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 強い力。
 使う人の気持ち一つで……
 救い、滅び。どちらにでもなる。



     1◆



 ――――その覚醒には誰もが驚いていることを、ユイ/イニス自身が感じていた。


 体の奥底から力が溢れ出ていた。
 碑文は世界そのものを大きく変える可能性を持つほどの力だ。それこそ、インターネットだけでなく現実世界にも影響を与えた事例もある。
 ならば、この力さえあれば彼らと戦うことができた。

(これが……『惑乱の蜃気楼』イニス。幻影を自由自在に操り、そして高速移動で敵を攪乱することが可能……)

 ユイの脳内にイニスの膨大なデータが流れ込み、全てを瞬時に理解した。
 SAOのカーディナルシステムにより誕生したトップダウン型AIである彼女なら、膨大な情報処理が可能となっている。
 だから、この力を振るった。

(絶対に、パパ達を守ります!)

 ただ、大切なみんなを守りたいという気持ちを胸に、ユイ/イニスは飛び上がる。
 天から見下ろす天使の如く神々しさを醸しながら、彼女は両腕を振るって無数の光弾を放ち、エネミー達を葬った。散弾銃を超える速度を誇る光弾を、エネミー達は対抗できない。

「あなたなんかに、パパを殺させませんッ!」

 そして、キリトの命を奪おうとしたフォルテにも狙いを定めて、ユイ/イニスにも光弾を放つ。
 フォルテは驚愕で目を見開いていたが、我に返ったかのように翼を羽ばたかせながら跳躍した。彼は不敵な笑みを浮かべながら、ユイ/イニスを目がけてバスターを放つ。

「望むところだ!」

 そうしてバスターから放たれた光弾が迫りくるが、ユイ/イニスの巨体とプロテクトには意味を成さない。
 ユイ/イニスは反撃として、巨木すらも凌駕する刃を振り降ろした。しかしフォルテ自身は微塵の動揺も見せず、高速スピードで回避する。その勢いを保ったまま、瞬時にユイ/イニスの目前にまで迫って。

「まずは試しだ……アースブレイカーを受けろッ!」

 圧縮された高濃度のエネルギーを、顔面に目がけて解放した。
 凄まじい爆音と共に炸裂したエネルギーは、並のアバターなら瞬時にデリートできるほどの威力を誇るだろう。しかし、今のユイ/イニスではほんの僅か後退させるだけに過ぎない。

「チッ、やはりこれだけでは通用しないか」

 無論、システムを超越した憑神を簡単に倒せるとは、フォルテ自身も考えていなかったようだ。
 今のフォルテはゴスペルを従えているから、碑文とAIDAの特性について把握していると考えるべき。そして、ユイ/イニスと同様に何らかの碑文に覚醒している可能性もあった。
 しかしそんなことは関係ない。この場でフォルテを倒すため、もう片方の刃をフォルテに叩きつけた。

「ぐうっ…………!」

 ユイ/イニスの巨刃を受けたフォルテは呻き声と共に吹き飛ばされる。
 質量に圧倒的な差があるのだから、いかにフォルテでも防ぐことはできない。フォルテのダークネスオーラも、システムを超越する憑神の前では効果がなかった。

「さあ、まだです! まだ、私は――――!」
『――――――――――ッ!』

 フォルテに追撃しようとしたユイ/イニスの耳に獰猛な叫びが響く。
 まるで主の危機を駆けつけるように、あのゴスペルが突貫を仕掛けてくるのを見た。ユイ/イニスは反射的に弾丸を縦横無尽に放つものの、ゴスペルはその全てを回避する。
 そしてユイ/イニスを目がけて衝撃波を放った。

『――――――――――ッ!』

 衝撃波/ダイナウェーブの速度と範囲から、高い威力を誇ると瞬時に察知する。直撃すればユイ/イニスだろうと、プロテクトにダメージは避けられない。
 だが、ユイ/イニスの機動力さえあれば、回避は容易だった。その勢いを保ったまま、ゴスペルの横に回り込んで弾丸を発射し、巨体を吹き飛ばす。

『――――――――――ッ!』
(やった……あのゴスペルにダメージを与えています……!)

