少年は自分が“普通でない”ことを、どこか望んでいる節があった。
日が昇ってなおその村は何故か薄暗かった。
だが真夜中に比べ確かに部屋の中は明るくなったので、少年は自然とまどろみから現実へと引き戻される。
彼は上体を起こし、少しだけぼんやりと虚を見つめてから
「おはよう」
と、誰もいない部屋の中で呟いた。
日常は彼にとって何処か的外れで面白味が無く、また長い目で見るならあらゆる物事が不利に働いた。
彼は別段何をしたわけでもなく、目につく程の容姿すら持ち合わせている訳ではない。
むしろ彼は謙虚で礼儀正しく、もの静かな子供だった。
だが何故か彼には独特の存在感があり、周囲からは浮いていた。
幼少の頃から彼に纏わりつくその“違和感”に、同世代の無垢な子供はそれと恐怖を結びつけ、やがて成長した彼らは敵意という物を知り、自然とその矛先は否応なしに気に障るその“違和感”へと向けられた。
それを大人達は確かに見ていたのだが、表面上の擁護はそれほど意味を成すことはなかった。
なぜならば大人達の胸中にも、少年が放つその異様な“何か”に対する確かな怯えが根付いていたからだ。
それでも彼は謙虚でありつづけた。
抵抗すれば彼の“非”になるからだ。
保護者という建前上、親、親族も彼には相応の接し方を努めたが、彼にはそれすらも躊躇させるだけの、異様な圧迫感を他者に与えていた。
そして彼はやがて“忌むべき子”と呼ばれていた。
彼の前から人は姿を消してしまった。
少年はその原因を自分に見いだした。
自分が何か間違っているのだろう。
故に彼は嫌われている。
そう思うのが簡単だった。
彼が産まれてこのかた、村には日の光が差すこと無く、まともな作物も育たないまま地は痩せていった。
野の獣すら寄り付くことなく夜は静寂に包まれ、白む空に鳥の鳴き声はなかった。
やがて人目を避けるように遊ぶ彼が愛した花は悉く枯れていき、羽虫すら彼を避けて飛んだ。
彼は別に何もしなかった。
ただ結果がそうなっていた。
彼は日暮れまで肌寒い無人の村の中を、盗んだ詩集を朗読しながらただ一人宛もなく歩き回った。
その声を聞くものは彼の他に誰もおらず、野の虫すらそこには居なかった。
彼は世界に嫌われていた。
彼の親が行方を眩まし、どれ程の月日が経ったことか。
いつしか村は無人であった。
少年は今も同じ部屋に暮らし、言葉を交わすでもなく、日に数度村を去った聖職者が後ろめたさで家の前に置き去っていく食べ物を感謝の気持ちもなく食べて過ごした。
揺らぐ意思を戒めるための自傷癖は無くはなかったが彼に自害の意思は無かった。
非が思い付かなかったからだ。
むしろ関わるべき人間が居ないというのは反って自由で清々しかった。
隣人の家の戸を破り、いかなる物を私物化しようと彼を責める者はいなかった。
あるいは神すら彼を見放していた。
彼には自分という存在について、考える時間が十分にあった。
産まれてこの方、自分が何故か忌み嫌われ拒絶される存在なのは十分に解った。
彼はそれ故に、他者に不快感を与える事の無い立ち振舞いを常に実践してきたし、それでも不快感を示す人間が居ることをわかっていたから、できる限り他人に干渉することの無いよう努めてきた。
礼節を欠くと不愉快であることを身をもって知っているからだ。
礼節を欠き、配慮に欠く者を彼は人として認めたくなかった。
高尚で慈愛に満ち、思慮深い人間こそが本当の人間であると彼は考えていた。
彼はそう言う人間でありたかった。
人として正しくあるために彼には深い思慮が必要だった。
そしてそれを傲慢なく客観視するために他者の意見も必要としたが、彼の身の回りに他者は存在しなかった。
時折やって来る聖職者に、自らの哲学についての意見を求める旨の手紙を残したが、何故かそれは受け取られることが無かった。
彼には幸いにも人並み以上の創造力を持ち合わせていたので、彼は頭のなかに友人を作り上げ、二人で互いの意見を交わしあった。
これほどまで忌み嫌われる存在が、果たしてこの世界に必要だろうか。
ある日、見えない友人はこう述べた。
『敵がいなければ自分が正しいことを証明できないのさ』
敵は自己を否定し、その敵を倒すことで自己は肯定される。
逆に強く倒せない敵と戦い敗北すると言うことは、存在が敵に劣ることの証明である。
『だから人は弱い敵を完膚無きまで叩き潰す。強い敵の目から逃れながら』
人は常に、自分の存在を脅かす敵に怯えている。
怯えているから、より自分の存在を強く強く保たねばならない。
例えば戦闘力。
例えば経済力。
またあるいは影響力。
自分より弱く劣る者をその足元へ組伏せて、より大きく強く保たなければ消されてしまう。
あるいはある程度の力を持つものならば、自分より優れたものをあの手この手で貶めて、自分より劣性にすれば勝つことが出来る。
自分自身の安寧の為に、彼らは常に勝たねばならない。
矮小な存在はひとりで勝つことが出来ないから、例えば力あるものに与して加護を得たり、またはひたすら数を増やして強い一人に数で対抗しようとする。
人で無くても同じことだ。
自然界に至っては、すべてそのように出来ている。
自身を脅かす者に対しての行いは、人も獣もかわらない。
つまり彼の中にあっては、それらは“けだものの行い”なのだ。
彼はいつしかこう思った。
自分がどこか“特別”だから、たくさんの矮小な人間が自分の存在する意味を脅かされているのだ。
僕の何が優れている?
