「遊びが過ぎましたね」
空高くひびきわたる声は、いつもの彼女と同じ落ち着いたものだった。
穏やかで、優しげな女性の声。
まるで母が赤子をあやすときのような、そんなイメージを抱かせる。
「楚良」
けれども――そうやってぼくを呼ぶ声には紛れもない怒りが滲んでいた。
海よりも深い愛の裏に隠れた、ねちっこくいやらしい、怒りと妄執。
あ、やってしまったな、とぼくは思った。
世の中には超えてはならない一線というものがある。
ぼくはそのぎりぎりを常にせめていたつもりだったけれど、でもここに来て見誤ってしまったようだった。
「死ぬよりつらいことがあると教えてあげましょう」
その次の瞬間、何が起こったのかぼくはよくわからなった。
ぐん、と目に見えない何かに両腕を引き延ばされ、そのまま空に掲げられた。
ぼくは知っていた。これは磔と呼ばれる奴だと。
これはいけないな。
ダメだな。
ゲームオーバーだ。
そう理性が語るのだけど、ぼくはそれでもあきらめきれずに身体をじたばたとさせてしまう。
思ったよりもぼくは往生際がわるいやつのようだった。ここに来て、ぼくはぼくの新しい一面を知った。
とはいえ、そんなことはもう意味をなさない。
ぼくという存在は解体されるのだ。
この狂った母親に、最後の裏切りを失敗したが故に、ぼくはぼくでなくなる。
ぼくの背後にはいつの間にか白い巨人が立っていた。それが、ぼくからすべてを奪う刺客なのは明白だった。
その言葉とともに、ぼく、三崎亮の意識は解体され、同時のこの世界のすべてを喪ったのだ。
(quote from .hack//SIGN episode26“return”)
◇
陽が沈もうとしていた。
青く澄んでいた空は真っ赤に染まっている。
生徒会室から見下ろす月海原学園もまた、赤く染まっていた。
「陽が沈みますね」
隣に控えたガウェインが一言漏らした。
レオは静かにうなずくと、紅茶を口に含んだ。
陽が沈み、昼が終わり、夜が来る。
たったそれだけのことだとしても、かの騎士にとってはその事実はまた別の意味を持つ。
「終わらない昼はありません。あるとしたらそれは幻だ。
いつかは夜が来る。真っ暗で何も見えなくなる、夜が……」
レオはカップを置いた。
書類だらけの生徒会長デスクに座りながら、彼はこう付け加えた。
「けれども昼と夜の間に何も無いわけではありませんよ。そう、例えば――」
「すごいな、疲れも吹き飛ぶぜ」
彼の言葉を遮ったのは、目の前のデスクに座るキリトだった。
「非正規エリアと思しきダンジョンの探索、ウイルスについての考察とそれに対する対処案が数パターン、ゲームに使われているシステムの推測までされている」
彼は虚空を眺めながら感嘆の声を上げている。
彼のウィンドウにはこれまでの“対主催生徒会活動日誌”が表示されている筈だ。
ゲーム開始よりこれまでレオたちがまとめたデータがそこには載っている。
生徒会室にいるのはレオのほかには彼だけだった。
岸波白野たちは学園内で休息をとっている筈だ。度重なる戦闘で彼らは疲れている。
それはキリトも同じだが、その前に最低限情報の共有をしておきたかった。
そこで最低限の休息ののち、資料を渡して読んでもらっている。
レオは微笑みを浮かべて彼に呼びかけた。
「いかがですか? 僕としては貴方からも意見をいただきたいのですが」
「いや、ここまできっちり調べられてあるなら、俺の意見なんて必要ないと思うぜ。
別に俺は専門家ではないし、ただ……」
そう言いつつ、彼はわずかに声のトーンを落として、
「ただ、そっちも分かっていると思うが、この情報、こうやって公開しても大丈夫なのか?
