そこはねじれ狂うデジタルデータの海だった。
あまたの数値が空間をびっしりと走り、見渡す限り情報が乱舞している。
憑神空間と呼ばれるその場所で、二体のスケィスは激突していた。

片や死神のごとく大鎌を振るうハセヲ/スケィス・2nd
片や無言でケルト十字を振るう白きスケィス・ゼロ

ハセヲはクロスレンジにて果敢に挑んでいった。
通常PCの時点では巨人に見えた敵も、この姿/スケィスとなれば同じ大きさのモンスターに過ぎない。
赤き十字が来るタイミングを読み、一瞬で身をそらして大鎌を叩き込む。

「――――」

スケィス対スケィス、などという状況を演じながらもハセヲの心はことのほか冷静だった。
こちらをはやし立てるように響いていた“鎧”の声も静まっている。
もしかするとこちらが呼びかければ答えてくれるかもしれないが、しかしハセヲはそうする気はなかった。
仲間も、“鎧”も、オーヴァンも、ハセヲは全てを拒絶して、たった一人でスケィスに挑むことを選んだのだ。

――少なくとも、そうしなくては俺は“死の恐怖”に戻れない

その選択の裏にはきっとそんな想いがあったのだろう。
そう、どこか静かに考えられる程度にはハセヲの頭はクリアだった。

スケィスゼロ――白いスケィスと一進一退の攻防を進めながら、ハセヲは再びあの既視感に囚われていた。
最初に交戦した時から感じていた“かつてこういうことがあったのではないか”という既視感である。
白く無機質な姿と相対していると、心の底から恐怖に似た感情が湧いてくる。

――恐怖? 怖がっているのか、俺は

その感覚を振り払うようにハセヲは叫びをあげ、鎌を薙いだ。
スケィスゼロが態勢を崩したのを見て光弾を連射する。
ドドドドド、と連射される弾丸がスケィスに叩き込まれるが、しかし向こうにダメージが行っている様子はない。
他の憑神戦と同じだ。プロテクトを解除しなくては、こちらに勝機はない。
だから撃ち続けるしかないのだ。たとえ敵がなんであろうとも――









シノンは突然立ちふさがったプレイヤーに対し、困惑していた。
先走ったハセヲを一刻も止めなくてはならない、という時に――何だこの男は?
苛立ちに似た当惑は、しかしそのプレイヤーから薄赤い線が伸びた瞬間に消滅した。

「――来るよ、みんな!」

その薄赤い線は、シノンにとってはあまりにも見慣れた弾道予測線/バレットラインであった。
GGOの守備的システム・アシストにより、プレイヤー――オーヴァンが銃剣を放つ瞬間を捉えていた。

シノンの声に反応し、前に出たアーチャーが弾丸を弾き飛ばしていた。
他のパーティメンバー、ブラックローズや黒雪姫も臨戦態勢をとる。
ブラックローズは剣を構え、黒雪姫はもう一つの姿、デュエルアバター、ブラック・ロータスへとアバターを切り替えた。

「貴方、何? 貴方はハセヲを知っているの?」

シノンは鋭い口調で男を詰問した。
だが彼は四対一という状況を全く意に介さないかのようで、薄く微笑んでいた。

「……ほう」

シノンの問いかけには答えず、そんな声を上げた。
その視線の先には――ブラックローズがいた。

「ドットハッカーズの先輩方に会えるとはね。光栄だ、と言っておこうか。
 いやそれとも三年前の同型アバターの方かな?」
「は? 何言ってんのよ、アンタ」

そのぶしつけな視線にブラックローズは眉をひそめていた。
だが男は無視して、今度は隣のロータスを見た。

「それに――なるほど、またそのアバターとはね」

二ィ、と口元を釣り上げながらオーヴァンは言い放った。

「何にせよ、お前たちをここから先に行かせる訳にはいかない。
 奴には奴の“運命”がある。“選択”はそのあとだ」







スケィス同士の戦いは、一見してハセヲが優位に進んでいた。
未だ互いにプロテクトブレイクには至っていないが、ハセヲ/スケィスはスケィスゼロの動きを読むようにして攻撃をしかけていた。

スケィスゼロの恐ろしさはひとえに“その存在そのものが規格外”ということにある。
イリーガルスキルの跋扈するこのゲームだが、スキル使うPC自体はあくまで正規の仕様の範疇というものが大半だ。
しかしスケィスゼロはその成り立ちに始まり、あらゆる面がイリーガルといえる。
プロテクトの存在、データドレイン、エリアハッキング……使う技全てが正規の枠を外れている。独自のルールで動いているといってもいい。
一般PCがそれと相対する際には、そもそも同じ土俵に立てないという面がスケィスゼロには強いのだ。

