月の瞳と闇の髪
昔々あるところに、という出だしは皆様も幼い頃から幾度となく聞いたことでしょう。この物語もそれとおんなじ。昔々のどこかの国での物語で御座います。おや、それでは聞く意味がないと仰るのですか?お客様、短気は損気と申します。もう少し、二言三言聞いていかれて行っても構わないでしょう。この物語はね、特別なんです。まだ誰にも語ったことがないのですから。ふむそれならば、と。そうそう、お掛けになって下さいな。
さて、この物語は皆々様のお爺様のそのまたお婆様のそのまた…、と続き、誰の記憶にも残っていないほど古い話で御座います。
ほんの少し、この語部が味付けをしておりますがね。
そういう訳で、昔々、どれほど古い話なのかも分からぬほど遠い昔、『武の国』と名高いとある王国が御座いました。それはかつて栄華を極めた今は無き大国、スワラージ。
その国に、一人のとても美しい姫君が居りました。
まるで夜の闇のような色合いの真っ直ぐな長い髪に、とろりと蜜を流し入れたかのような鮮やかな金色の瞳。やわらかな白桃の頬に、赤い唇。
『上質な宝玉よりも美しく、白鳥の翼よりも優美な方だ』
彼女を一目でも見た者は皆、口々にそう語り、賛美しました。
彼女の名前は、“マリア”と言いました。
『なんと美しく、閑雅なお名前だろうか』
その名前を一度でも聞いた者は皆、口々にそう語り、賛美しました。
さて、この物語は皆々様のお爺様のそのまたお婆様のそのまた…、と続き、誰の記憶にも残っていないほど古い話で御座います。
ほんの少し、この語部が味付けをしておりますがね。
そういう訳で、昔々、どれほど古い話なのかも分からぬほど遠い昔、『武の国』と名高いとある王国が御座いました。それはかつて栄華を極めた今は無き大国、スワラージ。
その国に、一人のとても美しい姫君が居りました。
まるで夜の闇のような色合いの真っ直ぐな長い髪に、とろりと蜜を流し入れたかのような鮮やかな金色の瞳。やわらかな白桃の頬に、赤い唇。
『上質な宝玉よりも美しく、白鳥の翼よりも優美な方だ』
彼女を一目でも見た者は皆、口々にそう語り、賛美しました。
彼女の名前は、“マリア”と言いました。
『なんと美しく、閑雅なお名前だろうか』
その名前を一度でも聞いた者は皆、口々にそう語り、賛美しました。
・
城の一室であたしは一人、机に向かっていた。
硝子の万年筆をゆらゆらと所在無さげに揺らしながら、月光がそれに反射して輝くのをぼんやりと見つめる。
少しだけ、見惚れる。
きらきらと光るその様は、とても綺麗だと思ったから。
…けれど、あたしの思考は違うところをさ迷う。
硝子の万年筆をゆらゆらと所在無さげに揺らしながら、月光がそれに反射して輝くのをぼんやりと見つめる。
少しだけ、見惚れる。
きらきらと光るその様は、とても綺麗だと思ったから。
…けれど、あたしの思考は違うところをさ迷う。
『私のフィオナ』
想うのは、以前、あたしをそう呼んだ一人の男性のことばかり。
名前も知らない人だった。
彼は自分のことは何一つ語ろうとはせず、あたしに純白の薔薇の花を一輪渡して、去っていった。
それは『フィオナ』という名前の清らかな花。
花瓶に活けて毎日水を変えてはいるけれど、少しずつ、萎れてきている。あたしはその真っ白な花に、少しだけ見惚れる。あの人の姿を思い出すから。
彼は、あたしのことを“マリア”と呼ばなかった唯一の人だ。
…本当に、美しい人だった。
絹糸のように柔らかで艶やかな髪も、わずかに憂いを帯びた瞳も、まるで月の色を塗ったかのような鮮やかな金色。
優しく微笑む形の良い唇に柳の眉。
細身で、けれど均整のとれた逞しい肢体にこの国の黒い軍服を纏っていた。
あたしは彼の名前が知りたかった。
けれど、城内に居る兵士たちに聞いても、両親や大臣たちに聞いても、誰に聞いても彼の名前を知る者は居なかった。