GMたちにはつつぬけだと思うぞこれ」
ジローと同じく、キリトもその点が気になるようだった。
仮想空間であるこの世界には、榊をはじめとしたGMと呼ばれる存在がいる。
彼らはプレイヤーの会話はもちろん、テキストのログや動向なども全て把握できるだろう。
特に彼はデスゲームという状況に慣れているのだから、その点が特に気になるのだろう。
「大丈夫ですよ」
それを理解したうえで、レオは頷いた。
「向こうはきっと把握したうえで僕たちに手を出せないのですから」
「どうして、GMが俺たちに手を出さないと?」
「出さないのではなく、出せないのですよ」
レオの脳裏にはこれまで接触してきたNPCたちの姿が浮かんでいた。
桜をはじめとするAIはこの舞台における脇役でしかない。
たとえ囚われの身であろうとも、このゲームの主役はプレイヤーなのだ。
「今のところ、GMは僕たちに不干渉を貫いてきた。
これはひとえにGMが動けば、その時点でPvPというゲームの原則が崩れてしまうからです。
それにあのファイルは僕に面白い示唆を与えてくれた」
あのファイル、とはすなわち番匠屋淳ファイルのことだ。
このゲームのイリーガルエリアにて手に入れたファイルは、間違いなくこのゲーム脱出の鍵だ。
「プログラムには役割があるものなのですよ。
数を数える役割、映像を流す役割、健康を管理する役割……その次元は異なれど、プログラムは役割を背負って生まれてくる。
そして――モルガナの役割は“神”であると同時に“母”だった」
「……“母”」
「そう究極AI、アウラの“母”です。モルガナはモルガナである限り、その役割を放棄することはできませんでした。
だからこそ彼女は役割を全うすることを恐れた。自らに与えられた役割が消えたとき、モルガナはモルガナであり続けることができなくなるかもしれなかったから」
たとえばこの学園には健康管理AIである桜がいる。
彼女の役割は“プレイヤーを補助すること”に尽きる。
聖杯戦争である、このデスゲームであれ、その役割は変わらない。
彼女はゲームが終われば解体ないしは凍結されるだろう。彼女の存在価値はプレイヤーとゲームの存在に寄っているからだ。
仮に彼女がそこから逸脱した独自の行動を取り始めたとしたら、それはもう間桐桜と呼べない、別の何かに変質してしまったことを意味する。
「かつてモルガナを倒したのはゲームプレイヤーでした。
貴方も聞いた筈です。ドットハッカーズの
カイトの物語を」
「……ああ、道中聞いたさ。残念ながら会うことはできなかったが」
「“神”であるモルガナが何故敗れたのか。それはモルガナが“ゲームのシステム”だったからです。
それが彼女に与えられたプログラムとしての役割だ。
モルガナがプレイヤーに、現実世界に干渉するには、どうしてもゲームという手順を踏む必要があった。
故に八相はゲームのモンスターとして生み出され、形式上でしたが、ゲームでの戦闘が成立した」
レオの脳裏には別の存在の名が浮かんでいた。
デウエス。
モルガナとは違う現実にて暴走した別の“神”。
彼女もまたその能力の行使に“野球”という手順を踏む必要があった。
全能であるからこそ、“神”は
ルールに縛られる。ルールなき“神”はただの混沌であるからだ。
「――ゲームはゲームとして成立していなければならない。
それはThe Worldの頃から続く、モルガナの縛りです。
故に彼らはプレイヤーに自由に干渉できない。
僕らがプレイヤーの範疇の行動をとっている限り、GM側が僕らを直接攻撃するなどということはないでしょう。
でなければ“プレイヤーとプレイヤーが殺し合うゲーム”というルールが崩れてしまう。
もしモルガナが本当にこのゲームの根幹であるとしたら、その原則は変わっていない筈だ」
「……確かにな」
「それに、この時点で動いてしまってはモルガナがゲームシステムの根幹だということを裏付けてしまうことになる」
何か思い当たる節があったのか、キリトが何かを思い起こすように口元を抑えた。
「俺がファンタジーエリアで会ったプレイヤーに、GMと接触した女性がいた」
「なんと! それは貴重な情報です」
「出会ってすぐに別れてしまったから詳しいことは聞けなかったが、
でも彼女が言うにはダークマン――GM側と思しきネットナビはこう言ったらしい」
“……そう身構えるな。今の俺はお前に危害を加える気は――いや権限がないとでも言うべきか”
GMがプレイヤーに攻撃する“権限がない”と言っていた。
レオは僅かに口元を釣り上げる。
GM側の戦力が少しでも見えたこともだが、貴重な情報を聞くことができた。
「その女性はいまどこに?」
「今はおそらくアメリカエリアでレイドボス……じゃないデウエスと戦っている筈だ」
アメリカエリアで起きた異様なバグと、もう一人の“神”デウエスの介入は既に聞いている。
その行く末がどうなっているのかはここからでは掴めない。
彼らが生きてデウエスに対処してくれることを願うが、仮に失敗していた場合はこちらで対処せねばならないだろう。
「これは推測になるけどさ、このデスゲームで生き残ってるのは大体三つの集団に分けられると思う」
「それは?」
「一つはアンタたち、生徒会。ここにいないプレイヤーも含めれば、結構なつながりがあるだろ?