しかし――ハセヲは違う。

スケィスのデータをその身に宿したハセヲは――ある意味で当然だが――スケィスと最も対等に戦うことのできるプレイヤーだ。
無論差異は存在するものの、その身に宿したスケィスを解放することで、スケィスが持つ“反則性”をゼロに等しくできる。
スケィスの強さがそうした反則性に依っている以上、それだけでスケィスの脅威は大きく下がるのだ。
彼は碑文使いの中でも最も憑神戦の経験を積んでいる。そのこともまたハセヲを優勢に導いていた。

つまりこう言えるのかもしれない。
スケィスの天敵は、即ちスケィス自体であった、と。

しかし、同時に――ハセヲの中で不安に似た気持ちもまた膨らんでいた。
こうしてスケィスと相対すること自体が、何かひどく不気味なことのような気がしてならないのだ。

――クソ、マク・アヌの二の舞になってたまるか

マク・アヌにてスケィスと交戦した際の醜態が脳裏を過る。
スケィスに襲われた瞬間、ハセヲはあるはずのない記憶を思い返し、その隙を突かれる形で敗北した。
あの時も――まともに戦うことができれば、あんなことにはならない筈だった。
しかし、フラッシュバックした記憶と、訪れた痛みがハセヲを苦しませ――結果としてアトリを喪わせた。

――楚良はここにはいない

そう主張するかのようにハセヲは鎌を振り払った。
膂力によろけるスケィスゼロに対し、ハセヲは連打を加えていく。

スケィスゼロは再び転移をはかる。
距離をとったそいつは、腕を掲げた。エフェクトがその腕を取り囲むように発生する。
スキル発動の前触れか――そう判断したハセヲは空間を疾駆した。

「はぁ!」

スケィス2ndの鎌より剣圧がブーメランのように飛び出し――敵を捉える。
中距離での攻撃を受けたスケィスゼロに[protect break]という文字が走る。
ハセヲはその意味を知っていた。
好機を逃さず彼はスケィス2ndの腕をコンバートする。
腕が開き、大砲のようなオブジェクトが展開される。その周りを覆うようにタイル状のデータが砲身の周りを覆った。

「食らってろぉぉぉぉぉぉぉ!」

――【データドレイン】

収束された情報がスケィスゼロへと放たれ――そして貫いた。





「楚良、というプレイヤーがかつていたんです」

レオはスケィスについての情報を表示しながら、そう口にした。
もちろん作業はそれだけでは終わらない。並行して別のデータの解説やプログラム作成も進めていく。
メンテナンスも近い。やることは相応にある。

「ソラ?」
「ええ、この方です」

キリトに別の資料を表示する。
ホワイトボードにはバンダナをした双剣士のPCのポリゴンが浮かぶ。
軽薄そうな笑みを浮かべたPCの出典はThe World R:1となっている。

「楚良……変な字だな」
「このプレイヤーが活動していたのは2009年から2010年頃のThe Worldとなっています」
「じゃあつまり」
「はい、モルガナ事件に関わったプレイヤーです」

レオは別のPCも表示させた。
カール、アルフ、ジーク……と名が列記されていく。

「彼らは当時のモルガナ事件の犠牲者――スケィスに敗れた者たちです」
「……犠牲者。つまり、この資料にあった未帰還者ってやつか」
「はい、そうです。データドレインを受け、自我を喪った者たちです」

説明しつつレオは考える。
データドレインとは果たしてどのような現象なのであろうか、と。
端的に言えばデータ状の存在を解体し、押し出し、改ざんするイリーガルスキル、であるが、ではそれが何故現実にまで影響を及ぼしたのだろうか?
その事実について、ファイルにおいて記述はない。おそらく、このファイルの編纂者にも完全にも分かっていないのではないかと推測される。

電脳世界における情報を改ざんすることで現実における自我にまで影響が出る。
これは言うまでもなく通常ではありえない。
しかし霊子ハッカー/ウィザードとして考えれば、ある可能性に行き当たる。
即ち、データドレインとは霊子変換――魂の具現化をなす術式の一種ではないか、と。

霊子ハッカーはその魂をプログラムとして描き、ダイレクトに入出力する。そのため普通のハッカーとは比較にならない能力を持つ。
だが同時に霊子ハッカーには電脳死というリスクが発生する。出力した者が魂である以上、ダメージを受ければ死へと繋がるのは当然のことだ。

