【TEE】トランス・ヨーロッパ・エクスプレス

Trans Europ Express(トランス・ヨーロッパ・エクスプレス)は、西ヨーロッパの各国鉄により共同で運行されていた国際特急の列車種別
略称はTEE 日本では「欧州特急」「ヨーロッパ横断特急」「ヨーロッパ国際特急」等と訳される

列車の概要

 発達した航空機や自動車交通に対抗するため速度や快適性、利便性を兼ね備えた列車として計画され、主に国際的に活動するビジネスマンなど上流階級の利用客をターゲットとしていた。
 TEEにおいては出入国管理や税関検査などの越境手続きを特例によってすべて車内で走行中に行えるようになっており、それまでの国際列車につきものだった国境駅での長時間停車を不要とし、大幅なスピードアップを実現した。
 車両は全車一等車で統一され、空調の装備や騒音の低減など快適な車内環境のほか、温かい食事がとれるようになっていた。また車両によっては電話接続やタイピストによるタイピングサービスが行われるなどビジネスマン向けの独自のサービスも行われていた。
 列車は基本的に1往復から2往復が設定され、早朝発→昼頃着、夕方発→深夜着のダイヤが組まれた。これもビジネス客の出張利用を想定したもので、午後を現地での仕事に充てられるようになっており、遠方への出張を日帰りで行えるようになっていた。
 基本的に全席が指定席であり、利用料金は走行区間の各国鉄の一等料金のほか、TEEの特急料金が必要であった。ビジネス利用を想定したため小児料金の設定は無く、各種割引もほとんどが利用できず、利用料は高額だった。ただしユーレイルパスは利用可能だった。

歴史

TEEの構想

戦前より各国を結ぶ国際特急網を構築していた欧州の鉄道であったが、1950年代に入ると斜陽の時代に入る。戦争により航空技術が急速に発達、各地に建設された飛行場を戦後利用することで航空網が構築されていった。また自動車も一般的な乗り物として台頭するようになり、鉄道は陸上交通の王者としての地位を脅かされるようになっていた。
国際特急の利用者層は変化し、一部の上流階級向けの特別列車ではなく、国際的に活動するビジネスマン向けの列車が求められるようになった。こうした環境の中から、鉄道の地位回復を目指して計画されたのが、TEEであった。

TEE構想を提案したのはオランダ国鉄総裁のF.Q.デン・ホランダーであった。彼は300㎞から500㎞程度の距離であれば列車は航空機に所用時間の面で優位に立てると考えた。
また発展した航空業界のサービスを鉄道にも取り入れようと考え、これらの構想をEuropa Express(ヨーロッパ急行)として1953年に提唱し、後に国際鉄道連合、ヨーロッパ時刻表会議で検討されることとなった。

新列車の種別名はTrans Europ Express「TEE」と定められ以下7か国の国鉄によってTEE委員会が組織された
・ベルギー国鉄
・ドイツ連邦鉄道(西ドイツ国鉄)
・フランス国鉄
・イタリア国鉄
・ルクセンブルク国鉄
・オランダ国鉄
・スイス連邦鉄道(スイス国鉄)
後にオーストリア連邦鉄道(オーストリア国鉄)がTEEの運行メンバーに加わった。

TEE専用気動車

当初は列車運行のための新会社を設立し、共通車両を使用する構想であったが、各国間の調整がうまくいかなかったため、共通の基準を満たした車両を各国鉄が開発し、共同運行することとなった。
TEE専用車にもとめられた要件は以下の通りである

  • 各国の電化方式が異なっているため、専用車は気動車とすること
  • 平坦線での最高速度は140㎞/h、16‰の勾配でも70㎞/hでも走行可能であること
  • 地盤の弱いオランダへの乗り入れのため、軸重は18t以下
  • 共通のブレーキシステムを装備すること
  • 客席は全席一等車とし、最大でも横3列配置とすること
  • 乗り心地は最高水準のものとし、客席への騒音は可能な限り抑えること
  • 編成定員は100~120名
  • 車内で温かい食事をとれること(食堂車または客席へのケータリングサービス)
  • 塗装はクリーム色ないしベージュ地に赤帯とし、前頭部に"TEE"のエンブレムを付ける

当時の鉄道としてはかなりレベルの高い要求であり、各国鉄とも開発に苦心しつつ各々の威信をかけた車両を送り出した。全車一等車としたのは、当時の航空運賃では2等旅客が航空機を選ぶことはないと考えられたためである。