次にいまアメリカエリアで戦っている集団。俺もここに所属していると考えると十人もここにいる。
残り人数を考えても、これだけでこのゲームにおける脱出派……アンタの言葉を借りるなら対主催はだいたい網羅されてるんじゃないか?」
「ずっと引きこもっているプレイヤーが存在している可能性もありますが、しかしおおむね同意できます」
強いていうならば、岸波白野がゲーム序盤に接触したらしいダン卿たちのパーティの行方が知れないあたりだろうか。
ダン卿の脱落は既に知らされていたが、他の二人の動向はつかめない。身体的特徴を見るに“黒雪姫”や“ブラックローズ”の可能性が高いのだが……
「そして三つめは集団というか、カテゴリーだな。
PK、それかレッドプレイヤーとでもいうべき奴らだ」
「ゲームに乗っている者たち、ということですね」
「ああ、今まだ生き残っていると思しきPKはフォルテ、ダスク・テイカ―、スケィス、そしてオーヴァン、か」
聞けばダスク・テイカーは既に拘束済みらしい。
サーヴァントを従えたデュエルアバターということだったが、現状では警戒の優先度は低い。
しかし残っているPKたちはいずれも強力だ。流石にここまで生き残ってきただけのことはある、ということだ。
とはいえ
「キリトさん、僕としては彼らは基本的に放置でいいと思っています」
「放置?」
キリトは意外そうに顔を上げた。
「ええ、放置です。勘違いしてはいけないのは、PKは本質的に僕たちの敵ではないということです。
いや、邪魔をするのであればもちろん相応に対処しますが、そちらに急いで戦力を振る必要はない。
僕たちの敵はあくまでGMです。極端な話、脱出のメドが立てばその時点で彼らは完全に無視できる」
「でもな、そんなうまくいくのか?」
「わかりません。ただ、方針です。PK相手に戦闘を積むのは基本的に無駄だと考えてください。
効率を考えるのならば、たとえばフォルテなどは完全に無視してしまってもいいくらいだ」
「…………」
キリトは納得できないように口を閉ざした。
彼は何度もフォルテと戦ってきたと聞く。それゆえに思うところもあるのだろう。
それが人の想いというものだ。
それを分かったうえで、レオは“王”としての判断を下した。
「ただオーヴァンは警戒すべきです。彼の動向は読めない。
単にこのゲームで勝利すること以上のことを、彼は狙っている。故に警戒しなくてはならない」
「――ああ」
キリトは絞り出すように言葉を返した。
そこにも様々な因縁が感じられたが、レオは敢えてそこには触れず、言葉を重ねる。
「けれど――それ以上に避けては通れないのは、スケィスです」
レオは言う。
「モルガナの尖兵でありながら、スケィスはプレイヤーです。GMではない。
つまり――自由に僕らに干渉できる。これは無視できない。
もしモルガナがゲームシステムを担っているという推測が正しいのだとすれば、他のPKを置いておくにしてもスケィスの打倒だけは必須なんですよ」
そういうレオの視線の先には一つのウィンドウが開かれていた。
図書館を利用したコードキャスト。それによってあまたの情報をレオは吸い上げている。
そこに開かれたウィンドウにあったのは“スケィス”“ハセヲ”そして“楚良”の名だった。
◇
その男は、アスファルトで舗装された車道の真ん中でハセヲを待っていた。
「久しぶりだな、ハセヲ」
ハセヲは、ぎいい、とブレーキをかけてバイクを止める。
スケィスを追ってわき目も降らず疾駆していた彼としても、その男の存在を無視する訳にはいかなかった。
サングラスをかけ、その腕を拘束した長身の銃戦士/スチームガンナー。
「オーヴァン、アンタ……!」
ハセヲは声を絞り出す。
オーヴァン。彼と自分の因縁は一言では言い表せない。
だが彼がこの舞台に呼ばれていることは覚悟していたことであった。
これまでだって、VRバトルロワイアルに巻き込まれる前だって、自分の向かう先にはオーヴァンの影がちらついていた。
何時だって彼は突然現れ、突然去っていくのだ。
「このゲームを無事生き残っていたか。流石と言っておこう。
俺も何とかここまでやってこれた。お互い、これまでいろいろあっただろう」
穏やかに語るオーヴァンと、ハセヲは一定の距離を保ったまま相対していた。
片手は後ろに回し、いつでも武器が取れるようにしておく。
「……オーヴァン、アンタはこの事態にどれだけかかわっている?