まさか ルンペルシュティルツヒェンじゃあるまいし。
そう思って、あたしはもっと色々な人に、たくさんの人に聞いて回った。
それでもやっぱり、彼の名前を知る者は誰一人として居なかった。…いや、何人か知っているような人も居たが、誰も教えてはくれなかった。知りません、申し訳ありませんとそればかり。
だからあたしは考えた。
彼に相応しい、素敵な名前は無いものだろうか、と。
そして思い付く限りのたくさんの名前を考えた。
…けれど、無理だった。
どんなに一生懸命に考えても、どの名前も彼の雰囲気とはどこか違っていた。相応しくないように感じた。あの物憂げで優しい瞳には、どんな名前も似合わないような気さえしてきた。
それで結局、あたしは彼のことを『あの方』と呼ぶことにした。
あたしに、美しい薔薇の名前をくれたあの方。
あたしは、あの方に相応しい名前を知らない。
名前も知らない人だった。
彼は自分のことは何一つ語ろうとはせず、あたしに純白の薔薇の花を一輪渡して、去っていった。
それは『フィオナ』という名前の清らかな花。
花瓶に活けて毎日水を変えてはいるけれど、少しずつ、萎れてきている。あたしはその真っ白な花に、少しだけ見惚れる。あの人の姿を思い出すから。
彼は、あたしのことを“マリア”と呼ばなかった唯一の人だ。
…本当に、美しい人だった。
絹糸のように柔らかで艶やかな髪も、わずかに憂いを帯びた瞳も、まるで月の色を塗ったかのような鮮やかな金色。
優しく微笑む形の良い唇に柳の眉。
細身で、けれど均整のとれた逞しい肢体にこの国の黒い軍服を纏っていた。
あたしは彼の名前が知りたかった。
けれど、城内に居る兵士たちに聞いても、両親や大臣たちに聞いても、誰に聞いても彼の名前を知る者は居なかった。
まさか ルンペルシュティルツヒェンじゃあるまいし。
そう思って、あたしはもっと色々な人に、たくさんの人に聞いて回った。
それでもやっぱり、彼の名前を知る者は誰一人として居なかった。…いや、何人か知っているような人も居たが、誰も教えてはくれなかった。知りません、申し訳ありませんとそればかり。
だからあたしは考えた。
彼に相応しい、素敵な名前は無いものだろうか、と。
そして思い付く限りのたくさんの名前を考えた。
…けれど、無理だった。
どんなに一生懸命に考えても、どの名前も彼の雰囲気とはどこか違っていた。相応しくないように感じた。あの物憂げで優しい瞳には、どんな名前も似合わないような気さえしてきた。
それで結局、あたしは彼のことを『あの方』と呼ぶことにした。
あたしに、美しい薔薇の名前をくれたあの方。
あたしは、あの方に相応しい名前を知らない。
…あの日から、一体どれだけの時が過ぎただろうか。
…あれから、三年だ。
当時十五歳だったあたしは十八歳になり、成人を向かえていた。
日一日と時は確実にすぎ去っていく。夏がそろそろ終盤に差し掛かり、秋が訪れようとしている。
冷たい風が地上を這い、虫たちは歌い始めた。わずかに色付き始めた木々に、あたしはほぅ、と溜め息を吐く。
…あの方は、一体誰なのだろうか。
夜は、今日も煩く鳴いている。
あたしの思考をかき乱す。
風の舞いも、虫の歌も、今はもう愛でている余裕なんて無い。あの方の姿だけが、あたしの脳裏を騒がす。
…逢いたい。
想うのは、そればかり。
あたしが想うのは、名前も知らない一人の男性のことばかり。
あの日以来、彼はあたしに逢いに来てはくれていないけれど、日に日に、あの方を思っている時間が長くなってきているような気がする。毎日あの方を想い、真白な薔薇の花を懐かしく思う。
名前も、年齢も、何一つ分からない不思議な人だけど、この想いは止められない。
あたしは今日も、あの方を想っている。
