HMA

HMA(HumanoidMobilityArmor、エイチエムエー、ハマー、人型機動装甲)は装甲戦闘機動兵器の一種である。脚で走行し、火砲を搭載し、なおかつ強固な装甲を持つ、火力・防御力・機動力の能力バランスに優れた兵器である。

目次

1 概要
2 歴史
 2.1 大戦前
  2.1.1 黎明期
  2.1.2 発展
 2.2 第四次世界大戦
 2.3 戦後~現代
  2.3.1 戦後第一世代主力HMA
  2.3.2 戦後第二世代主力HMA
  2.3.3 戦後第三世代主力HMA
  2.3.4 ポスト戦後第三世代主力HMA
  2.3.5 戦後第四世代主力HMA
 2.4 将来
3 装備と構造
 3.1 過去の装備
4 兵装
 4.1 砲弾
5 装甲
 5.1 装甲の配置
 5.2 HMAの装甲の歴史
 5.3 増加装甲
 5.4 誘導弾対策
6 乗員
7 走行装置
 7.1 脚部
 7.2 推進器
8 兵器産業におけるHMA
 8.1 工業製品
 8.2 近代化改修
 8.3 HMA相当の戦闘兵器の開発
9 対HMA戦闘
 9.1 HMAの弱点
 9.2 歩兵による対HMA戦闘の歴史


概要


現代のHMAはほぼ主力人型機動装甲(HumanoidMobilityArmor HMA)の事を指す。
高い不整地走破能力をもち、正確で強力な砲撃による攻撃力を備え、敵HMAを含む対HMA兵器をもってしても容易に破壊されない戦闘戦闘の主役である。
何をもってHMAと定義するかは曖昧な部分もあり、また時代や組織、地域によって変化する。
22世紀初頭現在では大まかに
 全周攻撃可能かつ汎用化された腕部を有すること
 戦線を突破できるだけの防御力を持つ
 具体的にはあらゆる方向からの通常火器に耐え、正面は対HMA兵器に耐えうる
 走行装置が脚であること
 HMAをはじめとする敵装甲戦闘兵器を待ち伏せでなく積極的砲撃をもって撃破することを主たる目的とすること
 外部兵装もしくは内臓武装を用いて、あらゆる敵陸上部隊と直接的かつ持続的な戦闘を行えること
などが挙げられる。
ただ、保有する側がHMAと呼べばHMA扱いされる可能性もある。



歴史


第三次世界大戦後に機動戦の強化を目的とした兵器として開発された。戦間期から第四次世界大戦後にかけて、武装、重量、装甲厚と機動性などの違いによる多種多様な形態のHMAが登場し、戦場で評価されていった。
第四次世界大戦によってHMA部隊による運用方法が確立されてくると、求められる任務の大半をこなせる主力HMAに集約されはじめ、主力HMAでは対応できない要求に応じて作られた軽HMAや、水陸両用HMAといったものが最後まで残ったが、それも徐々に姿を消し、22世紀初頭現在では1種類の主力HMAにほとんど統合されている。


