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史学史(一)
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史学史(一)
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トート神 古代エジプトでは書記官によって詳細な歴史記録が蓄えられていたが、歴史観のような歴史を体系的に把握しようとする意識には乏しかったと考えられている。なぜならそのような歴史観を抱くことは、書記官の守護神であり歴史の主宰者であったトート神を冒涜するものと考えられたからである。したがって歴史記録の蓄積があっても歴史学的な営みに発展しなかったと考えられている |
「史学史(一)」では、歴史記述の発生から啓蒙主義の歴史記述までを対象とする。それ以降は「史学史(二)」「史学史(三)」を参照。 |
その必要性と前史
史学史の定義とその必要性
史学史は狭義には近代?に成立した歴史学の学説史のことを指すが、近代歴史学以前にも歴史記述を対象とし、歴史事実や歴史意識、歴史観などを記述する学問的営みが行われていた。またそれらを記述するに当たっては様々な方法論が用いられ、その方法論は近代歴史学の研究方法に大きく影響を及ぼしている。同時に近代歴史学自体が近代以前の歴史記述を主要な研究対象としているため、事実把握においてそれらの歴史記述の客観性を検討(史料批判?)しなければならず、したがって史料がどのような方法論に基づいて記述されているかは主要な関心となる。ここに広義の意味での史学史、すなわち歴史記述や歴史意識、歴史観の変遷の歴史も歴史学の対象として成立する[1]。
[1]イブン・ハルドゥーン?は歴史学的な記述と、単なる出来事の報告や物語を分けるのは、広く承認されているかどうかと記述の方法論によると述べている。そして歴史学的記述が広く承認されるかどうかはその記述の方法論が妥当であるかどうか、批判することが可能であるかどうかによるという。すなわち彼によれば、歴史学的記述の信頼性はそこに記載された事実の信憑性ではなく、方法論の信頼性によるのである。彼は事実の信憑性についていえば、一流の歴史家の著述であっても疑わしい部分はあるが、それはその記述の歴史学的価値にとって決定的ではないという。(文献1:pp.19-33) バラクルー?の「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいているけれども、厳密にいうと、決して事実ではなく、むしろ広く認められているいくつかの判断である」(文献2:pp.13-14)という言葉、E・H・カー?の「歴史的事実という地位は解釈の問題に依存することになるでしょう」「私たちが歴史を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきです」(文献2:p.27)という言葉も同様の内容を言い換えたものである。 つまり記述された歴史(史料)は常に記述主体(記述者・報告者・著述家・歴史家など)の取捨選択を含んでいる。ところで過去の事実が記述という形でしか客観化されない以上、史料の示す以上の過去の事実は知ることができない。したがってどのような取捨選択が、その史料を記述する上でおこなわれているかという観点は史料を扱う際にはつねに想起されなければならない。(文献7:pp.26-38、文献17:pp.126-127) また歴史家がどのような立場に立って自分が歴史を記述しているかを自覚することなしに歴史を記述しようとすれば、首尾一貫性のない歴史記述をしてしまったり、客観的に記述しているつもりでじつは主観的な記述をしてしまうことにつながる。したがって歴史家は自分の主観性をむしろ積極的に意識し、その方法論の特徴と限界性を明瞭に認識した上で記述することでかえって客観的な歴史事実に近づくことができるのである。(文献7:pp.182-196) すなわち歴史研究は最終的には歴史を叙述する営みであり、そのために歴史家は単なる実証的な史料批判にとどまるのではなくて、史料を取捨選択し、一つの方法論に基づいて新たな歴史を叙述することを求められるのである。歴史家は最終的には何らかの方法論を設定してそれにしたがって記述するのであるから、方法論の歴史を振り返り、自らの方法論について検討を加えることを怠ってはならない。(文献14:pp.163-171) |
歴史意識と歴史記述
