、こう言った。

「上官殿と出会えて……嬉しかったのです」

「……そ、うか」

ようやく上官殿が表情を緩められたのが分かった。

「あ、あれか?」

照れたように頬を掻いたその指で、上官殿は空を指した。

「あの、星が五連に並んだ端の……」

「えっ……と、あ、そうです、乙女座のスピカです」

そのまま士官殿の手を取り、左手側に導いていく。

「そしてあの明るいのがアルクトウルス、その上にデネボラ」

「おお……おお! おれにも星座が見えたぞ!」

この少年のような笑顔が見たかった。
つられて私も笑顔になった。

それからしばらく、二人で春の空の星座を探した。
二人でひとつの毛布にくるまり、覚えている星座を全てなぞった。
次第に眠気がやって来て、私は半ば上官殿の肩に身を預けている状態だった。

「……そう言えば」

ぼんやりした口調で上官殿が口を開いた。

「お前に熱を上げてる女子はおるのか?」

「あ、ありませんが……」

「そうかあ? この長身の美男子が見えぬのか女子共は……」

突然何を言い出したかと思えば、上官殿は懐から徐に一枚の写真を取り出す。

「それは」

「これか? へへ、女房だ」

「え……ッ!?」

それを聞いた途端、何故か心臓が跳ねた。

「んー? おかしいかー?」

「い、いえ、そんなことは」

「へへへえ……」

上官殿は写真を抱いたまま、静かに寝息を立て始めてしまった。

何故、かように動揺してしまったのか。

口の中が乾く。

両の手がしびれる。

その指に、あの温もりを思い出す。

上官殿の指の質感を。

「はぁ……」

ひとつ深呼吸して気持ちを落ち着かせた。

何を考えたのだ、私は。

何を期待しているのだ、私は。

尊敬の念を抱く上官殿に奥方があって、何をここまで動揺するのか。

私は、上官殿に……?

……違う、これはあくまで尊敬の形なのだ。

女と聞けば不貞の母上を思い出す、私の悪い部分が歪んだ形で現れたのだ。

上官殿は男子の鏡、奥方への愛に満ちていらっしゃる方に違いない。

そう……違いない。

「……ッ」

眠った上官殿の手を握る。

豆だらけで岩のような手。

それでも、暖かい。

この気持ちはなんだ?

嫉妬か?

忘れてしまえ、男子には必要のないものだ。

男子とは上官殿のように、からっと爽やかで、竹を割ったように真っ直ぐであるものでなければ。

なのに、この胸に去来する女々しい感情は何だ。

私が、乙女座の生まれだからだろうか。

「……そんなのは、言い訳だ」

そうひとつ呟いて、この気持ちにけりを付けた。



後から他の下士官に聞いた話では、上官殿には弟君と妹君があったそうだ。
数年前、身体の弱かった弟君は流行り病で命を落とした。
その弟君と私が、大体同じくらいの年格好であることが、私を可愛がる理由のようであった。

平民出の上官殿に奥方は無く、あのとき冗談めかして見ていた写真は、出兵前に撮影した妹君との写真であったらしい。

縁談でも持ちかけるつもりが、とうとう言い出せなかったのだろう。

それが何故なのかは、もはや解らない。

日々が何事も無く過ぎ行くなか、我が胸中に去来するは、上官殿をお慕いするその一念のみ。

御護りしたい、この方を。

我が身我が命に換えてでも。

私の人生に咲く笑顔の華を。

全てを敵に回しても。



「……ッ、げほッ、げほッ!」

きな臭さに目を覚ます。

遅れて全身に痛みが走る。

熱と光に曝されて目を開けば、物見やぐらが燃えていた。
その傾いた根本には、我が国の戦闘機が突き刺さり火種と化している。

「……ぅ、官殿……?」

突然のことにまだ頭が混乱している。

何があった……?

敵襲……?

「上官殿……!?」

なんとか立ち上がる。
足首に痛みが走る。
爆風に飛ばされ痛めたのか。

爆風……!?