大戦前

黎明期

重機械工業による駆動機関の発達にあわせて、第三次世界大戦前より各国でのちにHMAと呼ばれる兵器の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。
第三次世界大戦で主戦場となったヨーロッパ~ユーラシアでは各軍互いに激しい砲爆撃の応酬を行ったため、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る山岳部の様相を呈し、都市部は複雑に入り組んだ迷宮と化し、戦車や装甲車など戦闘車両の前進を阻んでいた。また、対空火器や強化装甲服(後のMAPS)の発展によって近接航空支援が無効化。これらの閉塞状況を打破するため、索敵・攻撃・防御・制圧・占領を単独で行う新たな装甲機動兵器が求められた。
このとき注目されたのが、2062年に実用化されたばかりの人型作業フレームであった。これはアメリカのボルト社、現在のジェネシック・インダストリー社が世界で最初に実用化した搭乗式人型重機で、戦線後方での資材運搬や重作業、爆発物処理などに利用されていた。この人型作業フレームを出発点に、ヨーロッパ諸国などが、脚部によって不整地機動性を確保した歩行式装甲兵器の開発をスタートさせた。
イギリスでは陸軍大佐ハイネ=ウィンストンが、自走対空砲から着想を得て高機動自走砲として用いることを考えたが、このアイディアは実現されなかった。その一方、飛行場警備などに強化装甲服機械化中隊を運用していたイギリス海軍航空隊のマクレー・スウェスター海軍大佐が人型歩行戦車(Humanoid Walking Tank)の提案を行った。2065年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、「歩行戦車委員会」が設立され、人型装甲兵器の開発が開始された。
歩行戦車委員会による幾つかのプロジェクトののち、ボルト社・コング人型重機をベースに、2069年9月にアイアンコングを試作した。アイアンコング自体は、移動速度能力が低かったことから実戦には使われなかったが、改良を加えられたフェザーが2071年1月の公開試験で好成績を残し、マークⅠ人型戦車(Mk.I人型戦車)の元となった。
Mk.I人型戦車が初めて実戦に投入されたのが2073年9月11日、バクラム会戦の中盤での事だった。
世界初の実戦参加であったバクラム会戦でMK.I人型戦車は局地的には効果を発揮したものの、機動力の低さから、共産軍の重野戦砲直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた人型戦車の運用法では大部隊による集団戦を行う予定であったが、このバクラムの戦いで英国軍が投入できる人型戦車の数は50輌弱と少なく、結局膠着状態を打破することは出来なかった。
その後、2074年11月のマグリブの戦いでは世界初となる大規模な人型戦車の投入を行い、300機あまりの人型戦車による攻撃で成功を収めた。その後の共産軍の反撃で投入した人型戦車も半数以上が撃破されたが、人型戦車の有用性が示された攻撃であった。

発展

初めて「人型戦車」としての基本形を整えたのは第三次大戦中に登場したボルト社・イングラムという軽量人型戦車であった。
イングラムは、それまでのエンジンを内蔵した下肢駆動部に、箱型のコックピットと兵装保持アームを載せる形ではなく、直角に組み合わせた装甲板で外装を構成し、躯体となる駆動フレームで各部を繋いで無駄を省いた。小型軽量な機体と比較的長い脚部、足底部と踵に装備されたダッシュローラーによって優れた機動性を備えており、全周旋回頭部と高強度アームは良好な視界と共に1つの砲で360度の射界を持っていた。
イングラムは3,000機以上生産され、当時もっとも成功した人型戦車となった。第三次世界大戦後には世界各地に輸出され、輸出先の国々で最初の人型戦車部隊を構成し、また初期の人型戦車設計の参考資料となった。
第三次世界大戦から大戦後の間、各国は来るべき戦争での陸戦を研究し、その想定していた戦場と予算にあった人型戦車を開発することとなった。敗戦共産国軍も、制裁条約により人型戦車の開発は禁止されたものの、復興用重機と称して海外で人型戦車の開発、研究を行い、また当時の国際法適用外であった民間軍事技術企業と手を結び、ノヴァヤゼムリャ列島・ユージヌィ島内地に人型戦車開発研究センターを設けた。
第三次世界大戦中から第四次世界大戦直前までに開発された人型戦車は、大口径機関砲(35~75mm)を主武装にするものが多く見られた。これは当初、想定された戦術が集団での火力飽和であったためであるが、大戦終盤には戦車砲を主武装にした兵装に移行。また、何らかの推進機関を搭載し、瞬間的もしくは持続的な加速が可能な機種も出現した。
第三次世界大戦中を含め、各国において開発されたものは高機動型、歩兵支援型、小型、軽装型、重装型など多岐に渡った。これは人型戦車の運用に対する様々な戦術が新たに研究・提案された結果ではあったが、その多くは一長一短があった。
第三次世界大戦では、戦術的に、人型戦車を中心に、それを支援する歩兵、砲兵など諸兵科を統合編成された米国機甲師団が対共産国戦においてその威力を発揮し、人型戦車は陸戦における主力兵器としての価値を証明した。
この事実を重く受け止めた各国は、人型戦車の改良と増産に着手し陸軍の改変をすすめることになる。これによるシーソーゲームは急速な人型戦車の発展及び対人型戦車兵器の開発を推し進める原動力となった。このように各戦線で恐竜的な進化を遂げた人型戦車は、各戦線で戦った人型戦車をより根底から揺るがす事になる。しかし米国の人型戦車は量産性が高く、本国の高い工業力とあいまって大量の人型戦車の生産を継続。イングラム人型戦車は機械的な信頼性が高く、アメリカ軍の高い兵站能力とあいまって、多数の人型戦車を戦線に配置することができた。これによりアメリカ軍は数の優越で、質の劣勢を補うことができた。
一方、イングラムの成功によって多大な功績を収めたボルト社は社名をジェネシック・ヘビーインダストリー社に改名し、あらゆる人型歩行戦車を凌駕する新機軸機動兵器の開発を開始。人型戦車開発研究センターも買収と民営化によってハイダ重工と名前を変え、両社共に、戦車を超越した、人型の、装甲兵器の開発を開始。後の人型機動装甲の誕生である。

