ドイツ国営鉄道(DR 東ドイツ国鉄)

ドイツ国営鉄道(東ドイツ国鉄)(DR:Deutsche Reichsbahn/ドイチェ ライヒスバーン)は1949年にドイツ民主共和国(東ドイツ)で成立し、東西統一後の1993年に解体されるまで存続した東ドイツの国営鉄道

名称について

 東ドイツは国鉄設立の際、旧来より使用されていたDRの名前を敢えてそのまま継承した。これには旧ドイツ国鉄の正当な継承者であることを示し、東ドイツ側が西ドイツも含むドイツ領域全体の鉄道運営の権益を保持していると主張する思惑があった。

路線網

 東ドイツ全域の鉄道網を保有していた。敗戦直後、ソ連による戦後補償という名目の物資接収によって合計1万㌔以上のレールが持ち去られたため、戦前にはベルリンを中心に放射状に展開され複線化されていた主要幹線も、その多くが単線での運行再開を余儀なくされた。以降は主要幹線を中心に再度複線化が行われた。
 首都ベルリンのS-bahn(都市鉄道)に関しては、西ドイツの領土である西ベルリンの路線に関しても東ドイツ国鉄DRが運行を行っており、1984年まで継続された。
 西ベルリンから東ドイツの領土を越えて西ドイツまで運行される「ドイツ領域通過列車」も西ベルリン、東ドイツ領内に関してはDRによって行われ、使用車両もDR車両が中心だった。

歴史

戦後の復興

 1949年のドイツ分断によってドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国され、同国内の鉄道網を旧ドイツ国営鉄道から継承する形で成立した。敗戦により路線網は荒廃しており、東西の国鉄はともに前途多難な船出となったが、ソ連以下社会主義陣営に属していた東ドイツでは自家用車の所有自体が夢のまた夢であったため、東ドイツにおいて鉄道は国民のもっとも重要な交通機関となった。また国家の重要インフラと位置付けられ、ソ連の援助によって復旧が進められることとなった。

西との格差

 ライバルの不在や国家の強力なバックアップもあり、1950年代にはDB(西ドイツ国鉄)と大差ない水準の技術、インフラを保持し続けていたDRだが、1960年代にもなると東西ドイツの経済格差の拡大に合わせて見劣りするようになっていった。電気機関車ディーゼル機関車の投入も行われていたが、戦時設計の蒸気機関車がまだ多数残留した状態であった。西ドイツのインターシティに対抗する形で都市間特急などの運転も行ったが、スピードで大きく劣った。また社会主義体制の弊害として、サービスの劣化も目立っていった。東ドイツではDRとともに寝台車や供食車の運営を行うミトローパ(中央ヨーロッパ寝台・食堂車株式会社)をも継承しており、社会主義体制下では稀有な株式会社(ただし株式は100%東独政府保有)として存続していたが、年を経るごとに戦前以下のサービス水準にまで劣化していった。
 DRの輸送水準は1950年代でほぼ停滞したまま1980年代にまで至ることになる。このころになると東側同盟諸国の経済低迷の影響を受けるようになり、経営状態は悪化していった。設立直後から始まった主要幹線の再複線化計画も遅々として進まず、東西統一目前になってもなお複線化を完了できないばかりか、それまでのインフラの維持すら困難な状況になっていった。しかし依然として国民の重要な足であることに変わりはなく、地方のローカル線も多数が存続した。

S-bahnとベルリンの壁

 東ドイツ領内に位置するベルリンのS-bahnは西ベルリン領域も含めて全線がDRによる運行となっていた。(逆に地下鉄の運行は西ドイツBVGによる運行)敗戦により荒廃し、ズタズタの状態だった路線網も1947年には戦前の規模に回復し、東西ベルリン市民の足として機能した。また主に東側を中心に路線網の拡張も行われている。
 このころはまだ東西ベルリンの往来は自由に行えたが、このことが東ドイツから西ドイツへの国民の流出(すなわち生産能力の減少)および西側からのスパイの入国を許す結果となっており、東ドイツの死活問題となっていた。これにより1961年にベルリンの壁が築かれ、ベルリンのS-bahnは分断された。境界を跨いだ一部の末端区間は廃止となっている。
 壁建設の後もS-bahnはDRによって運営されたが、「Sバーンの運賃は壁に払われる」として西ベルリン市民によるボイコット運動が行われた。またバスや地下鉄の整備も進んだため西ベルリンのS-bahnは衰退していく。1980年には西ベルリン居住の従業員によるストライキが行われ、大多数の従業員が解雇される事態も発生、満足な保守も行えないまま多くの路線が休止(事実上の廃止)となり、壁建設前は一日70万人いた利用者数は1万人を割ってしまった。
 さすがに西側当局としても西ベルリン市内に全長150キロにも及ぶ廃墟を作り出すことは見過ごせなかった。東側との交渉の末、1984年より西ベルリン市内のS-bahnの運営は西側の援助を受けたBVG(ベルリン運輸公社)に引き継がれた。

東西統一

 1989年にベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結、翌1990年には東西ドイツの再統一が成し遂げられたが、鉄道に関してはしばらく西のDBと東のDRが共存する状態にあった。1994年に両者が合併しDB AG(ドイツ鉄道)が発足するまで存続した。
 旧DR所属の車両はDBに継承され、その後も活躍した。一部の車両は現在でも現役で走行している。
最終更新:2017年02月09日 01:03