 ゴスペルの悲鳴を耳にして、ユイ/イニスは確かな手ごたえを感じる。
 これまでは後方支援しかできず、パパやママたちを守ることができなかった自分だけど、ようやく戦えるようになった。あのゴスペルにだって、ダメージを与えている。
 もちろん、これだけで倒せる訳がないので、ゴスペルはすぐに立ち上がってこちらを睨んできた。耳障りな叫びが聞こえてくるけど構わない。
 そのまま衝撃波を3連続で発射してくるのを見て、天に向かって羽ばたいた。衝撃波の特性に気付いた瞬間、ユイ/イニスはゴスペルが大きく口を開けているのを見る。
 口内ではエネルギーが収束されていき、ユイ/イニスを目がけて放たれた。衝撃波……ゴスペルショックパワーは世界に亀裂を刻みながら、ユイ/イニスを追跡する。

(ホーミング機能を持つ衝撃波? ですが、イニスの速度と能力なら問題ありません!)

 高威力の衝撃波が迫りくるが、ユイ/イニスは決して狼狽しない。 
 その直後、ユイ/イニスの姿は消滅し、標的を失ったゴスペルショックパワーは世界の果てに去ってしまった。敵が消滅したことに驚愕するゴスペルの背後に、ユイ/イニスが現れてカウンターを放つ。

「反逆の陽炎ッ!」

 ユイ/イニスは叫びと共に巨大な双剣を振るい、ゴスペルを吹き飛ばした。
 ゴスペル自身のパワーは危険の領域に入るため、正面から戦うことは得策ではない。故に、ユイはイニスの特性を活かして遠距離からの攻撃で牽制しながら、カウンターでゴスペルにダメージを与える戦法を選んだ。

『――――――――――ッ!』

 しかし、ゴスペルは倒れず、むしろユイ/イニスに向ける殺意がより濃厚になっている。
 その叫びを耳にして、ユイは息を呑むが決して怯まない。ゴスペルが強敵であることは把握していたし、またパパ達はこれまで何度も危険な敵と戦い続けてきた。
 だから今度は娘である自分が戦わないといけない。キリトの娘である誇りを胸にしながら、ユイ/イニスは真っすぐにゴスペルを睨んでいた。

「さあ、どうしたのですか? 私はここにいますよ!」

 だからゴスペルを挑発しながら、双剣を構える。黒の剣士と称された父キリトの構えを自分なりに真似しながら。
 AIDAの弱点はデータドレインだが、まずはプロテクトを破壊しなければいけない。ユイ/イニスは高速移動をしながら光弾を放つが、ゴスペルが口から放つ衝撃波によって相殺される。

(このままでは、同じことの繰り返しになります! 何か、ゴスペルの弱点さえわかれば……!)

 言葉とは裏腹にユイ/イニスの中で焦りが生じた。
 イニスが生み出す幻影を活かせばゴスペルの攻撃を回避することができるが、そこからの反撃は決定打にならない。イニス自体の火力と耐久力は他の憑神に比べて劣っており、どうしてもゴスペルの方が優位だった。
 しかし、ユイは自分の特性を活かしながら攻撃を避けて、反撃を続ける。ゴスペルの一撃を受けたら致命傷に繋がるが、パパ達のためにも退けない。



「――――戻れ、ゴスペルッ!」

 そして、ゴスペルを咎める叫びが世界に響いた。
 ユイ/イニスとゴスペルが同時に振り向いた先では、あのフォルテが獰猛な笑みを浮かべながら漆黒の翼を羽ばたかせていた。先程のダメージなど気にも留めず、戦意を滾らせている。
 ユイ/イニスがフォルテを睨む一方、ゴスペルはフォルテの元へ走る。
 ゴスペルの足音は世界を震撼させていき、フォルテの全身から禍々しい深紅のオーラが黒泡と共に放たれた。そしてフォルテとゴスペルは融合し、圧倒的な闇の波動が爆音と共に拡散される。

(これは……フォルテとゴスペルが一体化したことで、情報密度が爆発的に向上しているのですか!?)

