Rheingold/ラインゴルトはドイツ鉄道で運転されていた国際列車の愛称。戦前~戦後の長きにわたってドイツ鉄道の看板を張る豪華列車として君臨した
愛称の由来
ドイツ語で「ラインの黄金」を意味する。中世ドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」に登場する、ライン川の底に沈められたニーベルンゲン族の財宝の名が由来。
運行区間
時期によって運行区間や停車駅は変遷したが、おおむねオランダのアムステルダムからドイツ国内をライン川に沿って走り、スイスのバーゼル、ジュネーブを結んでいた。
●1979年時点の主な停車駅
アムステルダム - デュッセルドルフ - ケルン - ボン - コブレンツ - マインツ - マンハイム - カールスルーエ - バーデン・バーデン - フライブルク - バーゼル - ベルン - ジュネーブ
歴史
戦前
1901年にはラインゴルトの前身ともいえるD164/D163昼行急行列車がフーク・ファン・ホラント - バーゼル間で運転を開始している。1924年にはDRG(ドイツ国営鉄道)が発足。DRGは01形
蒸気機関車の製造など標準化を行う一方で、豪華列車の運行を計画した。このような列車を走らせるのに最適な区間としてライン川沿いの景勝ルートが選ばれ、それを南北に延長する形でラインゴルトは計画された。
1925年5月15日、長距離急行101・102列車として「ラインゴルト」は運転を開始した。ラインゴルトは長距離急行のなかでも別格の扱いを受け、長距離急行の略号が本来「FD」であるところを特別にFを重ねた「FFD」の略号が用いられた。また当時のドイツの客車が4等級制であるところを上位の1等、2等のサロン車のみを連結、厨房が備え付けられ、車内で食事をとることができた。バーゼルでは各方面への列車に接続あるいは一部客車が直通した。またフーク・ファン・ホラントではイギリスからの夜行連絡船と接続し、イギリス-スイス間を約24時間での移動が可能になった。
このような豪華列車が走ることはドイツのWW1敗戦の復興を象徴するものだったが、WW2前の国際情勢悪化によって1939年8月22日にラインゴルトを含めた長距離急行すべての運行は取りやめられてしまった。
戦後の復活
1946年12月17日より同区間に無名の急行列車が運転を再開。この列車は1951年5月20日からDB(ドイツ連邦鉄道/西ドイツ国鉄)のF-zug(特急)「ラインゴルト急行」と名付けられた。その後何度か運用が変遷したのち、1954年より「ラインゴルト」に改名、1956年には欧州鉄道の2等級制への移行によってラインゴルトは全車一等車の編成となった。
ラインゴルト型客車
ラインゴルト型客車
1962年よりラインゴルトは新型客車を導入した。空調を備え、TEE専用
気動車に匹敵するものとして開発されたが、分割併合によって各地に客車を直通させる運用から、新車は客車列車とされた。この客車は「ラインゴルト型」とも呼ばれ、後にTEE、インターシティ用の特急客車の標準となった。編成内に特徴的なドーム型展望車と二階建て食堂車を連結した姿はラインゴルトを象徴する姿と言える。
西ドイツ国内はE10型
電気機関車によって牽引され、最高時速は140km/hから160km/hに向上した。これは戦前のフリーゲンダー・ハンブルガーが160km/hで走って以来、戦後初となる。
TEE昇格
ヨーロッパでは1957年以来、一等専用の国際特急としてTEE(トランスヨーロッパエクスプレス)を運行しており、新型車導入によってラインゴルトはTEEに匹敵する列車となった。これによりDB(西ドイツ国鉄)、NS(オランダ国鉄)、SBB(スイス国鉄)はラインゴルトをTEEに加えることをTEE委員会に提案した。しかしラインゴルトは途中停車が長く、速達性を重んじるTEEの原則から外れていた。また途中区間において国内特急の「ラインプファイル」と併合、分割する際には半数の客車を入れ替える運用を行っており、DBはラインプファイルもTEEにすべきと主張した。交渉の結果、1965年5月30日よりラインゴルトはTEEに昇格(列車番号はTEE10/9)、同時に併結相手の「ラインプファイル」、さらに同等の設備を持つ「ブラウアー・エンツィアン」、フランス国鉄の「ル・ミストラル」ら国内線特急もTEEに昇格し、以降国内線TEEが次々と誕生するきっかけとなった。
看板特急の変遷
1971年9月26日よりインターシティ網が構築され、ラインゴルトを含むTEEはその一部担うものと位置付けられた。また日本の東海道新幹線の成功以来、欧州各国も速度向上に動いており、1976年よりTEEも最高速度200km/hへの速度向上が図られた。この際、ラインゴルト編成の特徴であった展望車と二階建て食堂車は200km/hに対応できず運用を離脱、代わりに平屋建て食堂車とバー車が連結されたものの、他のTEEやICとほとんど変わらない編成となってしまった。
1979年にはICの全列車が2等車を連結するようになった。この列車が好評になると同時に1等専用のTEEの人気は低迷し、多くのTEEがICに置き換えられた。これによって逆に豪華特急としてのラインゴルトの地位が向上している。
1983年5月29日よりラインゴルトは西ドイツの客車が担当する最後のTEEとなった。これを機に看板列車としてのテコ入れがなされ、使用客車はTEEカラーにオレンジの帯が加えられた専用客車となり、クラブカー「CLUB RHEINGOLD」が登場し、同列車の目玉とされた。また運行区間は景観を重視したものに変更され、一部では単線ローカルも走行、途中分割によってミュンヘンへの直通を開始した。TEEの時代が過ぎ去っていく中、ビジネス客利用から観光客をターゲットにした列車に生まれ変わらせることで生き残りをかけるものであった。しかしこれらのテコ入れは想定されていたほどの旅客の増加につながらず、一等専用車の人気低迷は看板であったラインゴルトにも及んだ。
1986年6月1日ダイヤ改正によってラインゴルトの列車番号はTEE15/14の二桁番号となり、ドイツで一番若い列車番号を国際IC「レンブラント」に譲り渡した。もはやDBはラインゴルトを最重要列車とみなさなくなっていた。
終焉
1987年5月30日、TEE「ラインゴルト」廃止。他の名門列車たちはTEEとしての廃止後もICやECに系統、愛称が受け継がれていったのに対して、ラインゴルトの名は受け継がれることなく消滅した。一説には、2等車を連結した大衆列車が格式ある「ラインゴルト」を名乗ることは出来なかったとも評される。ラインゴルトと共に西ドイツ国内のTEEは全廃、一つの時代が幕を下ろした。
保存車両たち
DBはTEEに使用されていた客車を現在でも複数保有しており、これら客車群を「TEE Rheingold」と称してイベント、チャーター列車用に保存している。同じく保存機の103型電気機関車の牽引によって最高200km/hでの運行が現在でも可能である。またラインゴルトの象徴である展望車は運用離脱後、観光列車「アプフェルプファイル」に転用後、北欧に渡っていたが、2005年に4両がドイツに里帰りし、復元されてイベント列車として運行されている。またケルン鉄道友の会が戦前のラインゴルトで使用されていた客車6両と荷物車1両を保存している。
関連項目
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最終更新:2017年01月30日 04:18