結果から言えば、僕は惨敗した──。畳の上に仰向けで倒れ、僕は今回の試合を思い返す。
桐が用意した竹光を手に馴染ませるように何度か握りなおすと、僕は背の剣と白衣を桐に預けた。グレーのチノ・パンツと黒のタンクトップになると、少し肌寒い。
どうやら母は桐に立会人を頼んだらしい。座布団と僕の荷物を纏めて部屋の端に寄せれば、家具のない部屋はそれなりに広く感じられた。
いざ立って見れば、母はより小さく見える。昔はあれほど大きく見えたのに、と僕は少し感慨に耽ってみた。実際、母は140cm台と小柄な方だが、ここまで小さく見えたことは無い。
「その恰好でやるんですか……?」
ふと、僕の前で軽く竹光を振っている母の服装が気になった。母が着ているのは小袖という服で、着物より小さいものの袖や襟が大きく、到底これから剣の試合をする恰好とは思えない。あれではまともに踏み込むことすら出来ないだろう。
しかし母は大きくため息を吐くと、呆れたような色を浮かべた。
「……貴方は私が剣を教えている時、何を学んでいたのですか」
何を、と言われても僕は剣を学ぶ心積もりなど無かった訳で、知識としては知っているが実感の伴うものなど何一つない。例えるならばそれは、数学のテストで百点を取れるが、いざ使い道を聞かれれば言葉に詰まる学徒のようであった。
僕にとって剣は退屈を紛らわせるもので、最低限の身を守るもので、あわよくば祖父に復讐するためのものであった。復讐の意思が確固たるものであればまだ稽古に身が入ったのだろうが、僕は復讐に燃える自分を楽しんでいただけだ。悲劇の主人公ごっこの、道具の一つに過ぎなかった。
そんな僕の様子を察したのだろう。あるいは僕に剣を教えていた時のことを思い出し、『先生モード』になっているのかもしれない。母は、立会人の桐に目配せをして、口を開いた。
「紅龍の剣は殺しの剣です。如何なる時も、如何なる場所であれ、一切の躊躇もなく剣を振る。それが、紅龍を紅龍たらしめる剣です。それとも──」
言葉を切って、母は再び桐に目配せした。二人は旧知の仲だ。姉妹のように過ごしてきた二人には、それだけで意思疎通は十分なのだろう。僕は視界の端で桐の手が上から下に振り下ろされるのを見て、理解した。
「今の私になら勝てる、とでも?」
──始まった。瞬間、母の足は流れるように地面を滑り、僕に肉薄する。だが、遅い。
「遅いッ!」
右手に握った竹光を左から右へと振るう。狙いは母の腿。この程度の速度ならば合わせることは容易く、そして当たれば母の軽い身体は転倒する。
僕はそう思っていたし、そう出来る自信も実力もあった。しかし──。
「ええ、遅いですね」
視界が揺れた。骨と硬いものがぶつかるような音が脳髄まで突き抜け、悟る。
(打たれた……!?)
数回の瞬きで歪む視界を正し、ようやく訪れた顎の痛みに表情を歪める。
たたらを踏み後退する僕は、既に足を踏み出している母を見て逡巡。
音のまったくしない、その滑るような歩みは、目の前に居るというのに、接近が非常に分かり辛い。
「またっ……!」
ぎりぎりまでは目で追えている動きが、打ち込みの瞬間だけ追えなくなる。
再び走った痛みに右脇腹を打たれたのだと悟り、僕は自身の後退の勢いで壁に叩き付けられた。
背を壁に付け、考える。今の僕は身に宿る竜の力により、身体能力が劇的に上昇している。それは動体視力といったものも例外ではなく、ただの人間の母の剣が追えぬ筈がなかった。
「大口を叩いたわりに、相変わらずの腕ですね。貴方は既に、二度死んでいますよ?」
母は右手で切っ先を此方に向け、冷たく言い放った。
これが真剣ならば、一撃目で頭は落ち、二撃目で胴体は分かれている。それどころか、竜の強化がなければ竹光とはいえ、骨の一つや二つは折れている。
「……でも、生きていますよ」
だが、これは試合だ。そして母は敢えて決着の条件を付けなかった。それはつまり、双方にやる気がある限りは続けられるということだ。
僕は左足の裏を壁に付け、右手の剣を構える。見えぬ剣というのならば、打たせぬまで。
「まだ、僕は、負けて──」
母との距離はおよそ2メートル。この距離を一瞬で詰め、倒す。
「──無いッ!」
全力。全力の力で蹴った木製の壁は容易く踏み砕かれ、僕の身体は桐の短い悲鳴が耳に到達するまでに母の懐に潜り込んでいた。
鳩尾目掛けて、柄頭を突き出す。ただの人間である母には過ぎる一撃だが、これで意識を刈り取る。そうしなければ、勝てない。