「上官殿ッ!!」

身体中の痛みを堪えながら、変わり果てた周囲を見渡した。

何人かの見知った顔が熱に焼かれて倒れていた。

茜色に燃える空にはプロペラの音が幾重にも幾重にも鳴り響き、何匹もの黒トンボが春だと言うのに追いかけっこに高じていた。

「……!」

熱風に煽られ花を散らす桜の木の下に、そのお姿はあった。

「上官殿……ッ!」

痛みも忘れて駆け寄った。

この身のなんたる遅いことか。

「上官殿、ご無事でッ!」

「……あ、ああ……」

その口から微かにお声が漏れた。

「……よかった」

そう言葉がまろび出た途端、地に突いた膝が濡れていることに気づいた。

上官殿の血だまりだった。

「……お前は……無事か」

「はいッ、上官殿ッ、お怪我を……」

炎に照らされているせいか、上官殿の左胸下の裂傷に気づくのが遅れてしまった。
見るからに深い。
上下する胸すら痛ましい。

「本部に……知らせなければ……ガフッ」

咳と共に鮮血が口から溢れだす。

「駄目です……動かれては、駄目です」

「……解らないものだなあ……人生というものは……」

痛みに歪む上官殿の顔。
その瞳に映る空には、まだ互いに追いかけ合う飛行機の群れが影を落とす。

「通信機をお持ちします、どうか……」

そう立ち上がろうとする私の袖を、上官殿が掴んだ。

「……はは……情けない、ものだな……」

「……上官殿?」

「心細いのだ……側に、いてくれないか……」

弱々しく、上官殿は微笑んだ。

「……私は、お側におります……」

上官殿の震える手を握り、絞り出すようにしてそう告げた。

冷たい手だ。

なんと、冷たい。

「……相変わらず……女子のような綺麗な指だ……」

握り返すその指から、あの力強さは消えていた。

「……軍人、失格であるな……国の、ゆ、有事に……私情を優先してしまうとは……」

「……人として、それは致し方の無いことです……私は、いつでも上官殿のお側におります」

本当は今にも駆け出したかった。
助けを呼びに行きたかった。
手当てして差し上げたかった。

それでも、この手を離せなかった。

この手を離してしまったら、貴方が居なくなってしまう。

貴方が居ないと、私は全てを間違えてしまう。

「ッ、く……ァ……!」

「上官殿ッ……!」

「くゥ……痛むな……ッ」

精悍なお顔が苦痛に歪むその様を、私はただ見ていることしか出来ない。

「……んぺい……」

「……はい」

「……何でも良い……少し……気を紛らわしてはくれないか……」

それでもこの方が、私に向けるその瞳は、涼やかに澄んでおられるのだ。

「……上官殿……」



私は、上官殿と接吻を交わした。



互いの舌が、互いを求めるように縺れ合った。

口中には上官殿の血の味が広がった。

溢れ滴る私の涙が上官殿の頬を伝った。

やがて確かに握り返していたその手から静かに力が抜けていき

私の手から地へと虚しく抜け落ちていった。



「……」

動かなくなった上官殿を一度だけ抱擁してから、私は静かに立ち上がり、覚束ない足取りで近くで倒れていた通信兵の亡骸に歩み寄った。

『……区観測所、87区観測所、どうし……応答……よ!』

背負われていた通信機から割れた声が漏れている。

「……」

私は受話器を手に取った。

「此方87区観測所、現在当観測所上空にて航空隊が交戦中、苦戦の模様……至急応援乞う」

『なッ、馬鹿な……何故』

「当観測隊は対地攻撃を受け、隊長殿を含め死者多数……負傷者少なくとも一名……航空戦力の増強を優先されたし」

『ほ、本部了解、直ちに近隣部隊に応援を要請する!』

「了解した」

私は静かに受話器を置き、足を引き摺りながら上官殿の元へと戻る。

「……報告、終わりました」

膝を突き、体温の失われていくその頬に手を添わせた。

この方は、死んではならぬ方だ。

否。

上官殿の魂は、既に私と共に在られる。

私の中で生きておられる。

私が上官殿の新たな器と成るために、私の魂は今ここで死んだのだ。

ここにはあの乙女座の、女々しく矮小な魂は居ない。

私はあの接吻で死んだのだ。

「……ご安心ください、上官殿」

彼の脱け殻に身体を添わす。

「ここには私の墓標を立てます……未来永劫、貴方の側に私は在ります」

安らかなるお顔に両手を添わす。

「そして私は貴方として、貴方の愛したこの国を生涯護り抜きましょう、三千世界その全てを敵に回そうとも、我一人の修羅として、生涯闘い抜きましょう」

そして私は立ち上がる。

「さらば乙女座の恋心よ、我が恋愛は終止せり」

燃え上がる桜の枝から輝く花弁が空に舞う。

「そして今より私は貴方です。全力を以て貴方の魂を護り抜きます」

私は全てを罰せねばならぬ。

貴方を奪ったこの戦禍を。

憎き蛮国の畜生共を。

そして貴方を御護りすることの出来ないこの不肖を。



貴方の亡骸と共に葬る我が心に掛けて、私は全てへの復讐を誓う。



おれはひとりの修羅なのだ。



【乙女座の墓標 -了- 】
最終更新:2014年04月12日 23:04