あたしはまた一つ、溜め息を吐く。
――コンコン。
にわかに、扉を叩く音がした。
「誰?エミリア?」
あたしは特に親しくしている使用人の名前を呼んだ。エミリアは、よくあたしの話し相手になってくれるから。
「私です」
扉の向こうからの声。
知った人のものではない声に、あたしは一瞬動きを止める。
…心地よく響く、低い声。
この声――…
当時十五歳だったあたしは十八歳になり、成人を向かえていた。
日一日と時は確実にすぎ去っていく。夏がそろそろ終盤に差し掛かり、秋が訪れようとしている。
冷たい風が地上を這い、虫たちは歌い始めた。わずかに色付き始めた木々に、あたしはほぅ、と溜め息を吐く。
…あの方は、一体誰なのだろうか。
夜は、今日も煩く鳴いている。
あたしの思考をかき乱す。
風の舞いも、虫の歌も、今はもう愛でている余裕なんて無い。あの方の姿だけが、あたしの脳裏を騒がす。
…逢いたい。
想うのは、そればかり。
あたしが想うのは、名前も知らない一人の男性のことばかり。
あの日以来、彼はあたしに逢いに来てはくれていないけれど、日に日に、あの方を思っている時間が長くなってきているような気がする。毎日あの方を想い、真白な薔薇の花を懐かしく思う。
名前も、年齢も、何一つ分からない不思議な人だけど、この想いは止められない。
あたしは今日も、あの方を想っている。
あたしはまた一つ、溜め息を吐く。
――コンコン。
にわかに、扉を叩く音がした。
「誰?エミリア?」
あたしは特に親しくしている使用人の名前を呼んだ。エミリアは、よくあたしの話し相手になってくれるから。
「私です」
扉の向こうからの声。
知った人のものではない声に、あたしは一瞬動きを止める。
…心地よく響く、低い声。
この声――…
「今晩は、私のフィオナ」
ずっと待ち侘びていた、あの方の声。
「今っ、開けるから!」
勢い込んで、あたしは扉の方へと駆けて行った。扉を開け、その人の姿が目に入ると、自然と笑みが零れる。
彼はその場にひざまずき、あたしの右手の甲に口付けをした。そしてあたしに『フィオナ』を一輪差出し、口許に柔らかな笑みを浮かべる。
「ご無沙汰しておりました」
あたしは、彼を見つめる。
「…貴方は、誰なの?」
「この国の軍を束ねている者です」
…違う。
あたしが知りたいのは、そんなことじゃない。
「貴方の名前を教えて?」
「どれをお教えしましょうか」
彼は少しふざけたように、くつりと笑った。
「この髪と瞳の色から“月(ルナ)”と呼ぶ者、戦場での私を見て“猟犬(ブラッド・ハウンド)”だの“狼(ウルフ)”だのと呼ぶ者もいますね。他にも、幾つもの名を持っております」
「…あたしは、あなたのことを何と呼べば良いの?」
あたしは彼の頬にそっと触れる。
すらりと伸びたその長身は、優に百八十を超えるだろう。あたしは高い位置にある月色の双眸を見上げ、覗きこんだ。
彼はやはり、柔らかな笑みを浮かべている。
「お好きなように」
その言葉に、あたしはうつむく。
「…貴方に似合う名前が思いつかなかったの。貴方には、どれも相応しくないような気がして…」
彼は少しだけ目を細めると、あたしの頬に口付けをした。まるで鳥のついばみみたいな優しい口付け。拒むことはしなかった。
彼は、寂しげに笑う。
「…申し訳ありません。私はもう、帰らなければ…」
「もう、帰ってしまうの?」
彼は、静かに頷く。
「あたしの質問に、答えてはくれないの?」
「…申し訳、ありません」
そう言って、あたしに背を向けて取っ手に手を掛けた。行かないで、と叫びたかった。ぴしりと伸びた背中に、抱きつきたかった。
「さようなら、マリア王女」
「まっ、待って!」
彼の背中に、あたしは声をなげる。
振り返ることはせず、かれはひたと動きを止めた。