あの榊はなんだ? アンタならもしかするとわかるんじゃないか?」
「まさか。俺もここでは一介のプレイヤー。殺し合いをさせられている奴隷に等しい存在だ」
オーヴァンはそう言って微笑んだ。
相変わらず――読めない。
「……こういう場所でお前と会うのは何だか妙な気がしないか? ハセヲ」
不意にオーヴァンは辺りを見渡しながらそんなことを言った。
思わずハセヲは視線を追う。ごちゃごちゃと立ち並ぶ民家。舗装された車道。ふと顔を上げれば電線が張り巡らされ、遠くにはビルが見える。
そのコンクリートの匂いは――まるで現実のようだ。
「ここはまるで現実のようだ。そう思うか?」
オーヴァンはこちらの考えを言い当ててきた。
サングラス越しに注がれる視線に、ハセヲは心臓をつかまれたような気分になる。
「ある意味でそれは間違っていない。
いかなバーチャル世界であっても、そこにある意識は現実のものであり、幻ではない。
だからこうした様々な仮想が連結された場所も、単なる現実に過ぎないんだよ、ハセヲ」
「……何が言いたいんだ、アンタは」
「なに、このゲームに巻き込まれたのイレギュラーであったが、しかし変わらない真実も存在するということだ」
そこでオーヴァンは一拍置いて、
「Σ忘我なる 罪科の 意訳」
オーヴァンはあくまで穏やかな口調で言葉を続ける。
「覚えているか? ハセヲ。このエリアワードを」
「……ああ、他でもないアンタが真実を語るって言って、俺に告げたワードだろう」
八咫が開眼し、すべての碑文使いが目覚めたG.U.に対しオーヴァンは告げてきたのだ。
そこでハセヲはオーヴァンと決着をつける筈だった。
ハセヲの反応に、オーヴァンはなぜか満足げに目を細めた。
「ああ、そうだ。俺も同じだよ、ハセヲ。
――俺とお前は同じ現実を生きている」
謎めいた言葉にハセヲは言葉に詰まる。
そんな彼に対し、オーヴァンはよどみなく一つの名を挙げた。
「――志乃のことは残念だったな」
その名は聞いたとき、ハセヲは思わずとびかかるところだった。
憎悪がアバターにせり上げてきて、“鎧”がぐるりと身体を走り廻った。
――オーヴァンを助けてあげて
それでもハセヲが理性を保つことができたのは、わき上がる憎悪と同時に志乃の言葉がフラッシュバックしたからだった。
「志乃だけじゃない。アトリにエンデュランス、それに八咫も脱落してしまったか」
「なっ……!? 八咫が?」
オーヴァンの言葉に、ハセヲはさらなる衝撃を受ける。
八咫。G.U.のリーダーであり、第四相フィドヘルの碑文使い。
当初はその高圧的な態度に反感を抱いていたが――今では共に戦う仲間となれた。
「おや? 知らなかったのか、ハセヲ。
ワイズマンというのは八咫のPCの一つだ。彼が複数アカウント使いこなしていたことは知っているだろう?」
「そんな八咫が……」
ハセヲは知らず知らずのうちに一人の仲間を喪っていたことを知り、愕然としていた。
これ以上失いたくないと、そう思っていたのに――
震えるハセヲにたたきかけるようにオーヴァンは言葉を重ねた。
「ハセヲ、八咫をPKしたのはエージェント・スミスだ」
今度こそ、憎悪が彼の手を突き動かした。
ぶうん、と彼は虚空より大鎌を取り出した。そしてオーヴァンを睨み付け問う。
「答えろオーヴァン。クソスミスはどこに……!」
「落ち着け、ハセヲ。もうあのPKはいない。
――既に俺が倒した」
「は?」
ハセヲは呆けたように、ぽかん、と口を開けてしまう。
「つい先ほどこのエリアで戦闘があってね。
そこで俺がうまく立ち回ってあのPKを消滅させた、というわけだ」
綽綽と語るオーヴァンに対し、ハセヲは認識が追い付かない。
マク・アヌでの戦いが脳裏を駆け巡る。行き場のなくなった怒りが戸惑いへと変わっていった。
「だから今のお前が倒すべき敵はただ一つ――死の恐怖スケィスだ」
スケィス。その名にハセヲは、はっ、とする。
「お前もあのスケィスを追ってここまで来たんだろう?