運行開始

1957年6月2日、夏ダイヤ改正よりTEEは10往復で運行を開始した。
当初予定は12往復でのスタートであったが、イタリアの専用気動車は製造が遅れて間に合わなかったため、イタリア担当列車は冬ダイヤ改正まで運行開始を遅らせた。(実際には冬ダイヤまでに運行を開始した)
また西ドイツの専用気動車も製造が遅れ、国内特急用の気動車による代走で運行されることがあった。
列車によってタイピストの乗務や電話接続サービスなど、ビジネスマンを意識した独自サービスを展開し、TEEは目論見通りビジネス利用客から高い支持を獲得。順調に利用客数を伸ばし、列車数を増やしていった。

動力の変遷

非電化路線が多いこと、各国で電化方式が違うことから開発された専用気動車であったが、山岳路線では出力不足であった。またTEEが走っていた路線は主要幹線が多かったため、1960年代半ばにはほとんどの路線で電化が完了する見込みであった。
急勾配の山岳路線が多いスイス国鉄では、運行開始以来TEE用電車の研究を行っており、1961年には最高速度160㎞/hで4種類の電化方式に対応したRAe TEE Ⅱ形電車を登場させ「ゴッタルド」「シザルパン」「ティチーノ」の3往復の電車TEEが新設された。
構造が複雑な複電源電車は他国には受け入れられなかったが、電気への動力転換の流れは決定的となり、電気機関車牽引による客車列車化が計画される。客車化には専用気動車では対応しきれなくなった旅客の増加に柔軟に対応する狙いもあった。
1963年9月1日、フランス国鉄のTEE「ブラバント」が電気機関車牽引の客車TEEとなった。翌1964年にはフランス、ベルギー共同開発のTEE用客車が投入され、後にスイスも同型車を導入した。
西ドイツでは1962年に看板特急「ラインゴルト」に投入した新型客車を増備しTEEに投入、TEE「ヘルベティア」を皮切りに客車列車化を進めた。
イタリア国鉄では専用気動車を用いつづけていたが、冷房がないなど他国のTEE客車に対して見劣りし、もはやTEEにふさわしくないとされるようになった。そこでイタリア国鉄もTEE客車の開発に着手し、1972年に投入、同年以内にイタリアのTEEは全列車が客車化された。
客車化によって余剰となった専用気動車は新たにTEEに格上げされた列車に用いられ、TEEはさらに路線網を拡張する。ただしこれらの列車も後に客車化された。
最後まで専用気動車が活躍したTEE「エーデルヴァイス」も1974年5月26日に電車化され、専用気動車によるTEEは全滅した。

国内線TEE

ドイツの看板列車であったF-zug(特急)「ラインゴルト」はオランダ、西ドイツ、スイスの3か国を結ぶ国際列車であり、豪華さを売りとした全車一等車で、1962年に投入されたラインゴルト用新型客車はTEE専用気動車に匹敵するものだった。そこで3国鉄は1964年にラインゴルトをTEEに昇格するよう委員会に提案した。
ところがラインゴルトは途中区間で西ドイツの国内線特急「ラインプファイル」と客車の半数を入れ替える複雑な運用が行われており、西ドイツ国鉄はラインプファイルもTEEに加えるべきと提案した。
一方、フランス国鉄は国内線特急「ル・ミストラル」もTEEと同等の客車を用いており、TEEに加えるべきと主張した。
交渉の結果、西ドイツの「ラインゴルト」「ラインプファイル」「ブラウアー・エンツィアン」、フランスの「ル・ミストラル」がTEE化され、国内線TEEが誕生した。
なおイタリアでTEE発足以前の1953年から運行されていた豪華電車特急「セッテベッロ」もTEE化が検討されたが、特急料金が高すぎるとして見送られた。
このころになるとTEEは一つのブランドとして確立され、フランス、イタリアでは国内線特急に次々とTEEの名を冠していった。

高速化

TEEの成功後も依然航空業界に押されつつあった欧州の鉄道にある変革がもたらされた。
1964年10月1日、東海道新幹線の開業であった。
新幹線の登場は都市間連絡における鉄道の優位性を改めて示し、世界各国の鉄道に大きな影響を与えた。
欧州の各国鉄は一斉に鉄道の高速化へと動き出した。長距離高速輸送の主役であったTEEも当然その影響を受け、電化により140km/hから160km/hにまで向上した最高速度はさらに200km/hにまで引き上げられた。
中でもフランスのTEE「アキテーヌ」「エタンダール」は表定速度が151.5km/hにまで達し、TGV登場以前のヨーロッパでは最速の列車であった。