歴史学研究が成立するには、歴史観、あるいは歴史意識の成立とそれに基づいた歴史記述の存在が前提とされる[1]。独特の時間意識としての歴史意識が存在していても、それが記述されない場合は記述としての歴史が存在しないことがある[2]。歴史意識とは時間が一定方向に流れていくという時間意識のことであるが、これはある一定の時点から現在までの直線として時間を把握する紀年法?的発想を必要とする。したがって時間を一定の暦という形で把握する暦思想の成立なくして歴史記述は成立しない。
[1]歴史は二義性を持っており、客観的事実としての「過去の出来事」とそれを言語的に表現した「歴史記述」に分けることができる。歴史学は基本的には前者を対象とし、それを明らかにする学問であるが、前者を対象化するためには言語によって記述され客観化される必要がある。したがって歴史学は過去の出来事を明らかにするために、それについての歴史記述をも対象とし、さらにそれを記述して新たな歴史記述を生み出す過程である。もちろん事実としての歴史と記述された歴史の間には観察者としての記述者、著述家の視点が存在するから、歴史記述自体は客観化されたものであってもそこに記された歴史事実が必ずしも客観的であるとは限らない。また近年では言語表現としての文字以外の形で記録された過去の記憶も「歴史事実」として扱われるべきではないかという主張も存在する。 |
[2]一般に遊牧民は文字文化の形成が遅いことが指摘されており、したがって遊牧民は自らの歴史を記述するのが遅れ、彼らの古代史は主に隣接する農耕民の歴史記述によって把握される傾向にある。またインドやイランなど文字文化が存在したところでも、それを体系化して歴史として記述する意識が希薄だったために歴史記述は遅れた事例があることが指摘されている。(文献3:pp.8-12) |
同時代記述と歴史記述
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ハンムラビ(左側の人物) バビロン第1王朝の代表的な君主。ハンムラビ法典を制定したことで有名。ハンムラビ王の在位43年のそれぞれの年がどのように記録されたかは研究により解明されている |
このような暦思想の成立以前、すでに文字による同時代の出来事記述はされていた。文字?は元来古代の行政?・財政?の記録を保存する必要性から発明されたと考えられている。このような行政文書においては当然「いつ」「どこ」で「誰」と「誰」が「どのような」取引をおこなったかが主要な関心となるため、その「いつ」の部分をとくに重要な出来事を目安にして記録されることが行われた。このように出来事に基づいてある1年をほかの年から区別する方法は古代メソポタミアのウル第3王朝時代?にはすでに成立していたといわれる[1]。
[1]バビロン第1王朝?のハンムラビ?王の43年の治世についてはすでにそれぞれの年がどのように記述されたかは解明されており、それに従って具体例を示せば、その第1年は「ハンムラビ、王(となった年)」、第2年は「国内に正義がおこなわれた(年)」、第3年は「バビロン?においてナンナ神のための高壇に玉座を築いた(年)」などとされている。(文献3:p.26) |
時代が進むと、王の在位年と主な業績を付記した王名表?という文書が出現し、王名表は王朝?を一つの歴史的連続性によって認識していることを示しており、歴史意識とその記述の原型を見ることができる。ただしこの王名表において個々の王は一人称で記述され、同時代向けのプロパガンダ的側面が看取される点で客観的な歴史記述とは異なるものであった。
一方で支配者は主に軍事的成功など自らに関する特別な出来事があった場合は記念碑を作ってこれを顕彰した。これは出来事をただ記すのではなく、その偉大さ重要性などを具体的に叙述することで事実としての歴史を文章にして表現したものであった。このような碑文はあくまで同時代を対象としている点で歴史記述ではないが、その記載に対しての態度は歴史の記述方法に継承されるものであった。
やがて古代オリエント末期の新バビロニア?時代になると、歴代誌?という形式の文書が出現する。これは新バビロニアの数代の王の治世を記述対象としているもので、文書内で王を三人称で呼んでいることから、客観的な事実を記載する意図を持ったと思われる。したがって今日的な意味での歴史記述の成立はこの歴代誌に求めることができる。やがて時代をさかのぼって新バビロニア以前の王朝を歴代誌と同じように記載する文書が出現し、現在ある王朝以前からの連続した世界を客観的に記述する意図を持つ歴史編纂の態度が現れた。このような歴史を編纂する営みのことを「修史?」という。歴史記述としての歴史学はまず修史として成立した。
歴史的展開
近代歴史学との関連性から、ここでは主に西ヨーロッパの歴史記述と記述方法論を中心に概観する。
古代ギリシャにおける歴史記述の始まり