そして、僕の勝ちは、ほぼ決まった──。
「……あれ?」
気付けば、畳の上に仰向けで倒れていた。後、僅か数センチ。それで僕の一撃は母に打ちこまれていた筈なのだが。
「痛っ!」
首を動かすと、顎に鋭い痛みが走る。一度認識すれば存在を主張するように痛みはじんじんと広がり、僕はまた気付かぬうちに打たれたのだと悟る。
どうやってか、などと考えるだけ無駄だ。ただ、事実として自身の敗北があった。
僕は試合を遡ることを止め、息を吐いた。
「……骨は折れていませんか?」
ふと、声が降り、母に見下ろされていることに気付く。
その表情は、なんと言えば良いのだろうか。僕には適当な言葉が思い浮かばなかった。
「……はい」
一瞬とはいえ意識を奪われたのだ、よほど強く打ち込まれたのだろう。顎は大きく腫れ上がり、母は僕の傍に座り込むと心配そうに顔を覗き込んできた。
頭に膝が当たり、膝枕を頼んでみようかと誘惑にかられたがぐっと飲み込む。さすがにいい歳した男がそう甘えるのも気色が悪いだろう。
母は僕の前髪を指先でかき分けると、優しい笑顔を浮かべ、
「紅龍を、継ぎます」
と言った。
「………………はい」
何故、そうまでするのだろう。たかが、他人のために。たかが、家のために。何故、母はこうまで身を削るのだろうか。
そんなことをいくら考えても、答えなど出ないことは、僕が一番分かっていた。
他人の気持ちを察することが出来ないから、僕は化け物なのだ。竜を宿しているからではなく、決定的に他者を理解できず、理解されないから僕は人間では無いのだ。
「……今夜は、私が食事を作ります。好きにしていてください」
そう言って母は桐を連れて何処かへと去り、僕は一人、無人の部屋で考えた。
どうすれば母が紅龍の当主になることを防げるか。僕が、当主になるためには。
『そんなもの、簡単なことであろう』
忌々しい声に思考を邪魔され、僕は不満を隠すことなく舌打ちした。
この頭の中に響く声こそ、紅龍の始祖に打ち倒された邪神にして竜神。紅龍の血脈に宿る紅き竜だ。
「今日は随分と静かだったじゃないか。そのまま二度と喋らないでくれ、糞蜥蜴」
こいつさえ居なければ僕はもう少し良い性格だったのに、と得意の被害者意識で攻撃してみる。
多少は自分を客観視できるようにはなったものの、やはり根っこは変わらないらしい。
だが自分の歪んだ性格を除いても、僕はこの竜が大嫌いだった。
『クククッ、折角の帰郷に水をさすほど我は無粋ではないぞ?』
だったらそのまま黙ってろよ、とは思ったが口を噤む。
この邪神にして竜神たる紅き竜──燭陽。紅龍の歴史に常に存在したそれが、解決策を示すと言うのだ。
「……で、簡単なことっていうのは?」
僕の問いに、おかしそうに燭陽が喉を鳴らす。腹立たしい。
『何、当主としての能力で雪芽を超えれば良いのだ』
「それが出来ないから困ってるんだろ、馬鹿」
やはり駄目だ。爬虫類に少しでも期待した僕が馬鹿だったのだ。
当主としての能力は僕が知る限り、剣を除けば祖父が一番で。しかしその祖父は母の依頼で殺された。
残る紅龍の直系は母と僕だけで、能力で言えば僕は全てにおいて母に劣っている。
そもそも、母が当主としての教育を受けなかったのは娘だからであり、仮に男児であれば歴代最高の当主となれただろう。
もっとも祖父が期待した男児は僕という爆弾だった訳で、祖父はつくづく運が悪かったのだと同情する。
『さて、雪芽が当主になるのは今日明日の話だったか? 我には暫くの猶予があるように思えたが』
「……つまり、鍛えろと?」
『然り。お前の言った通り、頭の方はどうとでもなる。が、剣は紅龍を象徴するものだ。ならばお前は雪芽が当主になるまでに、雪芽より強くなれば良い』
筋は通っている。通っているが、無理がある。
猶予は軽く見てもひと月。その間に、母よりも強くなるということは──。
「無理だ。第一、師事する人も居ない」
実力差は歴然。独力で埋まる程度の差には思えない。
しかし、燭陽はおかしそうに喉を鳴らし、自信たっぷりに答えた。
『案ずるな、最高の師を紹介してやる』
「……誰だよ?」
そも、既に身体を失い、子孫に憑くことしか出来ない燭陽が紹介など出来るのか。眉に唾をつけてもまだ足りない。
僕は眉間に皺を寄せ、その師事してくれるという者の所在を問うた。
すると、燭陽の口からは、およそ予想だにしない名前が、飛び出した──。
『初代紅龍──紅龍千花』
最終更新:2014年03月05日 17:54