「何でしょうか」
彼の背中に、あたしは願う。
「……あたし、“フィオナ”が良い」
彼は、頷いてくれた。
「…さようなら、フィオナ」
「……さようなら」
ぱたん、と悲しい別れの音。
あたしは静まった扉に力なく手を振った。
「今っ、開けるから!」
勢い込んで、あたしは扉の方へと駆けて行った。扉を開け、その人の姿が目に入ると、自然と笑みが零れる。
彼はその場にひざまずき、あたしの右手の甲に口付けをした。そしてあたしに『フィオナ』を一輪差出し、口許に柔らかな笑みを浮かべる。
「ご無沙汰しておりました」
あたしは、彼を見つめる。
「…貴方は、誰なの?」
「この国の軍を束ねている者です」
…違う。
あたしが知りたいのは、そんなことじゃない。
「貴方の名前を教えて?」
「どれをお教えしましょうか」
彼は少しふざけたように、くつりと笑った。
「この髪と瞳の色から“月(ルナ)”と呼ぶ者、戦場での私を見て“猟犬(ブラッド・ハウンド)”だの“狼(ウルフ)”だのと呼ぶ者もいますね。他にも、幾つもの名を持っております」
「…あたしは、あなたのことを何と呼べば良いの?」
あたしは彼の頬にそっと触れる。
すらりと伸びたその長身は、優に百八十を超えるだろう。あたしは高い位置にある月色の双眸を見上げ、覗きこんだ。
彼はやはり、柔らかな笑みを浮かべている。
「お好きなように」
その言葉に、あたしはうつむく。
「…貴方に似合う名前が思いつかなかったの。貴方には、どれも相応しくないような気がして…」
彼は少しだけ目を細めると、あたしの頬に口付けをした。まるで鳥のついばみみたいな優しい口付け。拒むことはしなかった。
彼は、寂しげに笑う。
「…申し訳ありません。私はもう、帰らなければ…」
「もう、帰ってしまうの?」
彼は、静かに頷く。
「あたしの質問に、答えてはくれないの?」
「…申し訳、ありません」
そう言って、あたしに背を向けて取っ手に手を掛けた。行かないで、と叫びたかった。ぴしりと伸びた背中に、抱きつきたかった。
「さようなら、マリア王女」
「まっ、待って!」
彼の背中に、あたしは声をなげる。
振り返ることはせず、かれはひたと動きを止めた。
「何でしょうか」
彼の背中に、あたしは願う。
「……あたし、“フィオナ”が良い」
彼は、頷いてくれた。
「…さようなら、フィオナ」
「……さようなら」
ぱたん、と悲しい別れの音。
あたしは静まった扉に力なく手を振った。
『フィオナ』
この名前は、好き。
あの方があたしにくれた、あの方だけが持つあたしの名前。いとしい人がくれた、特別の名前。
純白の、清らかな花。
夜の闇に映える鮮やかな白。
美しい、薔薇の花。
この名前は、好き。
あの方があたしにくれた、あの方だけが持つあたしの名前。いとしい人がくれた、特別の名前。
純白の、清らかな花。
夜の闇に映える鮮やかな白。
美しい、薔薇の花。
『マリア』
この名前は、嫌い。
誰もが美しい名前だ、閑雅な名前だと賛美する。だけど、それはあたしの地位に送られたもので、この国の“王女”に送られたものだ。
掃いて捨てるほど貰った言葉。
こんなもの、あたしはいらない。
この名前は、嫌い。
誰もが美しい名前だ、閑雅な名前だと賛美する。だけど、それはあたしの地位に送られたもので、この国の“王女”に送られたものだ。
掃いて捨てるほど貰った言葉。
こんなもの、あたしはいらない。
…あの方だけは、何も言わなかった。
それが、とても嬉しかった。
あの方は、自分のことすらも、自分の名前すらも言おうとはしなかった。
それが、とても切なかった。
それが、とても嬉しかった。
あの方は、自分のことすらも、自分の名前すらも言おうとはしなかった。
それが、とても切なかった。
貝みたいに口を閉ざした貴方。
…貴方は、一体誰なの?