 視界が濃厚な闇に飲み込まれながらも、ユイ/イニスは冷静に解析していた。
 月海原学園にてスミスに感染したAIDAに立ち向かうため、カイトが<蒼炎の守護神(Azure Flame God)>に覚醒している。蒼炎の守護神のように、フォルテもまた真の姿を見せようとしているのか。
 ユイ/イニスが警戒する中、フォルテとゴスペルを飲み込んでいた膨大な闇が炸裂し、圧倒的な巨体を誇るAIDA<Gospel>が姿を現す。先程、周囲を暴れまわっていたゴスペルと異なり、<Gospel>の体躯はユイ/イニスと同等かそれ以上だった。

「ただのザコかと思っていたが、どうやら違ったようだな!
 ちょうどいい! この俺がキサマの碑文も喰らってやろう!」

 フォルテの哄笑が<Gospel>の大きく開かれた口より発せられる。恐らく、フォルテと一体化した時点で<Gospel>の意識は残っていない。
 しかし、ユイ/イニスには関係なかった。彼が全力を出すなら、それを打ち破ってこそフォルテのプライドも破壊することができる。

「望むところです!
 私はパパを傷付けて、ユウキさん達の命を奪ったフォルテを許しませんし……ママ達の命を奪ったオーヴァンだって許すつもりはありません!
 ここで、この私が二人もろとも葬ってみせます!」

 真の力を発揮したフォルテを前にしてもユイ/イニスは微塵も臆すことなく、それどころか煽ってすらいた。
 何故なら、自らの中から力が湧き水のように溢れていたからだ。イニスの碑文と適合したことで、この力が増幅されたのかもしれない。
 力を得て、ゴスペルとも戦えることを実感し、フォルテやオーヴァンを倒せるという希望を胸に抱いていた。

「……ユイ、よすんだ! 今のフォルテはお前一人で戦えるような相手じゃない!」

 そんな中、眼下から叫んでくる父の姿が見える。
 キリトは心配そうな表情でユイ/イニスを見上げていた。娘の身を案じてくれているけど、今ばかりは父の言うことを聞けない。
 現実の娘のように、たまには親に反抗したかった。

「大丈夫です、パパ! 私なら、みんなを守ることができます!」
「待ってくれユイ! ユイィィィィィィィィィィッ!」

 パパの呼ぶ声を無視して、私はフォルテ/<Gospel>と睨み合う。
 子どもの反抗期で親は悲しむ話は聞いたことがあるけど、改めて実感する。でも、今はパパのためにワガママを貫き通したかった。
 この気持ちに応えて、イニスの力がどんどん増幅されていけばフォルテやオーヴァンを倒すこともできるのだから。


 ユイは気付かない。 
 碑文に覚醒し、力を振るったことで暴走状態になりつつあることを。
 かつてハセヲは『死の恐怖』スケィスの碑文に覚醒した時、志乃を奪った三爪痕の復讐から力に溺れていた。ハセヲの心の闇は増幅し、己の感情に任せて碑文を使い続けてしまい、暴走状態になってクーン/メイガスを嬲った過去がある。
 同様に、ユイもイニスの力を振るってエネミー達を撃破し、フォルテとゴスペルにダメージを与えたことで慢心した。そしてフォルテやオーヴァンに対する復讐が果たせると確信して、これまで溜まっていた感情が昂ってしまう。
 普段のユイならば、冷静な判断を導いて自らが戦おうとしない。しかし、キリト達を守れるという自負が、次第にフォルテとオーヴァンの復讐にすり替わってしまい、その闇に碑文が反応した。
 結果、イニスの力が増幅されていくと同時に、ユイ自身も碑文に飲み込まれようとしていた。



     2◆◆



「これは、厄介なことになったな……!」

 そんなユイ/イニスの異常に気付くことができた人間はたった一人。
『再誕』コルベニクの碑文使いにして、真の三爪痕となって『The World』で暗躍し続けたオーヴァンだけだった。
 ユイの碑文覚醒は流石のオーヴァンも想定外であり、また動揺している。何故なら、目的であるユイ自身が碑文の力で暴走しては、いずれ自滅する危険があった。
 ユイは自分達に対する憎しみを抱いており、その心の闇がイニスに反応している。それ自体は構わないが、ユイのアバターが破壊されてはミッション自体が破綻する。フォルテも闘争心を剥き出しにしているため、力を制御せずにユイを破壊する危険があった。
 例え碑文に覚醒したユイであっても、今のフォルテと戦わせる訳にはいかない。暴走の末にフォルテと相討ちになる可能性があり、または戦闘でエリア崩壊が進んでユイを巻き込む恐れもある。

