青年は名をタブイルといった。
この国で起きている異変を察して調査にやってきたフリーの吟遊詩人(ミンストレス)だという。
この国の人間にしては色素が薄いとは思っていたが、なるほど。ジョンらと同じ旅の人間だったのか。
「あれ?魔導師ではなかったんですか?」
「……ああ、元だが。ちょっとあって破門くらったんだ。ロートルは頭固いんだよ、どこの世界もな」
タブイルは顔をしかめてそう吐き捨てた。
「―――すみません」
「いいさ。それよりあんたら、どこまで知ってる」
どこまで知っている、というとナフレザーグで起こっている異変についてだろう。
ジョンたちは……実は、何も知らないに等しい。
そもそも住人が、ではなく『国』がおかしいと言い出したのはローラであって、それも根拠のない勘のようなものだ。
直後に倒れてしまったことから考えても、意識がはっきりしていたのかも怪しいところ。
しかし、信じるのならその原因は王宮にあるとも言っていた。これが本当なら手がかりどころか事の中枢に近い。
ヴェラシーラの一族は雷槌を操る魔法に長けているという。ということは、多少でも魔法を齧っているということだ。
といっても占術の心得はあるのかないのか、ジョンは知らないが……無さそうだなぁ、ローラさんは。
「なるほどね……王宮、か………」
タブイルは黙り込んだ。
本当に国の一大事だとすれば、他の国の者が―――たとえ勇者といえど―――介入することは難しい。
それよりも王宮に報告して対応させるほうが何倍も効率がいいし、国としての体面もわざわざ崩さずに済むからだ。
だがその報告するべき国そのものに病巣があるのだとしたら。
たとえば信じがたい悪政が働いているのだとしたら、それを制するのは勇者の役割である。
民衆が革命を起こして内戦に発展するのは国にとってもうまくない。
滞在してまだ浅い自分が出しゃばっていいものか迷うところだが、名誉だけでなく汚名を被る覚悟で挑むのが勇者の務めか。
これも『もし』の域を出ない話だ。
「でも疑ってはいるんだろう?」
「……はい、まぁ」
「わかった。それがあんたの立ち位置なわけだ。不確定要素も可能性のひとつさ、
それでいい―――勇者ならなおさらな」
ジョンは一瞬目を見開き、そしてすっと細めた。
「ジョン・ディ・フルカネリ。匠と魔石の国ラルティーグが選定した勇者……だよな?」
「………気付いていたのですか?」
「初めは気付いてなかったさ。勇者の名は世界中に知れ渡ってるけど、勇者の顔を知ってるやつは吟遊詩人でもそういない。
俺があんたを知っていたのはあんたが研究職としても有名だからさ。俺も錬金術師だったんでね。
錬金術師(アルケミスト)だけでなく、魔工技師(エンチャンター)であり、
薬師(メディシン)であり医者(ドクター)であり療術師(ヒーラー)ですらある、
稀代の大天才ジョン・ディ・フルカネリは俺みたいな外道錬金術師だって知ってるってことさ」
ジョンはため息をついた。
勇者の存在は世界中に公開されている。かつての『はじまりの勇者』と同じように人々の希望であり、
あらゆる悪の抑止力とするためだが、勇者個人としての情報はほとんど規制されているはずだ。
英雄に必要なものは功績だけ、ということである。
しかしヒロトのような全く無名だった剣士ならまだしも、
ジョンのようにある業界でもともと有名な人間が勇者になるとこういうことも珍しいことではない。
それがメリットになることもあればデメリットになることもある。
そういえば勇者に選定されて間もない頃いきなり吟遊詩人にあることないこと超人のように書かれてげんなりしたこともあったっけ。
「まぁ今はそこは置いておこう。あんた、まだこの件について首を突っ込むつもりなんだな?」
「………そりゃ、まあ。民衆の為にあるのが一応、勇者ですから」
「はは、真面目なんだな。じゃあ俺に付き合うかい。ジョン・ディ・フルカネリがいればこっちとしても百人力だからな」
タブイルはにやっと笑った。
どうもジョンたちについて調査をするつもりらしい。
そりゃあフリーの吟遊詩人というのだから勇者に密着していることができればそれだけで引く手数多の記事が書けるだろうし、
勇者の特権のおこぼれを狙えば調査も有利に進むだろう。
ジョンは勇者といえど、ゼロから何かを調査することに慣れていない。
民衆の救いを求める声を聞き届けるのが勇者なら、今回この国の民衆は助けを求めることすらしてくれないのだ。
―――勇者という役割を明かせばいいのだろうが、どうにもタイミングを逃してしまったように思う。
ローラが倒れたとき力ずくで安静できる場所を確保しようとしたことで後ろめたい気持ちもあるし、
それにますます警戒されているだろうし―――。
それなら、この青年と共に行動したほうが幾分やりやすい、か……?