…貴方は、一体誰なの?
・
あれから、二ヶ月が過ぎた。
あたしはあの時と同じように、万年筆を揺らしながら机に向かい、あの方が訪れるのを待っていた。
ゆらゆらと揺らすたびに、万年筆の柄がきらきらとわずかに光る。今日も、月が明るい。きらきらと、月は詠う。
…あの優しい声に触れたい。
想うのはそればかり。
あの方から貰ったフィオナは今日も机の片隅で咲いている。もうすっかり萎れてしまったけれど、未だに飾っている。
…愛しい。
あの方が、誰よりも愛しい。
苦しいくらい。
あたしは萎れたフィオナに口付けをした。
微かな香りが鼻孔をくすぐり、花びらが一枚零れ落ちる。
あの方は、まだだろうか。
今日も、あたしに逢いに来てはくれないのだろうか。
窓から空を覗けば、月はきらきらと詠っていた。星はふわふわとまどろみ、鳥達は羽音を響かせていた。
…良い夜だ。
月が明るい分、闇が濃い。こういう夜は、森がざわめく。なぜかは知らないけれど、いつもより少し浮き足立つ。
…本当に、良い夜だ。
あたしは月を見上げた。
完璧に満ちた金色の月に、あの方の瞳を思い出す。
「…逢いたいなぁ」
こういう夜は尚更、あの方を思い出す。
あたしはあの時と同じように、万年筆を揺らしながら机に向かい、あの方が訪れるのを待っていた。
ゆらゆらと揺らすたびに、万年筆の柄がきらきらとわずかに光る。今日も、月が明るい。きらきらと、月は詠う。
…あの優しい声に触れたい。
想うのはそればかり。
あの方から貰ったフィオナは今日も机の片隅で咲いている。もうすっかり萎れてしまったけれど、未だに飾っている。
…愛しい。
あの方が、誰よりも愛しい。
苦しいくらい。
あたしは萎れたフィオナに口付けをした。
微かな香りが鼻孔をくすぐり、花びらが一枚零れ落ちる。
あの方は、まだだろうか。
今日も、あたしに逢いに来てはくれないのだろうか。
窓から空を覗けば、月はきらきらと詠っていた。星はふわふわとまどろみ、鳥達は羽音を響かせていた。
…良い夜だ。
月が明るい分、闇が濃い。こういう夜は、森がざわめく。なぜかは知らないけれど、いつもより少し浮き足立つ。
…本当に、良い夜だ。
あたしは月を見上げた。
完璧に満ちた金色の月に、あの方の瞳を思い出す。
「…逢いたいなぁ」
こういう夜は尚更、あの方を思い出す。
「――誰に逢いたいのです?私のフィオナ」
わずかに、扉の軋む音。それとほぼ同時に聞こえてきた声に、あたしは振りかえり笑顔を向ける。
「こんばんは」
あたしはぱたぱたと彼に駆け寄り、その手を取った。はしたないかとも思ったけれど、今のあたしにはもう抑えられないし止められない。
あたしはその術を知らないから。
「ずっと、ずぅーっと貴方のことを待っていたの。二ヶ月前に逢ったばかりなのに、もう何年何年も、長い間逢っていなかったみたいで…。寂しくて…、とても、逢いたかった」
「フィオナ…」
呟くと、彼はあたしの前髪をそっと撫でた。その穏やかで優しい手付きに、あたしはわずかに目を細める。
「はい」
「…今日は別れの挨拶に参りました」
「――え?」
一瞬、思考が停止した。
「私は近いうちにここから出て行かなければならないのです」
「あ…の、それは、どういう…?」
「…私は大罪を犯しました。もう…ここには居られません」
――ダイザイ…?