「……どうやら、俺が出向かなければいけないようだ」

 不本意だが、今はコルベニクの力でユイ/イニスを止めなければいけない。
 八咫の設立したG.U.の真似事をするとは、何の因果だろうか? そう自嘲しながら一歩前に踏み出した瞬間、道を阻むように漆黒のアバターが現れる。

「待て、オーヴァン……! まだ、私との戦いは終わっていないぞ……!」

 息も絶え絶えに、アバターをよろめかせながらも、ブラック・ロータスは構えていた。
 彼女の殺意は衰えることを知らず、ダイヤの如くバイザーは紅い輝きを放っている。きっと、緑衣のアーチャーとクソアイアンを殺されたことで、怒りを燃やしているはずだ。
 ロータスにも興味はあるが、今となっては優先順位が低い。シルバー・クロウとスカーレット・レインの死を利用して、ロータスの怒りを引き出すことで心意について探ろうとした。いずれ、GMと戦う時が訪れるのだから、心意の特性を知って損はない。
 だが、今は最優先はユイの確保だ。ロータスも利用価値はあるが、これ以上は邪魔になる可能性がある。
 出る杭は早急に叩かなければいけない。

「いいや、君はもう終わりだ。
 真実を見せてあげよう――――」

 そしてオーヴァンは疾走する。
 シルバー・クロウとスカーレット・レインが辿り着いた真実に、ブラック・ロータスもまた辿り着こうとしていた――――




 ――――決着はほんの一瞬だった。
 ロータスが刃を振るうが、オーヴァンが目前にまで迫り、次の瞬間にはこのアバターを通り過ぎたように見えた。
 驚愕する暇もなく、全身に違和感が駆け巡る。しかし、一瞬で稲妻が迸るような衝撃と激痛に変わってしまった。

「――――があああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 そして刻まれるのは《異形の聖痕》。オーヴァンの左肩に宿る漆黒の爪によって、ロータスのボディに無残な傷跡が刻まれてしまい、絶叫する。
 シルバー・クロウとスカーレット・レインが味わった苦痛が、こうしてブラック・ロータスにも襲いかかったのだ。
 元より、満身創痍だった彼女に抵抗することはできない。激痛と爪痕から放たれる赤い輝きによって、ロータスの意識は掻き乱されていった。

「黒雪姫えええええええぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」

 そんなロータスを案じる叫びによって、ほんの少しだけ覚醒する。
《異形の聖痕》を刻まれて力なく倒れていくロータスは、自らの痛みがほんの少しだけ和らいで、漆黒のアバターが誰かに抱きかかえられるのを感じた。

「大丈夫か!? 今、治癒の雨を使ったからな!」
「…………ぅ、あぁ………………っ……」

 ジローが狼狽した表情で叫ぶけど、ロータスの意識は痛みで朦朧とするせいで返事ができない。
《異形の聖痕》をまともに受ければどんなプレイヤーでも致命傷は避けられず、ブラック・ロータスもまたデリートされるはずだった。しかしHPが0になる前に、ジローが咄嗟に治癒の雨を使ったことでほんの数%だけHPが残されている。
 もっとも、まともに戦うことなどできないが。

「フッ。仲間に助けられてよかったじゃないか」

 起き上がるどころか、言葉すらも紡ぐことができないロータスを見下ろす男がいる。
 さも滑稽なものを相手にするように、オーヴァンは笑っていた。しかし、すぐに背を向けてこの場から去っていく。

「ま、待て…………オーヴァ……ン…………ッ! わ……た…………し、は…………ッ!」
「シルバー・クロウ達の仇も取れないまま、無様に朽ちていくといい。君はしょせん、ただの操り人形に過ぎなかったのさ。
 塵にも劣る、君の感情など興味はない。俺にとっては無意味だからな」