データドレインを受けたプレイヤーが未帰還者となる。
これはプレイヤーが不完全ながらも霊子変換を受けているのではないだろうか。
となればデータドレインとはある種の魔術であり、それをもたらしたモルガナやアウラは――

「――この中でも楚良というプレイヤーは少々事情が特殊なようです」

思考を打ち切り、レオは言葉を続ける。
現段階では何を言っても推測の域を出ない。優先すべきことはほかにある。

「楚良はモルガナに明確に反抗した、最初のプレイヤーです」

ファイルと学園に所蔵データを基に組み立てた考えをレオは口にする。

「プレイヤーの名は三崎亮。当時の年齢は10才」
「子ども、か」
「はい。まぁゲームにおいては当然そんなことは関係ありません。
 事実楚良はThe Worldにおいて一角のプレイヤーでした――凶悪なPKとして」
「……あまり素行のいいプレイヤーではなかったようだな」

資料を見ながらキリトが言った。
実際、楚良は相当な高ステータスと卓越したプレイヤースキルを兼ね備えた凶悪なPKだったらしい。
何度か大規模ギルドと揉めたこともあったようだ。

「彼は先の司の事件において、スケィスに敗れました。
 そして未帰還者となり、その後回復するも――記憶を喪いました。The Worldにおける全ての記憶を」

彼の記憶は戻らなかった。
これは先のデータドレインに関する推測と組み合わせるとある可能性が浮かび上がってくる。
データドレインが一種の霊子変換のだとすれば、“楚良”を三崎亮は奪われた、ということになる。
そしてその記憶が回復しなかった以上、彼は“楚良”を取り戻せていないということになる。

では――“楚良”はどこにいったのだろうか。
スケィス打倒後も三崎亮の下に帰ってこなかった“楚良”の魂は、どこにある。
もしかするとその後もネット上に漂い続けていたのではないだろうか。

「……三崎亮はその後、バージョンが変わったThe Worldを始めたそうです。
 “楚良”の記憶を喪ったまま、全くの初心者として」

レオは言った。

「三崎亮が作ったキャラクターの名は――ハセヲと言いました」







八相はデータドレインを受けた際、石のような姿へと還っていく。
テクスチャを剥がれ、ポリゴンを解体され、カタチを喪う。それがドレインを受け弱体化した八相の末路であった。
それはスケィスも例外ではなかった。

しかし――ここにいたのは単なるスケィスではない。
その源流たる――スケィスゼロであった。

「な……!」

ハセヲは息を呑んだ。
データドレインを受けたスケィスゼロは、別のものが表に出てきていた。

そこにいたのは一人の青年だった。
長く伸びた髪を垂らした彼は、苦しそうにその胸を押さえている。
装備は双剣士(ツインソード)。その上に橙色の衣を身にまとっている。。

「――ボクは」

彼は視線の焦点が合わないまま、絞り出すように声をもらした。
その声はノイズ交じりで、ひどく聞き取りづらい。

「お前、は――」

――楚良

ハセヲはその姿に絶句し、そして頭を押さえた。
ぎいいいん、と頭痛が走る。頭の中で何かがのたうちまわるかのような感覚に、ハセヲの精神は著しく乱れる。
それはかつてマク・アヌにおいて起こったのと同じ、激痛だった。
痛い痛い痛い痛い痛いやめろ暴れるなお前なんて存在しないんだやめろおれは――ただ。
意識がちぎれるかのような痛みに、ハセヲ/スケィスは暴れ回り――ふっ、と憑神空間が消え去っていた。

空間は何時しか元の日本の街並みへと戻り、膝をつくハセヲが残された。

「――ア」

痛みに震えるハセヲと同じく、楚良もまた苦痛に悶えているようだった。
互いに互いを見て悶え苦しんでいる。傍から見れば馬鹿みたいな光景だろう。

――クソ、なんだ。なんなんだ

痛みに頭を押さえつつ、ハセヲは必死に立ち上がろうとする。
だが激痛ゆえうまく力が入らない。そして事態の理解は全くできていなかった。

「ア、ア」

一方で楚良はゆっくりと顔を上げていた。
口元から声を漏らしながら――ハセヲを見たのだ。

そして二人は互いを見た。
ハセヲは楚良を、楚良はハセヲを、それぞれが見つめたのだ。
瞬間、ハセヲの脳裏にさらなる痛みが走った。激痛を超えたさらなる痛み。魂が引き裂かれるかのような感覚であった。