「私は…罪人です…」
そう言って、彼はあたしを抱き寄せた。
彼の胸は、腕は大きくて、暖かかった。
「…けれど、貴方が愛しい。誰よりも、何よりも貴方が恋しい。…フィオナ、貴方と離れたくない」
「…あ」
彼の名前を呼ぼうとして、あたしは止まる。
貴方の名前を、貴方に相応しい名前をあたしは知らない。
「貴方を愛しています。貴方が愛しい。それ故に、私は貴方が欲しいのです。貴方の傍らを離れたくない。その髪の一本一本から指の先まで、余すところなく貴方が欲しい。…狂おしいほどに、私は貴方が欲しいのです」
彼はあたしを抱きしめながらそう言った。
強く、強く、動けないくらい強く、喋られないくらい強く、あたしを抱きしめて。貴方はあたしの肩に顔を埋めて、あたしにしか聞こえないように言った。それはまるで、鳥のさえずりみたいに。
優しい色合いの黄金の髪が、優しく言葉を紡ぐ唇が、静かに光る月の瞳が、貴方の全てが、あたしを捕らえる。
貴方の存在は、まるで小さな花びらを包み込むみたいに優しい。けれど、貴方は絶対的な欲望を持ってあたしを捕らえる。
…逃れられない。
「こんばんは」
あたしはぱたぱたと彼に駆け寄り、その手を取った。はしたないかとも思ったけれど、今のあたしにはもう抑えられないし止められない。
あたしはその術を知らないから。
「ずっと、ずぅーっと貴方のことを待っていたの。二ヶ月前に逢ったばかりなのに、もう何年何年も、長い間逢っていなかったみたいで…。寂しくて…、とても、逢いたかった」
「フィオナ…」
呟くと、彼はあたしの前髪をそっと撫でた。その穏やかで優しい手付きに、あたしはわずかに目を細める。
「はい」
「…今日は別れの挨拶に参りました」
「――え?」
一瞬、思考が停止した。
「私は近いうちにここから出て行かなければならないのです」
「あ…の、それは、どういう…?」
「…私は大罪を犯しました。もう…ここには居られません」
――ダイザイ…?
「私は…罪人です…」
そう言って、彼はあたしを抱き寄せた。
彼の胸は、腕は大きくて、暖かかった。
「…けれど、貴方が愛しい。誰よりも、何よりも貴方が恋しい。…フィオナ、貴方と離れたくない」
「…あ」
彼の名前を呼ぼうとして、あたしは止まる。
貴方の名前を、貴方に相応しい名前をあたしは知らない。
「貴方を愛しています。貴方が愛しい。それ故に、私は貴方が欲しいのです。貴方の傍らを離れたくない。その髪の一本一本から指の先まで、余すところなく貴方が欲しい。…狂おしいほどに、私は貴方が欲しいのです」
彼はあたしを抱きしめながらそう言った。
強く、強く、動けないくらい強く、喋られないくらい強く、あたしを抱きしめて。貴方はあたしの肩に顔を埋めて、あたしにしか聞こえないように言った。それはまるで、鳥のさえずりみたいに。
優しい色合いの黄金の髪が、優しく言葉を紡ぐ唇が、静かに光る月の瞳が、貴方の全てが、あたしを捕らえる。
貴方の存在は、まるで小さな花びらを包み込むみたいに優しい。けれど、貴方は絶対的な欲望を持ってあたしを捕らえる。
…逃れられない。
「…貴方が欲しい」
静かな情熱を秘めたその言葉が、あたしを縛る。
貴方は自身の欲望を曝けだす。
…たった一言。
貴方の紡ぐその短い言葉が、あたしを縛り、捕らえる。
あたしは息が詰まってしまって、何も応えることが出来ずにただただ彼の腕の中に立ち尽くしていた。
「……フィオナ」
彼は呟く。
それは、貴方があたしにくれた、あたしの名前。
貴方があたしにくれた、美しい薔薇の名前。
あたしは貴方の名前を知らない。
貴方に名前をあげることすら叶わなかった。
貴方は自身の欲望を曝けだす。
…たった一言。
貴方の紡ぐその短い言葉が、あたしを縛り、捕らえる。
あたしは息が詰まってしまって、何も応えることが出来ずにただただ彼の腕の中に立ち尽くしていた。
「……フィオナ」
彼は呟く。
それは、貴方があたしにくれた、あたしの名前。
貴方があたしにくれた、美しい薔薇の名前。
あたしは貴方の名前を知らない。
貴方に名前をあげることすら叶わなかった。
『どれをお教えしましょうか』
前に逢った時、貴方はそう言って笑っていた。優しく、穏やかに、そしてわずかな憂いを帯びて。ただ静かに、微笑んでいた。
ぱた、と首筋に何か冷たいものが零れた。
…涙?