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ヘロドトス(左側)とトゥキュディデス(右側) |
歴史記述としての歴史学の始まりは古代ギリシャであるというのが一般的である[1]。古代ギリシャの代表的な歴史家として挙げられるのはヘロドトスとトゥキュディデスである。彼らの著作は同時代的な出来事の原因と推移を示すために歴史記述をしている点が特徴としてあげられる[2]。また記載されている事実は両者が実際に見聞したものが大半で、記述に当たって自分の見聞以外の原史料を使用している痕跡があまりない[3]。(詳細は西洋古代の歴史記述を参照)
[1]しかし古代ギリシャでは「永遠」であることが重んじられたために、個々の事実は「生滅」するために尊重されず、全体としては歴史に対する関心は低かったことが指摘されている。たとえばアリストテレス?は永遠不変な意味内容を含む「詩?」を非常に高く評価する一方、「歴史」についてはそれが個別的で一時的な出来事を扱うものであるという理由で低い評価しか与えていない。(文献3:pp.67-68、文献5:pp.28-29) |
[2]ヘロドトスもトゥキュディデスも同時代史に終始して遠い過去の研究にさかのぼることはなく、それは古代ギリシャ特有の循環的歴史意識によるという。(文献3:pp.66-75、文献21:p.36) |
[3]ヘロドトスが明示して引用している書物はヘカタイオスの書物だけである。 |
ヘロドトス
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ダヴィッド画「テルモピレーのレオニダス」 レオニダス率いるスパルタ軍はアケメネス朝の大軍をテルモピレーの隘路で待ちかまえた。決死の覚悟で激しく戦い、3日の間にわたって足止めした。ヘロドトスの著作における山場の一つ |
一般に「歴史学の父」と言われるヘロドトスは前5世紀のギリシャの人である。彼はアケメネス朝とギリシャのポリス?の間で起こったペルシア戦争?の原因と推移を詳述し、さらにはその勝敗の理由を両者の政治体制?の相違に求めた[1]。ヘロドトスの歴史記述の特徴は、客観的な事実性をあまり重視しておらず、自身の見聞に基づいてさまざまな伝承や伝説を多く著述していることが挙げられ、これが後述するトゥキュディデスの批判するところとなった[2]。
[1]アケメネス朝に代表されるアジアの専制主義とギリシャのポリスに代表される民主主義の比較はギリシャの思想家においてそれほど珍しくなく、アリストテレスもポリス社会にアジアにはない自由を見出して、そこに政治的価値を主張している。(文献26:pp.46-48) 今日問題にされるオリエンタリズム?の原型をここに見出すことも不適切であるとはいえない。 |
[2]トゥキュディデスと異なり、ヘロドトスの記述には年代を明示する箇所が少ない上に挿話が多いことから、その年代的な信憑性について疑問が抱かれていた。とくにポリス社会での年代が示されているのは、ペルシア戦争終結の年だけであり、時の執政官カリアデスの在位年が用いられている。今日では、研究によってヘロドトスの年代構造がかなり明らかになっており、その構造がしっかりとしたものであることが確認されている。 |
トゥキュディデス
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ペリクレス ペロポネス戦争前夜のアテナイを主導した。トゥキュディデスは立場的にはペリクレスの政敵の家系に近かったらしいが、彼を大変高く評価し、彼の演説部分はトゥキュディデスの著作の中でも評価の高い箇所である |
一方ギリシャのポリス間同士でおこなわれたペロポネソス戦争?を記述したトゥキュディデスは、ヘロドトスが伝承や伝説までも記述の対象としていたのを批判し、検証性を重視して歴史を記述した[1]。一方でトゥキュディデスの歴史記述に登場する為政者の演説などは創作性が大きく、また見聞に頼っているせいか、事実の記述においてやや偏りが見られる[2]。
[1]トゥキュディデスは著述に当たって、トロイア戦争?とペルシア戦争を考察して、両方の戦争では海軍国家が陸軍国家に勝利しており、海軍国家が陸軍国家より有利であると述べる。ペロポネソス戦争ではアテナイとスパルタが戦うのであるが、海軍国であるアテナイが陸軍国であるスパルタより基本的には優位にあるとする。そのうえで実際はアテナイが敗北する結果となったことを鑑みて、その原因を探っている。年次の記載にも気を配っており、複数の紀年を用いて表現している。たとえば「アルゴスではクリューシスの神職在任48年目、スパルタではアイネーシアースが監督官であったとき、アテーナイではピュートドーロスが執政官の任期を終わる4ヶ月前、ポテイダイアの会戦後11ヶ月目」というような形である。またアテナイに蔓延した疫病の病状について専門用語を駆使して詳しく記しているが、後世同様の病気の治療の際に参考になるように記録するのであると述べている。このように論理性に優れた洞察と、出来事に対する明確な問題意識をもとに記述する姿勢が高く評価されている。(文献5:pp.9-49) |