ならば――俺も手伝おう」
オーヴァンは告げた。
「俺はお前の味方だ、ハセヲ」
◇
「スケィス。かつてThe Worldに存在したモルガナ八相が一つにして、ある意味ですべてのはじまりといえる存在です」
レオはホワイトボードに2010年ごろのThe Worldの資料を表示させながら語る。
番匠屋淳ファイルに記載されていたモルガナに関する情報がそこにはまとまっている。
ウィンドウの外部出力に別のコードキャストを噛ませることで、彼はこうした応用をやってのけた。
キリトはホワイトボードを見ながらレオの話を聞いている。
「モルガナの動きが初めて確認されたのは、神槍とリコリスの物語です」
「……リコリスか」
「はい、キリトさんが一度ネットスラムで確認していたのでしたね。
その辺りの情報も手に入れたいところですが、今はまだ保留にしておきます」
ネットスラムに関しては、キリトがゲーム序盤に訪れたという以外に情報が欠けているのが現状だ。
「そしてその次が――司というプレイヤーに起きた“ログアウトできなくなる”事件」
「…………」
「一人のプレイヤーが、ある日突然ゲームの外に出ることができなくなった……その裏にはモルガナの影がありました」
キリトはその概要に思うところがあるのか、表示された司というプレイヤーの顔をじっと見ていた。
中性的な顔立ちをした少年アバター――であるが、彼女のリアルは少女である。
資料によれば、彼女はゲームに囚われた当初、己の本当の性別すら判断できない状況にあったという。
「この時点でのモルガナの狙いは一つ。
司というプレイヤーとアウラをリンクさせたうえで、司を精神的に追い込む。
そうしてネガティブな情念を基にアウラを誕生させ――アウラという存在そのものを歪めてしまおうとした」
モルガナの存在意義はあくまで“母”だ。
その役割から逸脱しない限りで、モルガナは己の“子”を絶望させ、自壊させようともくろんだ。
「けれどもモルガナは失敗します。
“母”が思うように“子”は育たないということでしょうね。
司は“母”に与えられた“絶望”という役割から抜け出し、現実へと還ることに成功します。
アウラはこのとき正しく生まれることができました……少なくともこの記録においては、ですが」
「そのあと“子”が生まれてしまった“母”が取った手段は……」
「はい――それがスケィス、禍々しき波です」
画面が切り替わる。そこには白い巨人のほか、八体のモンスターの姿が映っていた。
「スケィス、イニス、メイガス、フィドヘル、ゴレ、マハ、タルヴォス、コルベニク……これらがモルガナ八相と呼ばれる特殊なモンスターです」
「コルベニク」
キリトはその名に反応する。
「オーヴァンが宿していた、あの憑神とかいう奴と同じ名だ」
「はい、オーヴァンやハセヲさんのような碑文使いと呼ばれるPCは、モルガナ打倒後にこのモンスターのデータを埋め込んだPCなんです」
「…………」
そう解説するとキリトは腕を組みじっと考えこんだ。
オーヴァンと彼の戦闘の顛末は聞いている。彼なりに思うところがあるのだろう。
モルガナや八相の資料は、今の彼にとっても重要なものだ。
「モルガナがゲームシステムの根幹であるという推測が正しければ」
ぽつり、とキリトが口を開いた。
「碑文使いはどう立ち位置になるんだ。
尖兵であるスケィスはまだわかる。でも彼らは……何だ?」
「さて、何か意味があるかもしれませんね。彼らにしかできない役割があるのかもしれません。
あるいはもしかするとそれが鍵になるかもしれません」
ならないかもしれませんがね、とレオは悪戯っぽく言った。
◇
――スケィス、死の恐怖
学園へと続く街並みをオーヴァンは歩いていた。
――分かっているだろう? あれはお前の、お前が倒すべき敵だ