 冷たい宣言によって、ロータスの息は止まる。
 この怒りと憎しみに興味を向けられず、むしろ初めから存在しなかったかのように言い放っていた。
 それは違うと叫びたい。この手でオーヴァンを八つ裂きにし、己の罪を認めさせて無様に許しを請わせ、その果てに首を撥ねてやりたかった。
 けれど、オーヴァンは去っていく。腕も伸ばそうとするどころか、微塵も動かない。ジローが自分のことを呼ぶ声も、どこかに消えてしまった。



(ち、違う…………私の思い出は無意味なんかじゃない…………!
 私は、ハルユキ君のおかげで立ち上がることができた……! ハルユキ君がいてくれたから、私も彼のように飛びたいと願ったんだ! だから、この気持ちは私にとっての宝物なんだ!
 ハルユキ君が、いてくれたから……!)

 そして、オーヴァンの背中がすぐに見えなくなるが、それでも立ち上がろうと力を込める。
 何もできなかった。ハルユキ君の仇を取るどころか、ロビンフッドとアイアンまでも死なせてしまい、そして自分は完膚なきまで叩きのめされてしまう。
 だけど、戦わないといけない。自分の全てが否定されようとも、ハルユキ君達の無念を晴らすと決めたのだから、絶対に立つべきだった。

(彼は……ハルユキ君は……私を何度も助けてくれた……!
 彼は私の、誇りなんだ…………だってハルユキ君は、私のことを……何度も助けて、くれたんだ…………!
 一人じゃ、何もできなかった私に……空を飛ぶ勇気を、くれたんだ…………!)

 今はもういない有田春雪から何度も助けてもらった。
 銀色の翼を羽ばたかせながら、加速世界の新しい希望になり、一度全てを失った黒雪姫にも。ハルユキ君が幾多の困難を乗り越えてくれたおかげで、私も力と勇気を与えられた。
 そんなハルユキ君がいたからブラック・ロータスは黒の王として復活し、そして多くのバーストリンカーを導けている。

(ハルユキ君は、とっても強い……! 強かったから、私だって彼のように強くあろうと、頑張れた……!
 それにハルユキ君からは、たくさんの思い出を貰った……楽しかったことや面白かったこと、いっぱい教えてもらった……!
 そうだろう、ハルユキ君? 君と過ごした時間や、君がくれた思い出は私にとって……大切な宝物なんだ!)

 雪の中に取り残されてマッチを灯す少女のように、黒雪姫は懐かしい幻を見つめていた。
 ハルユキ君が見せてくれた優しくて暖かい笑顔を見て、胸がときめく自分。他の少女に鼻の下を伸ばすハルユキ君を見て、嫉妬する自分。加速世界に立ちはだかる数多の敵をハルユキ君と力を合わせて、充実感を抱いた自分。
 一つ一つの思い出がかけがえのない宝物で、まるで宝石箱のように輝いていた。

 けれど、ハルユキ君との時間は終わってしまった。

(会いたいよ……! また、ハルユキ君と会って話がしたいよ…………!
 私は強くなるから、ハルユキ君の隣にいさせてくれ……! 強くなるためにも、キミの声を聞かせてくれ!
 キミの声が聞きたい……! でも、キミの声が聞こえないんだ……ハルユキ君…………!)

 ハルユキ君のために戦えなかった無力感と共に、バイザーの下で涙が澎湃と溢れ出す。
 大事な仲間を守る意思も、このデスゲームを仕組んだ主催者を倒す決意も、オーヴァンに対する禍々しい憎悪も消えてしまい、ただの無力な少女に成り下がっている。
 せめて、最後に残ったハルユキ君との思い出だけでも抱えたかったが、それすらも遠くに消えてしまう。だから、彼の名前を呼ぶしかなかった。

 しかしハルユキとの思い出に縋ろうとした瞬間、彼の姿が徐々に遠ざかっていく。

(嫌だ、嫌だよハルユキ君…………! 私を一人にしないでくれ…………!
 私にはハルユキ君が必要なんだ! ハルユキ君がいなければ、これから先の人生で何が起きても全く意味がない…………!
 ハルユキ君! キミは私の誇りだから、私の声に応えてくれよ…………! ハルユキ君…………!)

