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はじめに、その②」(2013/05/24 (金) 07:46:58) の最新版変更点

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*■はじめに、その② #ref(http://www54.atwiki.jp/waikei2008?cmd=upload&act=open&pageid=11&file=space221-star-trails_61087_big.jpg,width=500,height=250) 釈尊の教えを調べていくと、とても「明確」な教えであることが解ります。 ── その理由は、使われている言葉の「定義」が明確で、「一つ」に絞られているからなのです。 #ref(http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0d/2f/a6df41b650ae44a0b240a4f63899fb68_s.jpg,width=200,height=50) 私が、原始仏典を調べ始めて、一番最初に驚いたのは、それまで自分がイメージしていた「言葉」の定義と、 経典の中で、釈尊が教え、示されている言葉の「定義」の、── あまりにも大きすぎる「ギャッップ(落差・差異)」… でした。 例えば、「無明」という言葉。 これは、根本無知…とか、根源的な真理を知らない事…とか、 漠然とした概念的な知識を、それまでは持っていたのですが、 経典では、     「四聖諦」を知らないこと。 ── という説明が… へ!? 何、これ… 最初は、経典が、何を言っているのかが、よく解りませんでした。 ── その次に、「行」という言葉。 これは、学術書などでは、「潜在的形成力」などと訳されていることが多いのですが、経典では、     「身・口・意」の三行(三種類の行為)のこと。 ん~、これも、何だか、何を言ってんだか … ??? 仏典を最初に読んで、この言葉の「意味(定義)」に接した時は、 それまで抱いていた「概念・イメージ」との差異に、困惑したのです。 …… しかし、それでも、繰り返し繰り返し読んでいるうちに、段々と、この「定義」が心に浸透してゆきました。 #ref(http://www54.atwiki.jp/waikei2008?cmd=upload&act=open&pageid=11&file=_MG_2471.jpg,width=200,height=100) よく、仏教の「真髄」は、「善いことをせよ、悪いことをするな!」だと言う人がいます。 まぁ、確かに「その通り」ではあるのですが、問題は、 その「善いこと」と「悪いこと」とは「何か?」 ── ということなのです。 これが、明確でなく「(その定義が)曖昧なまま」だと、仏教は「道徳・倫理」と何処が違うのか? … ということになってしまうのです。 各人の「価値観」が、この「善いこと」と「悪いこと」に当て嵌められてしまうと、 それこそ「人の数ほどの」何種類もの「仏教解釈」が生まれてしまうのです。 いや、それでいいのだ! ── と、主張する人もいます。 もともと「言葉」は「空(空っぽ)」で、 教義なども「仮設」されたものに過ぎないのだから、固定化させる方がおかしい、と言うのです。 しかし、釈尊の教えは、「文芸作品」などではありません。 明確な「意図」を以って、弟子たちに、 「苦を滅尽させる方法」を、仏陀の英知を駆使して、誤りなく伝えようとしいるのです。 ですから、「一つの言葉」に、 幾つもの「選択肢(異なる定義)」を与えてしまうような「使い方」は、していない「はず」なのです。 「ワンフレーズ・ワンミーン(こんな英語、あるのかしら? とりあえず、意味は、一つの言葉には一つの意味を持たせる、ということ)」 ── この言葉の使い方こそが、 「曖昧さ」を無くし、単純化・明確化された「教え」を創出する「基礎」となる、…と、私は考えたのです。 例えば、先ほどの、「善いことをせよ、悪いことをするな」では、 経典に照らし合わせて説明するならば、 「善きこと」あるいは「善法」とは、「解脱・悟り・出離・涅槃の役に立つ法」という意味になるのです。 そして、その逆の「悪きこと」あるいは「悪法」とは、 「解脱・悟り・出離・涅槃の役に立たず、むしろ有害となる法」という意味になってしまうのです。 そして、この「定義」「解釈」こそが、 「善いことをせよ、悪いことをするな」という言葉を、「仏教たらしめるもの」にするのです。 釈尊は、「一つの言葉(仏教用語)」に、幾つもの「意味」を重ねた使い方はしませんでした。 絶えず、弟子たちに、シンプルで、明快な説明、解説を心掛けていたのです。 ですから、後世の「仏教学者たち」が、最初から「先入観」として持ち込んだ、 「アビダルマ」や「大乗の教え」、あるいは 「インド哲学」などの知識をいくら駆使しても、その内容が解るわけがないのです。 言葉の定義が、仏典で語られていたならば、 その「定義」を繰り返し覚え、護持し、そしてその「意味」を理解しようと努力するのです。   ※このような「方法」で、この @和井恵流は、形成されているのです。 #ref(http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/42/53/8141b3332c041cd6994d43757cb90603_s.jpg,width=250,height=150) 〈 了 〉