最盛期

1969年6月1日、TEE「カタラン・タルゴ」運行開始によりレンフェ(スペイン国鉄)がTEEの運営に加わった。
続けて1974年5月26日にはTEE「メルクール」運行開始によりデンマーク国鉄もTEEに加わった。またこのときイタリアのセッテベッロもTEEへの昇格を果たした。
1974年~1975年の冬ダイヤ期間にてTEE運行本数は最大数に達し、45往復のTEE列車が運行されていた。うち30往復が国際TEE、15往復がフランスとイタリアの国内TEEであった。
こうして最盛期を迎えたTEEであったが、その栄光も長くは続かなかった。

インターシティ登場

1971年9月26日、西ドイツ国鉄は国内線特急に4系統の「InterCity(インターシティ)」という新たな種別を導入した。
全車両一等車であり、停車駅や速度もTEEと同等の「国内線TEE」とも呼べるものであったが、そのダイヤ設定の思想はTEEと大きく異なっていた。
TEEは1系統につき一日1~2往復程度の日帰り利用を意識したものであったが、ICでは2時間間隔のパターンダイヤを採用し、主要駅で別系統のICを相互接続するなど、より都市間輸送に特化したダイヤとなっていた。IC網の構築によって、重複区間を走るTEEもIC網の一部を担うものとして位置づけられた。

1、2等列車への転換

1970年代に入ると、運行開始当初に比べて国際列車を取り巻く環境は大きく変化しつつあった。もはや一部の上流階級が長距離を移動する時代は終わり、特急利用客の大衆化が進んだ。
2等車の需要が増えるのと引き換えに、1等専用車であったTEEをはじめとする特急列車の人気は衰え始め、1975年のTEE「ゲーテ」廃止を皮切りに2等車を連結した特急や急行に格下げされるTEEが現れた。
これをうけて西ドイツのICも1976年以降一部列車に2等車を連結するようになった。これが好評であったことから、1979年にはICの全列車が1、2等列車となり、IC網に組み込まれたTEEの多くが種別を変更した。一方で少数ながら残った一等専用特急が国内TEEに昇格し、国内TEEの総数が本来の国際TEEの本数を上回るようになった。ただしこれらの列車も数年以内にICに変更された。
1980年6月1日からは国際列車に対してもICの種別が用いられることとなり(国際IC)、1、2等列車となっていた元TEEの多くが国際ICとなった。
その後もTEEは廃止やICへの変更を続け、1978年にデンマークから消滅、1981年にルクセンブルク、1982年にはスペイン、モナコ、1984年にオーストリアからTEEが姿を消した

終焉

1987年5月31日、新たな国際列車種別として「EuroCity(ユーロシティ)」が誕生し、元TEEであった国際ICの多くがECを名乗るようになった。
同ダイヤ改正でTEE「ラインゴルト」が廃止され、イタリアの国内TEEはすべてがIC化された。フランスの国際TEEもECに変更され、残るTEEはフランスの国内TEE4往復と国際TEE「ゴッタルド」のみとなった。
1988年9月25日をもってTEE「ゴッタルド」はECに変更され、「一等専用の国際列車」としてのTEEは消滅した。
最後までTEEとして残ったのはフランスのTEE「フェデルブ」「ヴァトー」の一往復であったが、1991年5月31日の運行を最後に廃止され、運行開始以来のTEEは定期列車としての運行を終了した。

のち1993年にフランス国鉄とベルギー国鉄はパリ―ブリュッセル間のノンストップ列車4往復にTEEの名を冠し、列車種別としてのTEEが2年ぶりに復活した。
ただしこの列車は2等車を含むECと同等の列車であった。当時すでにECの種別名は陳腐化しており往年の名列車としてイメージの良いTEEの名称を採用したのだった。
この列車もTGVのブリュッセル乗り入れ開始と引き換えに廃止されていき、1995年5月26日20時01分ブリュッセル南駅に到着したTEE「イル・ド・フランス」を最後にTEEは時刻表から姿を消した。


TEEの功績

TEEが本来の姿で活躍した期間は短いものだったが、その上質で意欲的なサービスは鉄道のサービス向上に大きく貢献し、現在の特急列車網に受け継がれている。
そのため欧州鉄道界において、TEEは往年の名列車として現在も高い人気があり、、2007年のTEE運転開始50周年には各国が記念行事やイベント列車の走行を行っている。
また2000年にはドイツ鉄道、スイス連邦鉄道、オーストリア連邦鉄道の3事業者による統合されたサービスの提供を目的とした「TEE Rail Alliance(TEEレールアライアンス)」が結成されている。
最終更新:2017年05月06日 23:38