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ニュートラル - (2006/11/14 (火) 15:02:10) のソース

#blogentry(ニュートラル,beat's blog,2006年6月8日){
私が常々心がけているのは、自分を如何にニュートラルに保つか、如何に静寂を保つか、ということ。普段が静寂であればあるほど、躍動との落差は高まるだろう。味わいもより深くなるだろう。感覚を研ぐ為の静寂。}

あなたがパソコンの画面を見ている。そこに画面がある。机があり、椅子がある。マウスがあり、マウスに触れている。
さて、このようなことがどうして我々に知覚されるのか。神経組織は身体の外までは伸びていないというのに。
我々が直接的に知り得るのは、自分の身体だけのはずだ。ということは、身体の外にあるものが、私たちの身体に影響を及ぼして、私たちの身体の状態が変化する。それを我々は認識する、ということだ。

静寂時から、刺激を受けた後への身体の変化、その落差を我々は感覚として知覚する。

そう考えると、我々が知るのは、自分の身体の変化だけだ、ということになる。自分の身体を通して世界を知る。初めから自分の身体の中にない種類のものには感知できない。我々の知り得る「世界」は自分たちの身体の中にある。

さて、我々が感じる変化であるが、それは速度 v か、それとも加速度 a=lim(デルタt→0)デルタv か?力積Ftか?

「無限の快楽」によれば、存在の根源的なありさまは、運動なのだと言う。まず、モノがあって、それが運動するのではない。だから「アキレスはゼノンのカメを追い越せる」と。

運動があるから、そこにモノが現れる。逆に考えれば、他の現れ方もするかもしれない。存在そのものが量子的であるのだ、として、我々が感じているのは落差は変化の v か a か 運動量 mv かあるいは?

運動が根源的である限り、我々もまた運動であり、運動を量子的な形式のまま直接的に把握していると考えるできであろう。一種の共振であろうか。我々はそれを測る単位を欠いている。

運動を身体が知るのか、知ることもまた運動なのか?
運動を波に置き換えて合成することを考えてみると、おそらくすべてが重ね合わさって1つの運動となるのであろう。もうそこに自他の区別はない。すべてで一つだ。

あれ、ニュートラルな時に自分がどれだけ静寂であるかが大事、って話だったんだけどな。 ま、それはまた別の頁で。

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