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■はじめに、その②


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釈尊の教えを調べていくと、とても「明確」な教えであることが解ります。

── その理由は、使われている言葉の「定義」が明確で、「一つ」に絞られているからなのです。



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私が、原始仏典を調べ始めて、一番最初に驚いたのは、
それまで自分がイメージしていた「言葉」の定義と、
経典の中で、釈尊が教え、示されている言葉の「定義」の、
── あまりにも大きすぎる「ギャッップ(落差・差異)」… でした。


例えば、「無明」という言葉。

これは、根本無知…とか、根源的な真理を知らない事…とか、
漠然とした概念的な知識を、それまでは持っていたのですが、

経典では、


    「四聖諦」を知らないこと。


── という説明が…



へ!? 何、これ…
最初は、経典が、何を言っているのかが、よく解りませんでした。




── その次に、「行」という言葉。
これは、学術書などでは、「潜在的形成力」などと訳されていることが多いのですが、

経典では、


    「身・口・意」の三行(三種類の行為)のこと。


ん~、これも、何だか、何を言ってんだか … ???
仏典を最初に読んで、この言葉の「意味(定義)」に接した時は、
それまで抱いていた「概念・イメージ」との差異に、困惑したのです。



…… しかし、それでも、繰り返し繰り返し読んでいるうちに、段々と、この「定義」が心に浸透してゆきました。


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よく、仏教の「真髄」は、「善いことをせよ、悪いことをするな!」だと言う人がいます。

まぁ、確かに「その通り」ではあるのですが、問題は、
その「善いこと」と「悪いこと」とは「何か?」 ── ということなのです。


これが、明確でなく「(その定義が)曖昧なまま」だと、仏教は「道徳・倫理」と何処が違うのか?
… ということになってしまうのです。
各人の「価値観」が、この「善いこと」と「悪いこと」に当て嵌められてしまうと、
それこそ「人の数ほどの」何種類もの「仏教解釈」が生まれてしまうのです。


いや、それでいいのだ! ── と、主張する人もいます。


もともと「言葉」は「空(空っぽ)」で、
教義なども「仮設」されたものに過ぎないのだから、固定化させる方がおかしい、と言うのです。



しかし、釈尊の教えは、「文芸作品」などではありません。

明確な「意図」を以って、弟子たちに、
「苦を滅尽させる方法」を、仏陀の英知を駆使して、誤りなく伝えようとしいるのです。


ですから、「一つの言葉」に、
幾つもの「選択肢(異なる定義)」を与えてしまうような「使い方」は、していない「はず」なのです。

「ワンフレーズ・ワンミーン(こんな英語、あるのかしら?
とりあえず、意味は、一つの言葉には一つの意味を持たせる、ということ)」




── この言葉の使い方こそが、
「曖昧さ」を無くし、単純化・明確化された「教え」を創出する「基礎」となる、…と、私は考えたのです。




例えば、先ほどの、「善いことをせよ、悪いことをするな」では、
経典に照らし合わせて説明するならば、
「善きこと」あるいは「善法」とは、「解脱・悟り・出離・涅槃の役に立つ法」という意味になるのです。
そして、その逆の「悪きこと」あるいは「悪法」とは、
「解脱・悟り・出離・涅槃の役に立たず、むしろ有害となる法」という意味になってしまうのです。


そして、この「定義」「解釈」こそが、
「善いことをせよ、悪いことをするな」という言葉を、「仏教たらしめるもの」にするのです。


釈尊は、「一つの言葉(仏教用語)」に、幾つもの「意味」を重ねた使い方はしませんでした。



絶えず、弟子たちに、シンプルで、明快な説明、解説を心掛けていたのです。



ですから、後世の「仏教学者たち」が、最初から「先入観」として持ち込んだ、
「アビダルマ」や「大乗の教え」、あるいは
「インド哲学」などの知識をいくら駆使しても、その内容が解るわけがないのです。


言葉の定義が、仏典で語られていたならば、
その「定義」を繰り返し覚え、護持し、そしてその「意味」を理解しようと努力するのです。


  ※このような「方法」で、この @和井恵流は、形成されているのです。


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〈 了 〉