「アアアアアアアアアア――」

楚良もまた悲鳴を上げていた。
橙色の衣を揺らし、彼は何かを必死に抑え込もうとしている――しかし、ダメだった。

「アアアアアア」

楚良の身体から――再びそれは現れた。
スケィス。
白き巨人。死の恐怖が、その身を再び結ぼうとしている。
ハセヲははっとする。しかし未だ身体が動かない。

一方のスケィスゼロもまた、ボロボロであった。
外観自体は変わらないものの、ところどころデータにノイズが走り、歪んでしまっている。
ゼロ化したことで、無力な石となることは避けられたが、しかしその内部は崩壊しかけている。

スケィスゼロはデータドレインを受けたことで元のスケィスへと堕ちかけていた。
元よりロックマンとの戦いによりデータが不安定になっていたのだ。
その上にデータドレインを受けたスケィスゼロは――かつて封印した楚良が表層へと出てしまった。
カイトたちと戦う前に、楚良としてThe Worldを放浪していたように。

楚良より再び現れたスケィスは、そのデータを散らしつつもその腕を掲げた。
ぼう、と腕輪が展開される。ケルト十字が虚空を走った。

ハセヲは未だ動けない――動けないまま、再び磔にされた。

「いやだ、やめろ」

ハセヲは思わず声を漏らした。
しかしダメだろう。この声は届かないのだ。誰にも――あの時と同じように。

――マタ奪ワレルノカ? オ前ハ?

耳障りな声が脳裏に響くのと、スケィスがその力を解放するのは全く同時だった。


【データドレイン】








その男の戦い方は、不気味なものだった。

先駆けるブラックローズが大剣を振るう。それを男は銃剣で受け止めている。
そこを狙い――シノンとアーチャーが射撃を加える。
弾丸と矢。卓越した技量で放たれた攻撃が彼を捉えたが、しかしはじかれる。
スーパーアーマーの類――ではないだろう。隣に展開されたオブジェクトが“無敵”に類する効果を彼に与えているのだろうとシノンは想定する。

「……やっこさん、手の内を見せてはくれないようだな」

アーチャーが憎々し気に言った。
そう――男の不気味さは、端的にその力の全容が見えないことだ。
彼は今銃剣と、奇妙な造形のオブジェクト生成のみで戦っている。

その目を引く拘束具は解放されておらず、まずまたその動きにも手加減にも似たものが垣間見える。

「ったく、何なの変な奴!」

剣を交え、そしてはじかれたブラックローズが声を漏らした。
彼女としてもある種のやりづらさを感じているようだった。

「……その動き、時間稼ぎのつもりか?」

ブラックローズと入れ替わるように前衛に入ったロータスは、苛烈に攻め立てる。
だが当の男は涼し気な顔でそれをさばいている。
四対一だというのに焦った様子は一切ない。
弾丸や刃を的確に弾くその様は、確かな実力を感じさせた。

だが――彼は奇妙なほどに攻めてはこない。

ここぞ、というところで、彼はその刃を引いている。
ロータスが言うように、その戦い方は時間稼ぎというのがしっくる来る。

「……お嬢さん、分かっていると思うがあれは何かデカいのを隠してるな」

隣でアーチャーが話しかけてきた。
それは分かっている。この敵の目的は時間稼ぎ――だが、だからといって安易に強行突破に走れないのだ。
彼は明らかに本気を出していない。
相手の力が読めないまま無理な動きを見せれば、致命的な隙につながりかねない。
加えてこの先――スケィスとの戦いもある。

「――貴方、ハセヲの何?」

シノンは再度男へと問いかけた。
男の底知れない戦い方はやりづらい。
だが――それ以上にこの男の正体が掴めなかった。
このタイミングで突然現れ、行く手を阻むこの男は一体……

「俺かい? 俺はハセヲの味方だ。
 昔同じギルドに所属していてね。その縁でこうしてアイツのために戦っているという訳だ」
「アイツのため? こうして、私たちの邪魔をするのが?」

言葉を交わしつつもシノンは男の正体がつかめてきた。
マク・アヌにて、アトリやハセヲが口にしていた、一人の男の名。

「貴方、オーヴァンね。
 The Worldでアトリやハセヲを苦しめていた碑文使い」

そう言うと、彼、オーヴァンは再度口元を釣り上げた。

「どうやら君は、このゲームにおけるハセヲのことをよく知っているらしい。
 同行者だったのかな? 君とアイツは。
 良ければ聞かせてくれないか? アイツのここでの動向を」