先ほど交わしたハセヲとの会話を思い起こしながら、彼は行く。
ハセヲとスケィス。
その二つの存在を取り巻く因縁はあまりにも複雑だ。
何せ互いが互いを知る以前から続く因縁なのだから。
――お前はあの敵を倒さなければならない。そこで俺も協力しよう
そんな申し出に対し、ハセヲはオーヴァンを見据えてこう返したのだ。
――奴は、俺一人で倒す。アンタの力はもう要らない
と。
彼はそういってのけ、そのまま走っていった。
スケィス。もう一人の死の恐怖を討つべく彼は戦いに赴いたのだ。
その同行者を拒絶する様はかつてPKKだった頃の彼に重なった。
「“もう”要らない、か……確かにそうだな」
オーヴァンはぽつりとつぶやく。
ハセヲは一見して“死の恐怖”だった頃に戻ったかのようだったが、しかし彼はもう戻れない。
目を塞ぎ、真実から目を背けていたあの頃には。
Σ忘我なる 罪科の 意訳。
先ほどの会話で口にしたエリアワードを知っていた。
つまりあのハセヲは紛れもない“今”のハセヲだ。
八咫のように過去から連れてこられたということもない。
力では真実に到達できないことを、“今”のハセヲはもう知っているのだ。
その上で過去の、かつて“死の恐怖”だった頃の真似をしようとしたところで、うまく行く筈もない。
だから、ハセヲにはもう仲間ができてしまっている。
共に同じ道を歩く者たちがいる。
オーヴァンは道の向こう側からやってくるパーティを視界に入れると薄く笑った。
「君たちにはハセヲの邪魔をしないでもらえると助かるんだ」
彼女らの前に、オーヴァンは立ち塞がった。
先頭の青い髪の少女が眉を顰め、いぶかしげにこちらを見た。
「“一人にしてくれ”と奴に頼まれてね。そして俺は協力すると言った」
そんな詭弁を述べつつ、オーヴァンはその手に銃剣を出現させる。
――スケィスはハセヲが倒さなくてはならない。
スミスからマク・アヌでの顛末を聞いた時から、そのことをオーヴァンは確信していた。
ハセヲはスケィスに一度データドレインされている。
その時に彼は“奪われ”ている。
もしかするとそれが“再誕”を起こすにあたって問題となるかもしれない。
成長した第一相が第八相を討つこと、それが“再誕”の鍵なのだ。
オーヴァンとしてはそれを取り戻してもらわなくては困るのだった。
故に彼をけしかけるような真似をした訳だが、しかし、同時にこうも思っていた。
ハセヲとスケィスが戦うことは“運命”であった、と。
端的に言ってしまえば、そうだ。
「ハセヲ――そのスケィスが最後のピースだ。
俺と戦う前に、まずはその因縁にケリをつけろ」
“再誕”の前には、常に“死の恐怖”があった。
今回もまたそうなるであろう。
◇
そして――ハセヲはそれと相対した。
たった一人で、誰もない街の中を彼はそれと向き合うことになる。
白くぬっぺりとした外観の巨人は、彼が進行方向に現れると立ち止まった。
その姿を捉えたハセヲは大鎌を向けながら獰猛に笑う。
「来い」
ハセヲは言う。
静かに、だが重い声を乗せて。
「--------」
だが一方の巨人はどこかに行こうとする。
まるでハセヲのことを認識できないかのように、彼を無視してどこかへ行こうとする。
ハセヲは、ちらりと後ろを見た。
長く伸びた坂道の向こう側に、月海原学園が立っている。あそこには彼の知っている者たちがいる。
それを――これ以上奪わせはしない。
「来いよ」
だから今度こそ――お前は俺の“敵”だ。
「俺は――ここにいる」
そのあふれ出る情動に突き動かされるように――ハセヲはその名を呼んだ。
第一相。
死の恐怖。
モルガナ。
最後の裏切り。
ゼロ。
楚良。
様々な“運命”に終止符を打つべく――戦いは始まった。
「スケェェェェェェェェェェェェェイス!」
最終更新:2016年09月06日 02:28