…泣いて、いるの?
「私と共に、来てはくれませんか…?」
涙に霞んだ声。
子供みたいに、貴方は肩を震わせて言う。
行けば危ない。
何をしたのかは知らないけれど、大罪を犯したという人と共に居れば、あたしも追われることになるだろう。そしておそらく、彼には“王女の誘拐”という罪まで背負わせることになってしまうだろう。
きっと…いや、確実に彼もそれは理解しているはずだ。
それでも、貴方はあたしに着いて来て欲しいと言う。
それでも、あたしは――
「――教えて?」
「え?」
あたしは、知りたいの。
貴方のことを、もっと。
知りたいの。
「…名前、を。…貴方の、本当の名前を…」
彼は、あたしを抱く腕に力を込める。
ぱた、と首筋に何か冷たいものが零れた。
…涙?
…泣いて、いるの?
「私と共に、来てはくれませんか…?」
涙に霞んだ声。
子供みたいに、貴方は肩を震わせて言う。
行けば危ない。
何をしたのかは知らないけれど、大罪を犯したという人と共に居れば、あたしも追われることになるだろう。そしておそらく、彼には“王女の誘拐”という罪まで背負わせることになってしまうだろう。
きっと…いや、確実に彼もそれは理解しているはずだ。
それでも、貴方はあたしに着いて来て欲しいと言う。
それでも、あたしは――
「――教えて?」
「え?」
あたしは、知りたいの。
貴方のことを、もっと。
知りたいの。
「…名前、を。…貴方の、本当の名前を…」
彼は、あたしを抱く腕に力を込める。
「………………ファド…」
…やっと、教えてくれた。
貴方の名前。
“ファド”
…異国の言葉だ。
意味は確か…『運命』だっただろうか。
「…ファド」
彼の腕の中で、その名前を一度呟いた。
…貴方に相応しい名前だと、心から思う。
「……はい」
これが、あたしの答えだ。
貴方の名前。
“ファド”
…異国の言葉だ。
意味は確か…『運命』だっただろうか。
「…ファド」
彼の腕の中で、その名前を一度呟いた。
…貴方に相応しい名前だと、心から思う。
「……はい」
これが、あたしの答えだ。
「あたしは、貴方と共に。…永遠に」
貴方を愛しています。
誰よりも、何よりも貴方が愛しい。いつまでも、貴方と共に居たい。貴方の運命を、共に歩みたい。
あたしも、貴方が欲しいの。余すところなく、全てが欲しいの。
…本当に、狂おしい程に。
誰よりも、何よりも貴方が愛しい。いつまでも、貴方と共に居たい。貴方の運命を、共に歩みたい。
あたしも、貴方が欲しいの。余すところなく、全てが欲しいの。
…本当に、狂おしい程に。
ルンペルシュティルツヒェン…童話『ルンペルシュティルツヒェン』の登場人物。
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