[2]演説はかなり創作性が高いが、状況から論理的に考え抜かれているために、むしろ本文の記述において十分に示されない問題背景を補っている面があり、ただ単に物語として記されているわけではないことが指摘されている。トゥキュディデス自身も演説のほとんどは創作であり、前後の事情を考えて演説の論旨を構成していることを認めており、これは彼の歴史叙述の特徴であり、もともと意図されたところであるらしい。(文献8:p.54) また事実としては些少ながら、かなり克明に記載されている例としてはアテナイによるメロス島侵攻の記事を挙げることができる。トゥキュディデス自身もメロス島に戦略的価値はなく、政治的事件としては瑣末的な出来事であったと認めつつ、アテナイの大国主義的な政策の事例を示すためにあえてかなり詳細に記したらしい。同書においては文学的にも評価が高い箇所でもある。(文献4:pp.9-14、文献6:pp.352-363) |
西洋中世における歴史記述の推移
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アウグスティヌス 代表的な著作『神の国』では、二元的な世界観を示し、以後のキリスト教神学・政治思想・歴史観などに決定的な影響を与えた |
キリスト教?がヨーロッパで支配的となると、学問分野においてもキリスト教の世界観が支配的となった。ここに神の意図を実現する過程として歴史を捉える見方が現れ、個別の国家・民族・個人を超えた歴史の根本法則を見出す観点、普遍史の観点が成立した[1]。しかしルネサンス?期になると普遍史的観点は薄れ、同時代史を重視するようになった。(詳細は西洋中世の歴史記述?、ルネサンスの歴史記述?を参照)
[1]歴史の過程は人間生活の中で人間の意志によって実現されるが、じつはそれによって達成されるものは神の意図に一致するという考え方。この考えによれば、究極的には人間の歴史も神の意図を実現する歴史であるということになる。(文献18:pp.90-91) キリスト教思想は発展的歴史観を生み出し、その哲学的表現がアウグスティヌス?の『神の国』であった。(文献21:p.37) 福田歓一?はここにヨーロッパにおける歴史哲学の成立を見出している。(文献19:pp.108-109) |
アウグスティヌスと「二国史観」
中世の歴史記述の特徴の一つとして「二国史観」という観点がある[1]。これはキリスト教的世界である「神の国」と神を侮る人間の自己愛的世界である「地の国」の対立のもとに歴史を把握する歴史観で、アウグスティヌスによって理論づけられ、歴史は「地の国」に「神の国」が実現する過程であると理解された。ここに歴史事実の背景に何らかの根本法則を見出そうとする歴史意識が成立したが、この意識はキリスト教的精神によって支えられていたために、キリスト教の権威が相対的に弱まるとともに希薄化した。
[1]「二国史観」の代表的かつ最も完成された著作はフライジングのオットー?(生没:1114年-1158年)の『二国年代記』(原題:Chronikon sive historiae de duabus civitatibus)である。この書に特徴的なことは、天地創造?からドイツ国王コンラート3世?にいたるまで記述されたあとに、最後の審判?・永遠の天国?の到来にいたる未来史が記述されていることである。(文献18:pp.96-97) |
ルネサンス期の歴史記述(マキャヴェリとグイッチャルディーニ)
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マキャヴェリ 極めて実際的な権力重視の政治理論を唱えたマキャヴェリ。彼の政治理論は歴史の教訓から得られたものであった |
キリスト教の権威が弱まり、普遍史的意識が希薄化すると、歴史記述は再び同時代史を中心になされるようになった。ルネサンス時代の代表的政治思想家で歴史家でもあるマキャヴェリ?の『フィレンツェ史』[1]は、民族移動から1492年のロレンツォ・デ・メディチ?の死にいたるまでのフィレンツェとイタリア半島の歴史であるが、その冒頭から1434年に至るまでの歴史は全9巻[2]の中でただ1巻で述べられているに過ぎない。彼の同時代人で『フィレンツェ史』[3]・『イタリア史』[4]を著したグイッチャルディーニ?に至っては、同時代史の比重がより大きくなり、この点で古代ギリシャの歴史記述と同じ傾向を持つものとなった[5]。