 助けを求める少女の声に答えてくれる者は誰もいない。
 そうして、自分が一人ぼっちになってしまったことを悟った彼女は、意識を手放した。
 かつて、自らの過去を暴かれた時と同等か、あるいは遥かに凌駕する程の絶望と無力感によってブラック・ロータス/黒雪姫の全てが零(ゼロ)になってしまう。全てを失った彼女は零化現象に陥ってしまい、何もできない。

(助けてくれ……! ハルユキ君……!)

 必死に、世界で一番大切な男の子の優しい笑顔を思い浮かべようとして、黒雪姫はゼロになった。



     3◆◆◆



「黒雪姫! 黒雪姫! しっかりしてくれよ、黒雪姫ッ!」

 俺は黒雪姫のアバターを必死に揺らしながら叫ぶけど、彼女は何も答えてくれない。
 その体に刻まれている無残な傷跡には見覚えがある。月海原学園からネットスラムに向かう最中にも見ており、ニコも受けたであろう爪だ。あまりの痛々しさに目を背けたくなるが、そんなことは許されない。
 今はただ、どうすれば黒雪姫を助けられるのかを考えていた。肉体が消えていないので死んでおらず、気を失っているだけかもしれない。でも、すぐ近くで苛烈な戦いが起きているのに、呑気に構えていられなかった。

「ど、どうすれば……!?」
「ジローさんッ! 黒雪に、何があったんだ!?」

 焦りで考えがまとまらない俺の耳に、焦燥感に溢れたキリトの声が響いてくる。
 ユイちゃんが巨大なモンスターになって、しかも黒雪姫がオーヴァンに酷い傷を負わされた直後だ。冷静でいられるわけがない。
 でも、俺はキリトのことも心配だった。

「キ、キリト! お前……大丈夫なのか!?」
「全然、大丈夫じゃない。だけど、なんとか生きてる…………って、今は俺のことよりも黒雪だ! まさか、黒雪は……!」
「アバターは消えてないから、多分生きていると思う! でも、全然起きてくれないんだ! オーヴァンのせいで……!」

 みんなを傷付けたオーヴァンと、何もできなかった俺自身の怒り。
 やり場のない感情は胸の中にこびりついていて、ただ表情をしかめるしかできなかった。

「……あれ? キリト。お前、どうして剣を持っていないんだ?」

 その最中、俺はキリトが剣を構えていないことに気付いてしまう。
 いくらフォルテがユイちゃんに戦いを挑んだからって、キリトが剣を下ろすとは考えられなかった。
 俺は疑問を口にした瞬間、キリトの表情が一気に曇る。

「俺の剣はフォルテに破壊されて、残ったアイテムと力はみんな奪われた……だから、俺は戦うことができない」
「なっ……マジかよ!?」
「俺はユイやジローさん達を守りたかった! でも、もう無理なんだ……!」

 悲痛な言葉を聞いただけで、キリトの憤りと悲しみが伝わった。
 キリトの身に何が起きたのかを俺は知らない。ただ、ユイちゃんに戦わせてしまい、自分が何もできないことを悔しんでいるはずだ。
 俺だって、力がなかったせいでニコを死なせたから、キリトの気持ちはわかる。今だってユイちゃんが戦うことになってしまい、どんな酷い目に遭わされてもおかしくない。
 だけど、今の俺がキリトに何を言えばいいのか、全然思いつかなかった。

「――――うわあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 俺の葛藤をぶち壊すような、ユイちゃんの叫び声が響く。
 顔を上げた瞬間、イニスになったユイちゃんが巨大化したゴスペルと戦っているのが見えたけど、様子がおかしかった。

「ゆ、ユイちゃん!? 大丈夫かー!?」

 俺の叫びが聞こえていないのか、ユイちゃんは答えてくれない。
 その姿に恐怖を感じる。上手く言えないけど、ユイちゃんであってユイちゃんでいなくなっているような……得体のしれない不安で胸がいっぱいになった。


 体力が 8下がった
 こころが 9下がった
 信用度が 2下がった
 技術が 10下がった


next 世界の終わりがはじまる力

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最終更新:2020年06月27日 19:24