昨晩から続いていた酷い倦怠感の正体は今朝目覚めてようやく理解した。
指先や顔中に、うざったい糸がまとわりついている。
一瞬の恐怖感が通りすぎたあと、僕の肩にはどっと虚しさがのしかかった。
蛹になる日が来てしまったのだ。
ショックにふらつきながら、ベッド再度の引き出しから、市民カードを徐に取りだし、裏面に貼り付けられていた銀紙を剥がす。
成人の日に配られる羽化抑制剤の錠剤を二粒そこから飛び出し、取り敢えず飲み下した。
剥がした銀紙の下には、抑制剤は一回の服用で約12時間しか効果がないこと、羽化が始まったらなるべく早く医療センターに電話することの旨が簡潔に書かれていた。
顔にまとわりつく糸を恐れと苛立ちのない交ぜになった気持ちで拭い取り、ひとまず職場に電話することにした。
上司に羽化が始まってしまった旨を伝えると、ひどく落胆したような声色で、残念だよ、と返された。
いろいろと仕事を残してしまい申し訳ない気持ちはあったが、僕自身、こうなってしまった以上はどうすることもできなかった。
続けて市民カードの裏面の電話番号に駆けると、30分しないうちに救急隊がやって来た。
厳めしい防護服姿の救急隊員が発した歩けますか? との柔らかな問いかけに、はい、とだけ答えて、促されるまま救急車に乗り込んだ。
命に別状あるわけではないのでサイレンも鳴ることなく、救急隊とあたりさわりない会話を続けているうちに医療センターにたどり着いた。
そこで医師から羽化のメカニズムについて説明があった。
幼少期、僕らは既に羽化ホルモンの抑制措置を受けてはいるが、それでも時期が来ると羽化ホルモンが過剰分泌されてしまう個体が一定数存在するという。
それはもう避けられない事態であり、遅かれ早かれ、羽化が始まれば体は勝手に蛹になってしまうのだ。
蛹の中で僕のからだはどろどろに分解され、別のものに作り変わる。
その際、羽化以前の意識を保ち続けることは不可能だと言われている。
つまり、僕は生物としては生き続けて行くとしても、僕の意識は死んでしまうも同義なのだ。
一応、先程同様に羽化抑制剤を一定時間おきに接種できるなら羽化を遅らせることも可能ではあるらしいのだが、それでも羽化を止めることは出来ないのだと言う。
僕の一生が終わる日が定まったようだ。
帰宅し、今朝に比べて糸のまとわりつきが減ってきたことに若干の安堵を覚えた。
そして倦怠感にかまけて四肢をベッドに投げ出した。
羽化が進むと回りの個体に羽化ホルモンの分泌を促してしまう場合があるため、極力外出は避けろと言われ、残りの時間を自宅以外で過ごすことはできなくなった。
そうしてしばらく、薄明かるい昼間の天井を、ぼんやりと無気力に眺めていた。
ふと、今までの仕事の忙しさで散らかしたままにしていた部屋を一瞥した。
こんなたくさんのものを、なんのために持っていたのだろう。
こうして蛹になっていく僕には、そのすべてが無意味なものになってしまった。
羽化した後に現れるものは、これら無意味なものをどうするのだろうか。
それを知る術は僕には無い。
ふと、力の籠らなくなってきた手で携帯を手に取り、着信履歴から番号を呼び出し発信した。
そして留守番電話にこう吹き込んだ。
いままでありがとう。
ごめん。
さようなら。
終わりの時が近づくにつれて、自分がどれだけ無価値だったかを考えた。
いままでなんのために生きてきたのか。
僕の次に生まれてくる何者かに、何もかもを奪い取られる、そのために生まれてきたのだろうか。
涙だけが溢れてきた。
恨み節は言葉にならなかった。
もう既に声すら出なくなっていたからだ。
なぜ彼は、僕を愛してくれたのだろう。
僕は、なにも残らないのに。
彼は羽化後の僕も愛するだろうか。
それが悔しくて別れを告げた。
どうせ、何の意味もなくなるのだから、理不尽な別れの方が彼の目も覚めるだろう。
僕には、何の価値も無い。
ただ、さなぎになるだけの人生でしかない。
いつの間に眠っていたのか、目の前が夕焼けの色に染まっていた。
繭が分厚く、眼前に広がる。
ふと、自分を抱き締める腕に気がついた。
彼が、僕の隣に寝ていたのだ。
なぜ、そう問いかけた。
俺はお前が好きだから。
彼はそう答えた。
ひとつの繭に、二つのからだが包まれていく。
僕にはわからない。
なぜ、彼はここにいるのだろう。
何の価値も無い、僕の隣にいてくれるのだろう。
きっとやがて、そんなことすらどうでもよくなってしまうのだろう。
僕ら二人は解け合って、それからどうなってしまうのだろう。
彼はそれでも幸せそうに目を閉じた。
僕にはそれがわからなかった。
僕が悪いのに。
ただ僕がいなくなるだけなのに。
なぜ彼はここにいて、
そして、いなくなろうとするのだろうか。
彼はそれで幸せなのだろうか。
なにもわからないまま、涙がひとりでにこぼれ落ちた。
-了-