*■はじめに、その② #ref(http://www54.atwiki.jp/waikei2008?cmd=upload&act=open&pageid=11&file=space221-star-trails_61087_big.jpg,width=500,height=250) 釈尊の教えを調べていくと、とても「明確」な教えであることが解ります。 ── その理由は、使われている言葉の「定義」が明確で、「一つ」に絞られているからなのです。 #ref(http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0d/2f/a6df41b650ae44a0b240a4f63899fb68_s.jpg,width=200,height=50) 私が、原始仏典を調べ始めて、一番最初に驚いたのは、 それまで自分がイメージしていた「言葉」の定義と、 経典の中で、釈尊が教え、示されている言葉の「定義」の、 ── あまりにも大きすぎる「ギャッップ(落差・差異)」… でした。 例えば、「無明」という言葉。 これは、根本無知…とか、根源的な真理を知らない事…とか、 漠然とした概念的な知識を、それまでは持っていたのですが、 経典では、     「四聖諦」を知らないこと。 ── という説明が… へ!? 何、これ… 最初は、経典が、何を言っているのかが、よく解りませんでした。 ── その次に、「行」という言葉。 これは、学術書などでは、「潜在的形成力」などと訳されていることが多いのですが、 経典では、     「身・口・意」の三行(三種類の行為)のこと。 ん~、これも、何だか、何を言ってんだか … ??? 仏典を最初に読んで、この言葉の「意味(定義)」に接した時は、 それまで抱いていた「概念・イメージ」との差異に、困惑したのです。 …… しかし、それでも、繰り返し繰り返し読んでいるうちに、段々と、この「定義」が心に浸透してゆきました。 #ref(http://www54.atwiki.jp/waikei2008?cmd=upload&act=open&pageid=11&file=_MG_2471.jpg,width=200,height=100) よく、仏教の「真髄」は、「善いことをせよ、悪いことをするな!」だと言う人がいます。 まぁ、確かに「その通り」ではあるのですが、問題は、 その「善いこと」と「悪いこと」とは「何か?」 ── ということなのです。 これが、明確でなく「(その定義が)曖昧なまま」だと、仏教は「道徳・倫理」と何処が違うのか? … ということになってしまうのです。 各人の「価値観」が、この「善いこと」と「悪いこと」に当て嵌められてしまうと、 それこそ「人の数ほどの」何種類もの「仏教解釈」が生まれてしまうのです。 いや、それでいいのだ! ── と、主張する人もいます。 もともと「言葉」は「空(空っぽ)」で、 教義なども「仮設」されたものに過ぎないのだから、固定化させる方がおかしい、と言うのです。 しかし、釈尊の教えは、「文芸作品」などではありません。 明確な「意図」を以って、弟子たちに、 「苦を滅尽させる方法」を、仏陀の英知を駆使して、誤りなく伝えようとしいるのです。 ですから、「一つの言葉」に、 幾つもの「選択肢(異なる定義)」を与えてしまうような「使い方」は、していない「はず」なのです。 「ワンフレーズ・ワンミーン(こんな英語、あるのかしら? とりあえず、意味は、一つの言葉には一つの意味を持たせる、ということ)」 ── この言葉の使い方こそが、 「曖昧さ」を無くし、単純化・明確化された「教え」を創出する「基礎」となる、…と、私は考えたのです。 例えば、先ほどの、「善いことをせよ、悪いことをするな」では、 経典に照らし合わせて説明するならば、 「善きこと」あるいは「善法」とは、「解脱・悟り・出離・涅槃の役に立つ法」という意味になるのです。 そして、その逆の「悪きこと」あるいは「悪法」とは、 「解脱・悟り・出離・涅槃の役に立たず、むしろ有害となる法」という意味になってしまうのです。 そして、この「定義」「解釈」こそが、 「善いことをせよ、悪いことをするな」という言葉を、「仏教たらしめるもの」にするのです。 釈尊は、「一つの言葉(仏教用語)」に、幾つもの「意味」を重ねた使い方はしませんでした。 絶えず、弟子たちに、シンプルで、明快な説明、解説を心掛けていたのです。 ですから、後世の「仏教学者たち」が、最初から「先入観」として持ち込んだ、 「アビダルマ」や「大乗の教え」、あるいは 「インド哲学」などの知識をいくら駆使しても、その内容が解るわけがないのです。 言葉の定義が、仏典で語られていたならば、 その「定義」を繰り返し覚え、護持し、そしてその「意味」を理解しようと努力するのです。   ※このような「方法」で、この @和井恵流は、形成されているのです。 #ref(http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/42/53/8141b3332c041cd6994d43757cb90603_s.jpg,width=250,height=150) 〈 了 〉

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