[1]原題:Istorie fiorentine、1520年-1525年。 |
[2]9巻は未完の草稿が残るのみで、完成しているのは8巻まで。 |
[3]原題:Storie fiorentine、1508年-1510年。 |
[4]原題:Storia d'Italia、1537年-1540年。 |
[5]グイッチャルディーニの『フィレンツェ史』は1378年から1509年を記述しているが、叙述が詳細になるのはロレンツォ・デ・メディチを対象とするあたりからであり、1492年の彼の死以降が最も詳細になる。『イタリア史』のほうは1492年から1534年に至るまでを対象としているが、これは全く同時代史である。(文献18:pp.99-100) |
啓蒙主義の歴史記述
理性?の不変と普遍を主張し、あらゆる物事を理性によって体系づけようとする啓蒙思想?がヨーロッパで支配的になると、歴史記述にも大きな影響を与えた。啓蒙思想は懐疑と批判によって、歴史記述に事実尊重・方法論重視の傾向をもたらし、さらに歴史研究を実践に結びつけようという風潮につながった。(詳細は啓蒙思想の歴史記述?を参照)
フランス(ベールからボーフォールまで)
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モンテスキュー 啓蒙主義を代表する政治思想家。歴史研究を実際の政治理論に応用し、その著作はいまなお古典として高い評価を受けている |
ベール?は『歴史批評辞典』[1]を著し、具体的な事実をそれ自体として尊重する立場を示し、既存の歴史記述の誤謬を指摘した[2]。事実を尊重するベールから始まった啓蒙主義の歴史研究はやがて、実践的な歴史記述に結びついた。ブーランヴィリエ?は『フランス旧統治史』[3]を著し、貴族の復権を訴えたが、彼は当時フランス政府が行った各地の古い慣行についての報告書を検討してその主張の根拠とした。デュボス?の『フランス王政樹立の批判的歴史』[4]はブーランヴィリエとは逆に、貴族とその特権を攻撃するものであったが、彼はフランス王権の由来を、民族大移動の際にガリアのローマ系住民とフランク族の間で交わされた契約の結果であるとし、それを根拠とした。このように啓蒙主義の歴史研究は過去の事実を尊重する立場から、やがて過去の事実を現在の批判の材料として使用する実践的な側面を持つようになった。
この意味で、啓蒙主義の歴史家の典型を示し、かつ評価が高いのはモンテスキュー?である。彼は代表的著作『ローマ人盛衰原因論』[5]および『法の精神』[6]において、歴史事実から理論的なモデルを抽出し、それを現在の社会に適用して問題解決の手段に利用しようとした[7]。一方でボーフォール?は『ローマ史最初の五世紀の不確実さに関する論文』[8]を著し、ローマ史冒頭のロムルス?とレムス?に始まる王政の歴史が神話と伝説に過ぎないことを論じた。ボーフォールの研究は近代歴史学に直接つながるものであった[9]。
[1]原題:Dictionnaire historique et critique、1697年。 |
[2]ベールは歴史に形而上学的観点を持ち込むこと、つまり歴史哲学のような観点から歴史事実を扱うことを批判した。歴史事実同士の関連性を否定し、歴史事実は全て独立に扱われるべきであるという見方を示した。したがって歴史事実と歴史事実の間の相互性や因果関係を否定した。カッシーラー?は、このベールの研究態度は歴史の過程に法則性を否定したことで歴史理論の破壊であったが、事実を尊重するという方法論を示したという意味で創造的であったと述べている。(文献20:pp.9-65) またベールが理性に基づいて彼の現在から過去を批判し、評価したことは、過去を現在と同質な次元に捉えることであり、したがって過去と現在に相関的統一が与えられた。(文献18:pp.113-114) |
[3]原題:Historiae de l'ancien gouvernement de la France、1727年。 |
[4]原題:Histoire critique de l'établissement de la monarchie française、1734年。 |
[5]原題:Considérations sur les causes de la grandeur des Romains et de leur décadence、1734年。 |
[6]原題:De l'esprit des lois、1748年。 |
