【くもり、ときどき、どしゃぶり】#1
今日は一日どんよりとした天気、ところにより小雨が降るところもあるでしょう――朝のテレビでは、そう言っていた。でも、東京本土の予報なんて、希望崎学園には当てはまらない。海に囲まれた広大な埋め立て地である地理的特性に加え、天候操作能力者もいる。キャンディが降ることさえある。
そして、今日の希望崎学園は、予報と大違いの土砂降り。傘をさしても膝から下がぐしょぐしょになる酷い雨降りの中、ヤモっちからのLINEメッセージを見た天紗堂理佐は、屋外祭事ステージにやって来た。吹き晒しの観客席には誰も居らず、屋根のついた舞台の真ん中にヤモっちが俯いて立っていた。
ヤモっちの大きな目は、真っ赤に充血していた。目許に、涙の跡。「理佐ぁ……」ヤモっちは弱々しい声。「どうしたの!? ……酷い顔」理佐が傘を畳みながら問う。「うん、あのね……」ヤモっちは地面を見詰めて、言った。「何も言わずに、あたしのこと、ぎゅっと抱き締めてくれない、かな?」
ただ事でないヤモっちの様子に、理佐はとても心配になった。ヤモっちは親友だ。理佐は、親友が思い悩んでいる時に、抱き締めてあげようとしないような冷血無情の人間ではない。だが、理佐は冷静に状況を見極めた。「……ひとつだけ、聞かせて。ヤモっち、どうして普段履いてる靴じゃないの?」
通常、ヤモっちはフラットソールのクライミングシューズを履いている。いつでも気が向いた時に、壁を登ることができるようにだ。ちなみに腰のヤモリ柄ポーチには、ハンカチやリップ等の他に、滑り止めのロージンが入っている。だが、今のヤモっちは、裸足にサンダルである。その意味する所は――
「ふふ、さすが理佐だね。お見通しだね」ヤモっちはサンダルを脱ぎ捨て、理佐に歩み寄る。「ヤモっち……何する気なの?」理佐は後退りしながら、腰の曲刀に手を掛ける。「番長グループ……最初は無理矢理、拉致されたみたいに巻き込まれたけど、でも理佐と一緒であたし、結構楽しかったんだよ」
「
ラ・ピュセル君のしっぽ、すごかったね。本当の竜みたいだったよね」番長グループの楽しい想い出を語るヤモっち。だが、その表情には理佐への憎しみがありありと浮かんでいた。強い雨がバラバラと屋外ステージの天井を叩く。「お願い、馬鹿な真似はやめて!」理佐はヤモっちに懇願する。
「アモルさんとNAKIさんに挟まれて、あたしが死にそうな顔で困ってた時、理佐は助けてくれたよね。でも、それはもう昔のはなし」ヤモっちの身体から毒粘液があとからあとから溢れ出し、ステージの上にボトボトと落ちる。毒粘液は、ヤモっちの心を一杯に満たして溢れ出した暗い感情だ。
「ジロマルちゃんが折り紙で四聖獣を折ったとき『どっちがヤモちゃんだか解らない』って言って笑ったね。楽し……かった、よ」「兄さん……」理佐の合図で肩から蜥蜴が飛び離れる。ヤモっちは前転跳びで一気に距離を詰めて「ヤァーッ!」跳び回し蹴り! 理佐は床に臥せるように回避して抜刀!
低姿勢から理佐の曲刀が空中のヤモっちへと斬り上げられる! だが、理佐の心には戸惑いがあり太刀筋が甘い。ヤモっちは素足の脛でガード。毒粘液の潤滑で斬撃を逸らす。着地後すかさず理佐の腕を掴みにゆくヤモっちだが、理佐の曲刀が素早く地を這うように襲いかかる。小さく跳んで回避!