第四次世界大戦

2080年の第四次世界大戦の勃発と共に、各軍は人型歩行戦車の大量投入を開始。翌年2081年には、世界中のあらゆる戦線に人型歩行戦車が投入されていた。
その翌年、2082年の5月に、共産国軍側はハイダ重工製の新兵器、人型機動装甲を投入、戦線のあらゆる敵兵器を駆逐。遅れること二ヵ月後の7月、連合国側はジェネシック・インダストリー社製人型機動装甲を投入。翌年2083年10月、初の人型機動装甲同士の戦闘が行われた。
ハイダ重工社製人型機動装甲(ハイダ重工は人型戦車へのこだわりから、あくまでも“人型駆逐戦車”と呼称しているが、実質は人型機動装甲である)は、低重心・大重量・大装甲の重量級機体による縦深突破を得意とし、ジェネシック・インダストリー社製人型機動装甲は、高重心・軽量・高機動による打撃戦を得意とし、一長一短の激しい戦闘を展開。人型機動装甲は、人型戦車とは異なり、頑強な腕部と脚部による白兵戦(いわゆる殴り合い)が可能であり、単なる高機能兵装マウントあった人型戦車との腕部とは一線を画していた。また、このころになると、内燃機関は従来の水素インパルスエンジンから、より高出力で安全性の高いヘリカル型プラズマ熱核融合炉を搭載し、巨大な余剰出力は、より大出力な推進機関を搭載できるようになり、それによる大推力機動は、機体の高機動化を安易なものにした。
このように、人型機動装甲が戦場で多く見られるようになると、兵士の間では人型機動装甲を略称のHMAと呼ぶようになり、2090年、ジェネシック・インダストリー社は自社機動装甲ブランド“HMA”を発表・商標登録し、後にそれが一般的な通称として浸透した。
2100年代になると、戦線は地上から宇宙まで拡大し、重心変位姿勢機動制御とスラスターを用いた高機動装甲化宇宙戦闘機が投入され始めると、ジェネシック社はいち早く宇宙戦闘機技術をHMAに応用。三度の宇宙空間大規模戦闘を経て、ジェネシック社は傑作“HMA-h”シリーズの開発を2124年に開始する。
当時のhシリーズ以前のHMAは、主力兵装と対歩兵兵装のほか、対空兵装等をハリネズミのように装備していたが、それはコストや整備の面から見ても非常にネックであった。また、大重量高強度関節は磨耗が激しく、関節自重によって装甲が削られていた。一方h型は従来の機械式関節や構造を一新。人体の骨格および筋肉構造をベースとした、フレームマニューバーシステムの開発を開始する。
一方、ハイダ重工は、脚部の関節数を減らすことによって強度を得、推進機関によるホバー機動メインのTシリーズを開発する。
2135年、物理学者の[検閲により削除]が重力子を発見。それによって構築された重力制御技術は、HMAへの応用が期待されたが、システムそのものの小型化が難しく、HMAへの搭載は困難と見られていた。
2153年、機械工学および物理学の権威であるミハエル=セルベトゥス博士が、hシリーズの開発に参加。開発が難航していたhシリーズをたったの二年で完成。HMA-h1を開発する。
hシリーズは、非接触型関節駆動システムを持ち、理論上、関節の磨耗はありえない。また、フレームと関節そのものに緩衝機能があり、フレーム強度と駆動力は飛躍的に向上した。
また、h1には、将来性を考慮し、高い拡張性を持たせてあり、後に、重力制御機関が小型化されたことによって、HMA-h1はh1AVとして改良され、これによって、あらゆる局面において活用される兵器としての「主力HMA」の概念が完成した。
最終更新:2013年08月12日 16:28