[7]カッシーラーはこのモンテスキューの手法をウェーバー?の理念型?と同一のものであり、社会学?・政治学?ではこの手法が支配的であるが、それはモンテスキューに由来すると述べている。(文献20:pp.32-33) |
[8]原題:Dissertation sur l'incertitude des cinq premiers siècles del'histoire romaine、1738年。 |
[9]政治思想・社会学などにモンテスキューが及ぼした影響は決定的で、とくにその機構論は現代政治の基本理念の一つにまでなっている。しかし近代歴史学の観点でいえば、事実に対する客観性の重視という意味で、モンテスキューよりボーフォールの伝承批判のほうが価値ある研究であった。後述するニーブールの研究もボーフォールの研究の影響のもとにあった。(文献18:pp.120-121) |
イギリス(ヒューム、ロバートソン、ギボン)
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ヒューム スコットランド啓蒙主義を代表する思想家。彼の影響は哲学を中心に多方面にわたる |
ブリテン島?での啓蒙主義的歴史研究は、まずスコットランドで「スコットランド啓蒙主義?」と呼ばれた思想家たちの間で行われた。このスコットランド啓蒙主義の代表的著作はヒューム?の『イングランド史』[1]であるが、これも前期ステュアート朝?の君主、とくにチャールズ1世?を悪の権化とするような当時の風潮に対する批判が込められていた[2]。スコットランド啓蒙主義は事実をそのまま記述しようという叙述的歴史を重視する態度に進み、ロバートソン?の『スコットランド史』[3]・『カール5世時代史』[4]につながり、さらにイングランド?のギボン?による『ローマ帝国衰亡史』[5]などの歴史叙述を生んだ。
[1]原題:History of England、1754年-1763年。 |
[2]カッシーラーによると、ヒュームは事実と概念を対立させたのみならず、事実のうちでも一般的事実と個別的事実を対立させ、事実の概念への普遍化を放棄した。このことが個別的事実の重視につながり、個別的事実を積み重ねて歴史事実を叙述する態度を生んだという。(文献20:pp.55-56) |
[3]原題:History of Scotland 1542 - 1603、1759年。 |
[4]原題:History of the Reign of the Emperor Charles V、1769年。 |
[5]原題:The History of the Decline and Fall of the Roman Empire、1776年-1782年。 |
独立した先駆的研究(ヴィーコからミシュレまで)
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ヴィーコ デカルト的方法論を批判し、自然科学とは別個に社会科学の研究分野が確立されるべきだと述べた。彼の思想はしかし同時代にはほとんど顧みられることがなかった |
上述したような啓蒙主義の主流とは独立に、歴史研究の独自な方法論を模索したのがヴィーコ?であった。ヴィーコは自然認識を重視するデカルト?的方法論を批判し、自然認識と歴史認識は異なるものであると述べた[1]。一見これは神学的な「二国史観」に接近しているようであるが、ヴィーコは神の意図の実現が歴史の過程であるとしても、それが人間行為としてまず行われるのであり、したがって神の意図を考えなくても人間行為の過程を把握することが可能であるとして、神学的解釈を歴史認識に持ち込むことも拒否した。このようにヴィーコの歴史哲学は今日的に見て意義深い内容であったが、啓蒙主義の時代にはヴィーコの影響は非常に限られており、ほとんど顧みられることがなかった[2]。
ライプニッツ?はブラウンシュヴァイク家?の依頼で古文書を収集し、『西ローマ帝国編年史』[3]を著した。しかしのちの歴史学に影響を与えるのは彼のモナド論?で、実体を静態としてではなく動態として捉えることを主張した[4]。ヘルダー?はライプニッツのモナド論に影響されて独自の歴史哲学を展開した。彼は歴史事実のあらゆる普遍的な特徴付けを放棄し、歴史事実は「個」として存在するのであるから、その存在に同一性は存在しないとした。あくまでそれらの事実の発展の過程において統一性が存在するのだと述べ、したがって歴史の普遍性は過程の統一性によって把握されるべきだとした。
19世紀の歴史家ミシュレ?はこのヴィーコの著作を発掘し、歴史研究において分析力よりも構想力のほうが重視されるべきことを主張したが、これもほとんど顧みられなかった[5]。