【くもり、ときどき、どしゃぶり】#1 おわり
【くもり、ときどき、どしゃぶり】#2
地面を這うような天紗堂理佐の蜥蜴剣術。カポエイラにも似たアクロバティックなヤモっちの我流格闘術。希望崎学園の屋外祭事ステージで繰り広げられる戦いは、曲芸めいて流麗なものであった。だが、季節外れの激しい雨に曝された観客席には誰もいない。旋回。旋回。戦いの輪が、回る。回る。
(どうして、ヤモっちと戦わなければならないの……?)理佐の心から戸惑いが消えることはなく、それが太刀筋の鋭さを僅かに鈍らせヤモっちを捉えきれない。(憎い……理佐が……憎い……!)ヤモっちの全身からは毒粘液がとめどなく溢れ出す。ヤモっちの我流格闘術は、蜥蜴剣術の達人である理佐には及ばない。
だが、打撃を入れる必要はない。倒立旋回しながらの蹴りは空振り。小さいジャンプで曲刀を飛び越えながらの裏拳も空振り。これでいい。回転打撃に伴い、ヤモっちの全身を覆う毒粘液が遠心力で飛び散る。その飛沫全てを回避することなど、いかなる達人でもおよそ不可能な芸当だ!
理佐の指先が痺れ出してきた。ヤモっちの神経毒が、少しづつ効果を及ぼし始めたのだ。(このままじゃ……やられる!)理佐はヤモっちを斬る覚悟を固めた。その時! ステージを眩しい光が照らし出す! 理佐の兄であるトカゲが、照明装置の電源を投入したのだ。突然の強い光に怯んだヤモっちの回転が一瞬止まる。
そしてヤモっちに襲いかかる、巨大なトカゲの影。ステージ照明のすぐそばに立った理佐の兄が、怪獣のように巨大な影を投げかける。その影が自在に動き、ヤモっちを包み込む! 黒い影が集中!『フラット・リサーチャー』に実体はない。だが、その影は色を持ち、相手の視覚を奪い去ることができるのだ!
夜目の効くヤモっちにも見通せぬ完全な闇の帳が下ろされる。理佐の地を這う曲刀が、ヤモっちの足の健を狙って振るわれる!「ギャアーッ!」苦悶の叫びを上げたのはトカゲ! 理佐の兄! ヤモっちは斬撃を避けずに片足を棄てて曲刀を受け止める! 骨まで達する深い傷! ヤモっちは倒れ込む!
理佐の兄は、影と感覚を共有している。影がヤモっちに取り着いた時、毒粘液の臭気と酸味が理佐の兄を襲ったのだ。それは、体長30cmの大トカゲを一瞬で昏倒させるのに十分な刺激であった。そして、脚に深い傷を負ったヤモっちはそのまま倒れ……理佐の左腕を掴むことに成功した!
「ふふ、捕まえたよ、理佐ぁ……」直接接触毒粘液! 理佐の皮膚から神経毒が浸透してゆく! 指先から手首。手首から肘。痺れが広がり、自由が奪われてゆく。(――『尻尾切り』!)理佐は左腕を自ら切断、転がり落ちるようにステージから観客席に逃れる。
しかし、もう手遅れであった。強い雨に打たれる観客席に逃れた理佐は、立ち上がろうとしてよろめき、座席に脚を引っ掻けて再び倒れた。自切が間に合わなかった。既に胴体まで神経毒が回っていたのだ。ヤモっちは片足を引き摺りなら観客席に降り立ち、仰向けに倒れた理佐の上にのし掛かる。
「教えてヤモっち……なんで、こんなことするの……?」ヤモっちに組み敷かれ、神経毒で痺れた唇から、弱々しく理佐の声。理佐の左腕は自切により失われ……右腕もない! 毒が回る前に切り離せた右腕が『尻尾切り』による遠隔操作で曲刀を拾い、背後からヤモっちを貫く!