オーヴァンは語りつつオブジェクトを展開している。
ぼこ、ぼこ、と泡を吐き生み出されるオブジェクトにアーチャーが舌打ちをした。

「先ほどあった様子だと、随分と荒れていたが」
「……貴方、ハセヲがまたPKKだのなんだのすると思ってるの?」

シノンは毅然とした面持ちで答えた。
その銃口はぶれていない。オーヴァンの不気味な視線も、真っ向から彼女は受け止めている。

「……今のアイツは、ただ悲しんでるだけよ」

マク・アヌで、アトリを守れなかった無念からハセヲは修羅に落ちた。
そう見えるだろう。外面的には、かつての呼ばれていたという“死の恐怖”の名を再度纏ったようにも見えた。

「だけど、結局アイツは誰も傷つけなかった。
 私が後を追って着いてきた時も、ネットスラムに着いた時のことも」

シノンの言葉にロータスやブラックローズが頷く。
修羅と化し、“死の恐怖”として危険な存在となった――ように見えた彼は、その実誰も傷つけようとはしなかった。
どころか倒れたプレイヤーを率先として助けている。認知外領域においても、シノンたちを明らかに“守ろう”としていた。

「――アイツはやっぱりもう“死の恐怖”なんかじゃない。
 誰かと関わることが、誰かを傷つけてしまうんじゃないかって、ただ恐れている。
 その恐怖を知っているアイツに――そんな名は似合わない」

シノンもまたその恐怖を知っていた。
かつて子供の頃に巻き込まれた強盗事件。そこで彼女は引き金を引き、そして人を殺した。
以来――彼女は怖くなった。この引き金が、この銃口が、この弾丸が。

「私には分かる。
 アイツが本当に恐れているのは――自分自身なんだって」

――あの時の、私のように。

怖くなった引き金も、ゲームの中ではどういう訳か引くことができた。
詩乃でなく、シノンとしてならば、彼女は戦うことができた。
でもそれは結局、現実において銃を克服することにはならなかった。

何故ならば――結局彼女自身が“シノン”を現実だと認めることができなかったからだ。
あの事件が起きるまでは、新川恭二の闇を目の当たりにするまでは、詩乃とシノンは別人だった。
同じようにハセヲもまた“死の恐怖”という名に逃避しようとしている。

詩乃が“シノン”の名を別人だと線引きしたのに対し、
ハセヲは“死の恐怖”の名こそが自分だと思う形で、現実を遠ざけようとした。
方向性が違うだけで――同じ行いなのだ。

「私が“シノン”を私だと、浅田詩乃だと認めることができたように、私もアイツに伝えてやらなくちゃいけない。
 ――ここ/現実にいるのは“死の恐怖”じゃなく、アナタ/ハセヲなんだって!」

その言葉と共にシノンはオーヴァンへと銃口を向ける。
毅然と、迷いなく、ゆるぎない意志をもって彼女は彼と相対した。
ブラックローズも、ロータスも、アーチャーも、そこに肩を並べる。
みなハセヲを救いにいこうとしていた。

「……フフフ」

その事実を前にして――オーヴァンは再び笑みをこぼした。

「やはり、か。
 安心したぞ、ハセヲ――お前は確かに強くなっていた」

その言葉には、ハセヲを見ずともシノンたちを見れば十分だ、という響きが籠っていた。

「そして“しの”か。
 その名を持つ君がハセヲと出会ったのも“運命”だったのかもしれないな。
 アトリと彼が出会ったように」

シノンにはその言葉の意味が分かっていた。
志乃。この場にいたもう一人の“しの”。
恐らく彼女がマク・アヌでシノンを救ってくれた。だからこそ今彼女はここにいて、ハセヲと出会い、彼を救おうとしている。

「……オーヴァン、貴方の真意は分からない。けれど私たちはこの先に行くわ」

そう、力強く言ったその時だった。

――彼が現れたのは。

シノンが目を見開く。
彼は確かな足取りで、この場にやってきたのだ。
キツイ目つきのPC、黒く威圧感のある鎧、人を寄せ付けない威圧感――

「ハセヲ」

思わずシノンは彼の名を呼んだ。
彼が戻ってきたということは――つまり彼はスケィスを倒したのか?

そう思った、次の瞬間だった。

「グル……」

――うめき声が、彼の口から漏れ出した。

「グ……ルォォォアアアアアアアア!」

つんざくような咆哮が上がる。
途端、上空にどす黒い雲が渦を巻きながら出現した。
空では雷鳴が轟き、彼を中心にしてその禍々しいものが広がっていく。

「これは――《災禍》の」

ロータスが漏らした声を遮るようにして「ルァァァ!」と獰猛に叫びが上がる。
ハセヲのカタチをした獣は、その瞳に理性を消したまま、刃を振るわんとした。

――標的は、シノンだった



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最終更新:2016年09月06日 02:43