「ジョン~、ローラさん起きたよ」
ベッドで寝ているローラについていたリオルが、ひょこっと顔を出した。
汗を拭いたり着替えさせたりしなければならないので多少心配だが世話はリオルに任せたのだ。
幾らなんでもそれくらいならリオルだって失敗しないだろうし、
それに仲間内に想い人がはっきりと存在する女性の肌には極力見たり触れりしたくはない。
ヒロトが帰ってきたときどんな顔をすればいいかわからないからだ。
無論、それが命を左右するならジョンとて躊躇わないが。
「すみません、心配をかけてしまって」
ローラは少々顔を蒼くしていたが、意識ははっきりしているようだった。
もうしばらく安静にしていなくてはならないだろう。
でも、もう心配する必要はない。あとは眠っていれば回復できる。
ローラは倒れる前に自分でも言っていたように、『国』に対する異変についてはもう何も感じないようだった。
あれだけはっきりと感じていた感覚も、今では熱によって観た幻覚の類だったのではないかとすら言った。
しかしジョンは、それを信じると決めたのだ。
それにローラに王族として『世界の異変』を感知できる能力に目覚めつつあるのなら、
むしろ余分な自我のない意識が朦朧としていたあの時の方が、より研ぎ澄まされているに違いない。
それにタブイルが言うように、何かが起きているのは確実のようだし。
「―――そう、ですか。でも、申し訳ありません。本当に王宮に探りを入れるのなら、私はついていけませんわ」
ローラは申し訳無さそうに目を伏せた。
考えてみれば当然だ。
ローラはお忍びでの旅の途中とはいえ、一国の王女である。
それが他国の王宮にちょっかいを出したとなれば、これが問題にならないはずがない。
もしナフレザーグによからぬ秘密があったとして、余計な咎を負うことは無い。
身分を隠しての冒険には限度があるのだ。
それは決してローラの責ではない、仕方のないことだった。
それに体調面から考えても、ローラは今回はゆっくりしていた方がいいだろう。
「………あのおかしな魔力のコといい、お嬢様といい、勇者サマのお供には一筋縄で行く人がいないみたいだな」
流石にローラが姫であることを悟られるわけにはいかないので、席を外してもらっていたタブイルが戻ってくる。
「そう、あなたが助けてくれたのですね。礼を言います。……ありがとう、ですわ」
「――――いえ、当然のことをしたまでです。麗下」
タブイルが一礼してから、目を瞬かせて顔をあげる。
「……驚いた。魅了(チャーム)の魔眼使いなのか、この娘は」
ジョンは思わず苦笑する。
これも王の能力の片鱗………か?
この国で最近起きている事件のひとつに集団失踪がある。
ある朝忽然と、隣の棟に住んでいた者全員が消え去っていたり、
ある郊外ではある村の住人が丸ごと消えていたりしたそうだ。
魔獣に襲われたのかと思えばそういった形跡はほとんどないし、前日に何か変わった様子も無い。
王宮に調査を依頼してもまるで原因がわからないらしいし、
国民たちは次第にお互いを疑うように、疑心暗鬼に陥っていったのだという。
タブイル曰く、余所者に至っては何もしていなくとも襲われることもあるそうだ。
ジョンたちが見逃されたのはひ弱な女の子ばかりで、事件とは関係なさそうだからだという。
「女の子……ね」
ジョンは複雑そうに呟いた。
『見た目が女の子』で役に立ったのは初めてだろう。
しかし、もしローラの『勘』通りに王宮が黒幕だとすると、王宮が進める調査があてにならないのは当然かもしれない。
王宮の調査団が黒だとすると、その結果に信憑性があるはずがない。
………いや待て。ということは少なくとも黒幕は王宮兵士を動かせるほどの人物だということになる。
最悪、一国の兵を敵に回すことになるのか……?
