#83 礒部公一


  • 1974年3月12日生まれ 広島県東広島市出身 右投左打
  • 楽天初代選手会長。愛称は「べっち」。部ではなく部なので注意。
  • 選手時代の背番号は「8(05'-09')」

プロ入り前~近鉄時代

  • アマ時代は社会人屈指の強肩強打の捕手として有名だった。
  • 1996年ドラフト3位で近鉄バファローズに捕手として入団。
  • 当初はブルーウェーブ志望だったが、実家に白馬に乗った王子様ならぬ、ヘリコプターに乗った佐々木恭介が登場。
    ドラフト会議後、真っ先に訪れた熱意と説得により入団を決意する。
  • しばらくは捕手と外野手とで併用される。
    打撃を生かすため、また正捕手争いに敗れたこともあり、2001年以降は外野手専任に。
  • 2001年には打率.320、17本塁打、95打点、リーグトップの得点圏打率.417という好成績を残し、近鉄の優勝に貢献。
  • 2004年にはキャリアハイとなる26本塁打を放つ。
  • この年は6月に近鉄とオリックスの合併計画が浮上。
    選手会長として労使交渉・署名活動など反対運動に奔走する中であげた成績だった。
  • シーズンオフ、新球団オリックス・バファローズのプロテクト(優先確保)を受ける。
    しかしこれを拒否し、東北楽天ゴールデンイーグルスへ入団。

楽天時代

  • 球団初年度、当時の楽天で唯一まともに計算できる(?)打者として開幕当初は6番で起用される。
  • しかし元近鉄ファンの「礒部にプレッシャーかけるとハマる」という危惧通りに開幕から5試合連続ノーヒット。
  • なかなか打てずにいたが、1番に起用すると第一打席で本塁打。
    ちなみにこれが球団初、本拠地フルスタ(当時)初のホームランだった。
  • それからというもの、今までの不振は何だったかのように打ちはじめ、以後は1番に固定される。
  • オールスターではファン投票でチーム唯一の出場を果たした。
  • シーズン唯一の欠場の原因は寝違えである。

  • 2006年、FA権を取得。「優勝できるチームでプレーしたい」と発言するも、結局FA権は行使せずじまい。
  • 翌年は主に不動の3番・ライトとして活躍し、3割以上のハイアベレージで一時は首位打者争いにも食い込んだ。
    しかし交流戦を境にして、徐々に打率を落としていく。
    夏には死球による踵の打撲で二軍に落とされてしまう。
  • 一軍復帰後も、ケガの影響からくる守備の衰え、そして打撃不振から後半戦はスタメンを奪われる。
    出番は代打や下位打順に限られてしまうように。
  • 昨シーズン同様、出場機会を求めてのFA権行使もほのめかしたが「野村監督を胴上げしたい」と再び残留。
  • 2008年は開幕スタメン入りこそしたものの、打撃不振は変わらず。
    若手の左打外野手が複数台頭し、出場機会もほとんどないまま過去4年間で最低の成績に終わってしまった。
  • 大幅減俸を受け入れて迎えた2009年、オープン戦では規定打席に到達しなかったものの3割を超えるアベレージを残す。
    見事開幕スタメンの座を勝ち取ったが、結果を残せず4月20日に一軍登録抹消。
    以降は一軍復帰を果たせず、出場はわずか8試合に終わった。
  • チームが初のAクラス入りに向けて盛り上がる中、10月2日に戦力外通告を受ける。
  • 一時は現役続行を希望するが、球団からコーチ就任を打診され、これを受け入れる。

  • シーズン終了後の10月27日に現役引退を表明。
  • 11月2日に現役引退と2軍育成コーチ(打撃担当)への就任が正式に発表された。
  • ファン感謝祭で胴上げされ、べっちは現役生活に別れを告げた。
  • また背番号「8」は中島俊哉に受け継がれた。

  • コーチ就任後、竹刀を振り回してファームの若手を指導する姿が報じられている。


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最終更新:2011年05月15日 22:03