「――ひいろ、分かるか?」
…………、
「お前の名だ」
……………………。
怪談の自室は、至ってシンプルな内装だった。
窓際に机、扉側の壁に本棚が二つ並び、洋箪笥と寝台が配置されている。
整頓されているというより、単に物が少ない部屋だった。
寝台の傍に丸椅子を寄せ、透明なマントを羽織った軍服青年が、腰かけていた。
文庫本を読みながら、ただただ時を待っている。
ベッドに寝かせた我が子が起きるまで。
「…………、」
細かい字列から眼を離し、寝台に目線を映す。
横たわっているのは、六歳児の男の子。
透明なマントを身につけており、黒い髪や顔立ちは軍服青年に良く似ている。
服装は赤いラインの入った白い半袖、デニムの短パン。
屋敷にあった子供服を着せたのだ。
神妙な面持ちで、寝顔を見つめていた。
つい先ほどまで、自分の腹の中にいたとは、信じられなかった。
しかし子供は、現にこうして息をしているし、脈も体温ある。生きている。
「紛うこと無き現実なんだよな……」
呟きながら、腹を撫でた。
もうふくらみは無かったが。
産まれた子には、「ひいろ」という名をつけた。
無論、赤マントの怪談にちなんで、「緋色」からとった命名だ。
ふと、ひいろの瞼がぴくりと動く。
むずがるように身じろぎしはじめた。眼が覚めたのだろうか。
「……ひいろ?」
椅子から腰を浮かして、顔を覗きこむ。
つけたばかりの名前は、声に出すと、自分の耳がくすぐったくなった。
ひいろが、しばらく唸ってから、目を開く。
黒い瞳。怪談と良く似た瞳。
「…………」
呆けたような表情であった。
赤子が何も無い天井を見つめているような。
しかし、視線は怪談に注がれている。
ひいろは唇を開いた。
「――がぁあああああああああぁっ!!!」
胎よりいでし第一声は、産声ではなく、咆哮であった。
六歳児が、咆哮とともに毛布をはねのける。
計算か偶然か、毛布は怪談にかぶさり、視界を塞がれた。
「……!?」
身の危険を感じ、毛布に覆われたまま、咄嗟に身を屈める。
頭上から空を切る音。背後から、硝子が弾ける音がした。
毛布の裾を持ち上げ、背後を覗きこめば、壁際にガラス片が四散している。
ガラス片には、目盛らしき模様。
銀色の針が数本転がっている。
ひいろが、注射器を放った事が分かった。
「怪談の子は怪談か……」
シニカルな笑みで呟いた。
注射器が砕け散っているのは、放った速度が高かったためだろう。
結果、壁に突き刺さらず、粉々に砕け散った。
能力の制御ができていない。
否、暴走していると言った方が正しいだろうか。
大気を震わす咆哮が、再び聞こえた。
「――シャァアアアアッ!」
声の方向を補足。上方約2メートル。
床を転がりながら回避し、二歩半離れた所で、片膝を床につけた状態で起き上がる。
横転した際に、毛布が背中から滑り落ち、部屋の全容が見えた。
ひいろは、床に両手の鉤爪を突き立てていた。
しゃがみこんだ姿勢で、犬歯を剥きだし、口端から唾液が零れている。
猛犬のような表情。透明なマントも、真っ赤に染まっている。
根元まで刺さった刃を見れば、渾身の力で振り下ろした事が分かった。
(……威力だけを見れば、おれを凌駕しているな)
先ほどの注射器と、鉤爪での攻撃を見ての判断であった。
あの鉤爪をまともに食らったら、自分の身体は、床板に縫い付けらていたかもしれない。
我が子ながら喜ばしいが、背筋に寒いものも感じた。
「ぐぅううっ! うがぁあ! ああああああああー!!?」
ひいろは、怪談を視認するや否や、飛びかかろうとしたが、不可であった。
床に突き刺さった鉤爪が抜けず、その場から動けない。
眼を見開き、咆えながら、もがいている。
軍服青年が立ち上がり、ひいろに歩み寄った。
怪談はしゃがみこみ、もがき続ける子供を抱擁した。
ほんの一瞬だけ、ひいろの狂相と絶叫がやんだ。
「――分かるよ、腹が減ってるんだろう?」
片手を背中に回し、黒い髪を撫でながら言う。
しかし、ひいろは、撫でられる手から離れ、怪談の肩口に噛みついた。
服越しにも関わらず、激痛が走る。出血したかもしれない。
手加減一切無しの攻撃に、怪談が顔をしかめた。
しかし、尚も、我が子を抱きしめている。
「腹が減って仕方ないんだろう?
怪談は恐怖を喰らって生きるからな。
だから、襲いかかった。
自らを産んだ親にも関わらず、襲撃した。
生きるために、恐怖を得るために、攻撃した。
それでこそ“怪談”だ。
お前は間違いなく、赤マントの怪談だ」
抱きながら語りかける。
しかし、ひいろは噛みつく力をゆるめない。
いまだ布越しに咆え、怪談の皮膚に、声の振動が伝わった。
「生まれながらの怪談よ。
おれは、お前に恐怖した。
圧倒的な力、
揺るぎない闘争心、
容赦手加減の無さ。
――だが、おれが最も恐怖したのは、そこじゃない」
怪談の語気が強まる。
襲撃対象者の雰囲気が変わったのを察したのか、ひいろの顎の力がゆるんだ。
「もしもおれがお前の親で無く、
お前を殺すことを考えた敵であったら、お前は死んでいただろう。
第一撃を外したのは痛い。
先手をとるということは、
手の内と攻撃パターンを読む機会を、相手に与えてしまうからな。
第二撃のミスは致命的だ。
力の余り床を突き刺し、その場から動けなくなるとは、失笑なんてレベルじゃない。
今のお前は、戦場で、敵に首を差し出しているような状態に等しい」
言いながら、腕に抱き締める力を籠める。
ひいろは、肩口から歯列を離していた。
怪談の瞳をまっすぐに見つめていた。
「まだ分からないか?
お前がこんな戦い方を続けたら、いつかお前は死ぬだろう。
おれは、お前を失うことが、怖くて怖くて堪らない。
我が子を、ひいろを、失いたくない」
小さな頭を抱え、自身の胸に抱き寄せた。
ひいろは、切な声と、心音を、聞いていた。
それは、ひどく耳に親しい音声であった。
まるで、眠りから覚める前から、聞かされていたような。
「……ひいろ?」
黙りこくった子供を前に、心配そうな声を出した。
抱きながら、背中を撫でながら、あやすように言う。
「ひいろ、分かるか?」
「…………、」
「お前の名だ」
「…………………。」
嗚呼、その声は、その言葉は、
子供が生まれた時、名づけてくれた時のものと、同じだった。
「…………」
ひいろが頭を起こし、怪談の顔を覗きこむ。
その眼から、禍々しい色は消えていた。
叫びすぎて、掠れた声で、ひいろが言う。
「……ママ?」
余談だが、この時怪談は、息子の言葉を訂正させるべきか、大いに悩んだ。
本当は、「言葉は正しく使え、余計な誤解を招く」と、言いたかった。
しかし何故だろうか。
目の前の小さな命を見ていたら、そんな気分も削がれてしまい、
「ああ、そうだ。
正真正銘、お前のママだよ」
黒い髪を指で梳きながら、返事をしたのだった。
髪を弄られ、ひいろがくすぐったそうに小さく笑う。
その笑顔は、母親の笑みと、ひどく酷似していた。
―― 終 ――
最終更新:2012年06月22日 12:40