僕の何が他者を怯えさせる?
『君の存在そのものさ』
『君の存在はこの世界に対して大きすぎる』
『存在の力が他者の存在を凌駕してしまう』
何故そのような事が起こる?
ただ産まれてきただけなのに。
『存在もまた個性なのさ』
『産まれてきたときから存在が希薄なものもいる』
『むしろ今は、その方が多いかも』
その小さな存在たちが、自己の消失に怯えながらも、自己を肯定させるために、自ずから“敵”の存在を望んでいる。
その矛盾し歪んだ願いが、世界に“敵”の存在を肯定する。
僕は彼らを脅かす“敵”。
だから彼らは僕を怯え、否定する。
そうすると安心するから。
強いものをねじ伏せる力を持つことを認めてもらえるから。
『こうして世界はそれだけの為に、否定されるべき“敵”を作った』
「否定されるべき、敵……」
『そうさ、君は』
“魔属”なんだよ。
古来より人々は、自己の存在を脅かす存在に対して畏怖の感情を抱いてきた。
こと、自分と大きく異なるものに対して、人々はそのあり方を呪われた言葉で否定することで自身の存在を肯定してきた。
曰く、“普通じゃない”。
その畏怖の感情は本能的に持ち合わせているもので、人は本能として、普遍的であることと安寧を関連付けてきた。
その安寧を脅かすものを、彼らは“魔”と呼んで忌避し続けてきた。
“魔”は時に人を誘惑し、堕落させ、破滅へと導いてきた。
あらゆる価値観の人間たちが、自身の身に振りかかる災禍を“魔”の仕業として片付けてきた。
そうして“魔”はあらゆる“悪”、そして“敵”として否定されうるものと定められた。
村人は、不気味な少年を“魔”として放逐した。
“魔”を葬ることは正義だった。
村人たちはこうして、ひとまずの安寧を得た。
しかし“魔”は未だ村に巣くっている。
人々は報復を恐れ、怯えていた。
行われた正義が否定され、自分達が否定されることに酷く怯えていた。
さらなる正義が行われる必要があった。
より強い正義が。
炎が渦巻いていた。
深夜、彼は熱と煙に眠りを阻まれ、慌ててねぐらを飛び出した。
大人達だった。
怯えきった表情が炎に照らされ、少年の目にすらより恐ろしいものに映った。
「今宵」
力強い声が濃い闇とそれを焦がす炎を揺るがす。
「我らが神の御名のもと、闇より出し異端の子に慈愛ある浄化をもたらすなり」
頭頂から白い布を被り、その姿を隠した五人の異端審問官が、少年の周囲を取り囲む。
「“魔”を宿し安寧を破る哀れなる運命の子よ、その魂は主の元に送られ」
大腿に激痛が走った。
撃ち降ろされた槍が深々と刺さっていた。
少年は叫んだ。
「“魔”は浄化の炎に焼かれ、その清き心は解放される、かの子に冥福あれ、幸いなれ」
審問官の聖句と共に、二本目、三本目の槍が少年の小さな体に突き立った。
四本目が突き刺さると同時に声すら出なくなった。
「神よ、運命の子に慈悲あれ、かの子に罪はなし、尊きその犠牲に我らは祈りを捧げ、その魂を」
言葉はもはや届かなかった。
悶え身をよじる少年の姿に人々は、そして審問官は、明確な恐怖を敵意で塗りつぶした視線で見つめていた。
「永遠の地へ送るものなり」
そして槍に火がくべられた。
そして炎が少年を包んだ。
そして彼の“枷”は外れた。
「あ、あ、あああああああッ!!」
村人は叫んだ。
そこには“恐怖”があった。
“恐怖”に耐えられなくなった精神はその受け止めきれない力を声や逃走への本能に変えてやり過ごそうとした。
しかしそれは叶わなかった。
急激に膨れ上がる“存在の力”が、罪悪を隠し持つ人々の胸中に莫大な“恐怖”を送り込む。
それに耐えきれず破裂した矮小な人々の“存在”はそのまま物理的な肉体すらも引き裂き、強大な“存在”の奔流に飲み込まれて消えていく。
この場所に対してあまりに大きすぎるものの“存在”が、他の存在を飽和してしまうのだ。
肉体の枷を失い、精神界から実在へと顕現していくその“存在の力”は、少年を葬り自身を肯定しようとしていた矮小な人々を次々と無惨に吹き飛ばしていく。
それを俯瞰する少年の“意識”は、特にその力を振るうことを考えていた訳ではない。
降り立つ大地に蟻が居たのを気づかず踏み潰しているのと同じことで、少年が本当に持っていた“存在”の重さが、矮小な人間より遥かに大きかっただけの現象だった。
そこに悪意も故意も存在しなかった。
少年の意思とは何の関係もなく、行われてきた行動の結果として彼は“魔”として転生した。