[1]ヴィーコは歴史認識においては観察者・記述者・歴史家(認識の主体)と歴史事実(認識の客体)が一致するために歴史的な真実というものは認識可能だとした。なぜなら自然的世界は神が作ったが、歴史的世界は人間自身が作ってきたものだからである。このことは自然的世界とは異なる歴史的世界を成立させることになり、それが自覚的に捉えられていることを示している。(文献18:pp.122-128) |
[2]カッシーラーはヴィーコは最初の体系的な歴史哲学を展開したが、ヘルダーに再発見されるまで啓蒙主義には何の影響も及ぼさなかったと述べている。(文献20:pp.28) |
[3]もともとはハノーヴァーのブラウンシュヴァイク家の家系史になる予定だったが、途中でライプニッツが死んだため、768年から1005年までの記述となった。 |
[4]カッシーラーによると、モナド論は近代歴史学の原則ともいうべき「個性原理」に直接つながるものである。(文献20:pp.57-61) またライプニッツは歴史編纂を職業としており、当時の中国学の第一人者であった。 参照:http://elekitel.jp/elekitel/special/2003/04/sp_01_a.htm |
[5]ミシュレの時代は社会学や進化論の手法が歴史学に取り入れられ流行していた時期であり、このような歴史学の「科学化」が進行している時代には合致していなかったためである。このミシュレの研究が発掘され、脚光を浴びるのはフェーヴルによって実証主義歴史学が見直された時であった。(文献18:pp.128-130) |
以降「史学史(二)」へ続く |
出典
※参照した文献は、その旨を記す際に煩雑さを避けるため、「文献」のあとに数字を示すこととする。具体的には「文献1」という場合は、下記のイブン・ハルドゥーンの『歴史序説(一)』を指すものとする。
- (文献1)イブン・ハルドゥーン?著、森本公誠?訳 『歴史序説(一)』岩波文庫、2001年
- (文献2)E・H・カー?著、清水幾太郎?訳 『歴史とは何か』岩波新書、1962年
- (文献3)蔀勇造?著 『世界史リブレット57 歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり』山川出版社、2004年
- (文献4)田中美知太郎?著 『ロゴスとイデア』岩波書店、2003年
- (文献5)トゥーキューディデース著、久保正彰?訳 『戦史 上』岩波文庫、1966年
- (文献6)トゥーキューディデース著、久保正彰訳 『戦史 中』岩波文庫、1966年
- (文献7)堀米庸三?著 『歴史をみる眼』NHKブックス、1964年
- (文献8)村川堅太郎?編 『世界の名著5 ヘロドトス トゥキュディデス』中公バックス、1980年
- (文献9)溝口雄三?ほか編 『中国思想文化辞典』東京大学出版会、2001年
- (文献10)加藤常賢?監修 『中国思想史』東京大学出版会、1952年
- (文献11)宮崎市定?著 『史記を語る』岩波文庫、1996年
- (文献12)武田泰淳?著 『司馬遷 史記の世界』講談社文芸文庫、1997年
- (文献13)貝塚茂樹?著 『史記 中国古代の人びと』岩波新書、1963年
- (文献14)増田四郎?著 『大学でいかに学ぶか』講談社現代新書、1966年
- (文献15)金谷治?著 『中国思想を考える』中公新書、1993年
- (文献16)重澤俊郎?著 『周漢思想研究』大空社、1998年
- (文献17)顧頡剛?著、平山武夫?訳 『ある歴史家の生い立ち 古史辨自序』岩波文庫、1987年
- (文献18)中村治一?著 『史学概論』学陽書房、1974年
- (文献19)福田歓一?著 『政治学史』東京大学出版会、1985年
- (文献20)カッシーラー?著、中野好之?訳 『啓蒙主義の哲学 下』ちくま学芸文庫、2003年
- (文献21)林健太郎?著 『史学概論(新版)』有斐閣、1970年
- (文献22)林健太郎編 『世界の名著65 マイネッケ』中央バックス、1980年
- (文献23)弓削尚子?著 『世界史リブレット88 啓蒙の世紀と文明観』山川出版社、2004年
- (文献24)太田秀道?著『史学概論』学生社、1965年
- (文献25)ブルクハルト?著、新井靖一?訳 『コンスタンティヌス大帝の時代』筑摩書房、2003年
- (文献26)ハンナ・アレント?著、志水速雄?訳 『人間の条件』ちくま学芸文庫、1994年
- (文献27)アンリ・ピレンヌ?著、中村宏?ほか訳 『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニュ』創文社、1960年
使用条件など
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