この期に及んで、理佐にはまだ迷いがあった。ヤモっちの脇腹を貫通した曲刀だったが、それは致命傷には至らなかった。「あいつ……言ったんだ……」ヤモっちは、怒りと悲しみと憎しみと愛情がごちゃ混ぜになった、ぐちゃぐちゃの顔で言った。激しい雨が、ヤモっちと理佐の全身を叩き付けるように降り注ぐ。
「ごめん、って。あいつ、理佐のことが、好きなんだ、って」ヤモっちは、理佐の顔を両手で掴んだ。「だからあたしは、こうするしかなかったんだ」「ヤモっ……」理佐の言いかけた言葉は、ヤモっちの唇で遮られた。最初で最後のファースト・キスは、香ばしいチョコクッキーの味がした。
【くもり、ときどき、どしゃぶり】#2 おわり
【くもり、ときどき、どしゃぶり】#3
ヤモリとトカゲを見分ける最も判りやすいポイントは、まぶたが閉じるかどうかだ。しばらく観察していれば、トカゲならばまばたきをする。一方、ヤモリはまぶたが閉じないので、長い舌で舐めることで眼球を掃除する。……ヤモっちの舌も、割と長くて器用だ。自分の鼻の頭を舐められる程度だけどね。
強い雨が、屋外祭事ステージの観客席に降り注ぐ。両腕を失なった理佐を、ヤモっちは地面に押さえ付けて、唇を無理矢理奪った。ヤモっちの背中には、理佐の曲刀が深々と突き刺さっている。二人の身体は、雨と毒粘液でびっしょりと濡れている。ちょっと離れた場所で理佐の兄のトカゲは瀕死。
理佐の唇を割って、長い舌が強引に差し入れられた。神経毒で麻痺した唇はほとんど抵抗も出来ず、甘いチョコクッキーの味がする舌を受け容れた。理佐の舌がヤモっちの舌を外に押し出そうとするが、抵抗は力なく簡単に制圧された。理佐を征服しているという感覚に、ヤモっちは背徳的な達成感を覚えた。
理佐の口を大きく拡げると、ヤモっちは「う、うええぇーっ」と呻き声を上げて、腹の底からとっておきの特製毒粘液を出して理佐の口に流し込む。「むぐっ!? げぶっ、んんんーっ!?」強烈な酸味と苦味と刺激臭。理佐は眼を見開き、喉の奥に流れ込む毒粘液を吐き出そうとした。
しかし、ヤモっちは容赦なく毒粘液を理佐の口に流し込み続ける。「っ、ごぼっ、んぐ、ぐぶぅぅ……」喉の毒物排斥反射よりも強く流し込まれる毒粘液。理佐の鼻からも逆流した毒粘液が漏れるが、ヤモっちはそれでも後から後から毒粘液を流し込む。理佐への愛憎が入り混じった苦い毒粘液を。
理佐の全身がガクガクと震え、そして、動かなくなった。理佐の両目は完全に上がり切り、白目を剥いている。ヤモっちは唇を離し、理佐のまぶたを指でそっと閉じた。毒粘液は強い雨が洗い流してくれるだろう。「ん……ぐうっ……」曲刀を背中から引き抜く。傷口は粘液で塞ぐ。医者にはかかれない。
「あたしのファースト・キスの味……あの世に行っても、覚えていてね」ヤモっちは動かぬ理佐の横に曲刀を置く。斬られた片足を引き摺りながら、意識を失なった理佐の兄のトカゲを拾い、妹の横に並べて寝かせる。そして、激しいどしゃぶりの雨に打たれながら、傘もささずによろよろと立ち去った。
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「くもり、お帰りー。あらあら、びしょ濡れじゃない」「ん……お風呂……」家に帰ったたヤモっちは、母親の出迎えにぞんざいに答えて浴室に向かう。雨は幸いだった。毒粘液も出血も、全部ごまかすことができたから。「っ……」刺された傷に、熱いシャワーが染みる。だが、胸の痛みはそれ以上だった。
怪我を母親に悟られないように、こっそりと自分の部屋に戻る。鞄の中から、空になったチョコクッキーの袋を取りだし、見詰める。涙が零れる。クッキーは手作りで、ちょっと焦げてて固く苦かった。「一日はやいけど、明日は休みだからね」だってさ。……義理のお返しなんて、欲しくなかった。
窓の外の雨はやみ、灰色の曇り空。だけどヤモっちの心の中は、どしゃぶり。いつまでも、いつまでも、どしゃぶり。天井裏では、留守番をしていた大ヤモリのキーちゃんが、ヤモっちのことを心配してキーキー鳴いていた。その声を子守唄にしてヤモっちは、赤く泣き腫らした眼を閉じて、眠りに落ちた。
最終更新:2015年03月23日 20:45