彼の、彼らの身に振りかかった一連の出来事に対して
「……ふふ」
彼は悲しげに冷笑した。
世界は、三つの“相”に分かれている。
物質がものの存在を繋ぎ止めている“形相界”
存在を裏から支えるあらゆる理が渦巻く“質料界”
その仲介を果たす“意思”の所在地“精神界”
複雑な概念を持つものは、形相界と質料界の間にその存在を保つための“意思”を持っている。
我思う故に我在り。
思考が両界の関係性を取り持つことで“存在”は保たれ続ける。
三界の調和が健全な存在を保つ。
だがそれは稀なことだ。
多くの人間が物質に重きを置き過ぎて内容の無い存在に成り果てる。
そのような人間にとって、質料界に重きを置く精神は、自身に無い概念的側面を圧迫する疎ましい存在であった。
こうして“魔”の概念は作られた。
忌むべきものとして。
少年の質料界での側面に隠されていた強すぎる“存在の力”は、形相界を歪ませ村があった場所に“魔界”を生じさせていた。
言わばそこは魔属の精神世界。
肉体という“実体の側面”を失った彼の新しい現実となる。
彼の居城は凍てついた聖堂のような厳かさと静寂を持ち、だが闇はどこか穏やかでやさしかった。
美しく磨かれた黒曜石のごとき黒い輝きを放つ床面に写る少年の姿は、魔王のそれにふさわしい見事な衣装に包まれていた。
「見事なものだ」
少年は声の先に向き返る。
そこには、艶々と輝く黒い鎧の騎士が佇んでいた。
「……何もかもが自分の意思の外にあって、気分がいいわけがない」
少年は騎士に微笑みかける。
「それが運命というものだ」
「……君が仕組んだ運命じゃないのかい?」
少年は、騎士が自身の“見えざる友人”であることに薄々感づいていた。
「……目的は察しの通り、だが遅かれ早かれ、こうなることに変わりは無かった」
騎士もまた、一人の魔属であった。
他の魔属との抗争に破れたか、その存在の消滅を危ぶまれていた彼は、少年の精神に隠れ復活の時を待っていた。
彼ら肉体を持たない存在は、その核を質料界に持っている。
故に彼らは、自身の概念が失われることで滅びるのだ。
魂は忘れ去られると消えてしまう。
同じようにして、古代には魔属はおろか伝承の途絶えた神々も滅び去った。
それを見るものの主観の違いというだけで、魔属と神は同様の存在なのだ。
彼ら魔属が存続し続ける為には、その伝承が失われることのないようにしなければならない。
そのために彼らはその軍勢を拡大し、実界の人間に永遠の畏怖を与えなければならない。
彼らの存在を脅かすものとして。
神と同様に魔属にも、矮小な人間達によるその概念の裏付け、すなわち“信仰”が必要なのである。
無論、その為に行われるのは善意でも良いのかもしれないが、善意は恐怖より失伝しやすいのは事実だった。
故に魔属は常に人間の敵である必要があった。
「僕を懐柔する?」
少年は騎士に笑いかける。
騎士は自身の存在を維持するために、新しい魔属である少年を利用する事を考えていた。
あの村の一件を見れば、少年が相応に強い力を持つ魔属と化したことは確かだった。
産まれたばかりの魔属が、その存在の力だけで村をひとつ滅ぼし魔界化させるのは並大抵のことではい。
その邪悪な力が軍門に下れば、騎士はより強大な“畏怖”を得られる。
「……いや」
だが騎士は少年に跪く。
「貴方にお仕え致します」
「……」
少年はその真意を図りかねた。
世界が許容できる“存在の総量”には限りがある。
故に取るに足らない人間よりその存在が重い魔属達は、互いの存在を維持する為にその存在権すら奪い合う。
それなのに騎士は自らの存在を貶めてまで、少年の軍門に下るというのだ。
「……何故」
「新しき魔王の誕生に、魔を運命付けられたものとして何か期待するところがある」
騎士は頭を垂れたまま答えた。
「……新しき魔王、か」
少年は自傷的に微笑んだ。
気づけばその手に、美しい黒曜石の剣を携えている。
「結局、何処に行っても、支配するもの、されるものも対して変わらないな」
「あなたがそれを変えるのでは、と私は期待するのです」
「……何をすればよいやら」
新しき魔王は静かに肩を竦めるとその剣を騎士の肩へ渡していった。
「ではまず、僕になすべきことを示してほしい、古き魔王、僕のメフィストヘレスよ」
「御意」
鎧兜から覗く騎士の口許は、充足した笑みを浮かべていた。
-了-