それはうまくない話だ。ローラは病み上がりだし、リオルは一撃は大きいが長く戦うとエネルギー切れでへばってしまう。
自分も一対多の戦いに向いたタイプじゃないし―――ここはヒロトの帰りを待つのが得策だろうか。
「まだ仲間がいたのか、あんた?」
「ええ、その―――剣士と魔法使いが」
なんとなく、ヒロトのことを話すのは躊躇われた。
ミンストレスに絡まれるのは彼の性格からいって苦手に決まっている。
魔王の話なんて完全に論外だ。
魔王と勇者が一緒に旅をしているなんて知れたら国どころか全世界を敵に回しかねない。
………まぁ、それでもやっていけそうなのがあの二人の怖いところではあるが。
「その剣士と魔法使い、強いのか?」
「そりゃあ、ね。知る限り、あの二人は神でも敵うかどうかの実力の持ち主ですし」
「はは、そりゃすげえ。―――――神でも、ね……」
タブイルは唇をひと舐めすると、黙り込んだ。
「ですから、ボクとしてはその二人が帰ってきてからのほうが。
それに、国を相手にするかも知れないんですからタブイルさんはもう手を引いたほうがいいですよ。
ここから先は洒落じゃすまない」
「おい馬鹿言うな。こんなチャンスを放っておけって言うのか?俺は降りない。
どうしてもっていうなら、俺をのして―――」
それなら話は簡単である。
ジョンはタブイルの腹に拳を食い込ませた。
彼の小さく可愛らしい外見からは想像もできないほどの鋭い突きである。
「……てめ、最後まで言わせ…………」
タブイルはずるり、と崩れ落ちた。
それからジョンはさらにタブイルの腹に手を当てる。
マナの扱いは得意だが、実際に攻撃と一緒に行うことに関しては加減が難しいのだ。
「さて、元とはいえ魔導師って言ってたから一般人とは勝手が違うかな……?」
ジョンはそう呟いて、『調整』に入った。
―――ヒロトは、確かに強い。
魔王リュリルライアですら敗れたというのだから、おそらくは真っ向勝負で彼に敵うものは天地を見渡してもいないだろう。
しかし、それはあくまで勇者として、戦士として強いということでしかない。
わかりやすく言えば、剣でどうにかなる戦いに特化している強さなのだ。
ヒロト本人が聞けば顔をしかめるだろう(しかし認めるだろう)が、
彼はそれ以外の『戦い』に関してはほとんど使い物にならないといっていい。
人と人との諍いを剣によって鎮め、話し合う場を作ることはできてもその話し合い自体を取り仕切ることはできないのだ。
危機を収めたらどこかへと去るしかない、彼は典型的な『勇者』なのである。
そして、この事件はまだ彼の出る幕ではない。
助けを求める民衆もいなければ、確たる敵もいないのだ。
ヒロトは最悪の場合に全てを斬り裂く最強のブリキ兵、デウス・エクス・マキナになってくれればそれでいい。
剣で斬るものはまだなにもない―――そんなところに勇者がいてもすることなど無いだろう。
「………って、ボクも勇者ですけどね」
ジョンはこそこそと隠れながら、王宮に近づいていった。
こういうコソ泥じみた行為には慣れている。
彼の戦闘方法は大見得をきって軍勢を相手にするようなものではない。
あくまで一対一、遭遇した見回りを仕留めるのが関の山であった。
そもそもジョンは戦士でも暗殺者でもなく、錬金術師である。
材料を取りに山に入って魔獣に襲われたときの対処法くらいにしか魔法やこの『技』は使わない。
リオルと一緒に旅をするようになってからは使う機会は若干増えたが(ヒロトを探していたリオルが
行く先行く先で騒ぎを起こしていたため)、ヒロトたちと合流してからは全く使っていない。
ヒロトはともかく、リューやローラはジョンのことをただの貧弱メガネだと思っているかもしれないと思うと、
一応男として少し悔しい気もする。
……まあ、いいですけど。
「まぁ、いいですけど」
ぶつぶつ呟きながら裏手に回る。
「別に気にしませんけど」
貴重な水を豊富に持っているというアピール兼賊の侵入を防ぐための堀を地味に泳いで渡り、そのまま裏口に辿りついた。
慎重にトラップがないか確認し、少し拍子抜けた。
罠―――少なくとも魔力に起因するトラップが何一つないのである。
そういえば朝自分でも言っていた。
この国はマナが薄い。
マナが希薄だということは、すなわち大きな魔法を扱えないということだ。
山で投網を投げるようなものである。それでは、採れる魚も採れなくなってしまうだろう。
長くそういう状態が続けばその土地で魔法を扱えるものはいなくなる。
この国に、王宮全体に結界を張れるような魔導師はいないということか。
ジョンは濡れた身体をぷるぷると振った。
やりやすくなったはなったが、このご時勢によくもまあ。
ラルティーグなんて家庭用の防犯結界だって市販しているのに。
流石に鍵もかかっていないほど無防備ではないが、こんなもの、ジョンにかかればあってないようなものである。
ごそごそとポーチを探ってジョンが取り出したのは―――二本の針金。
それを鍵穴に突っ込んで、ちゃかちゃかと動かし……あっという間に、鍵は開いてしまう。
ジョンの器用な手先が可能とするコソ泥……いや、レンジャーも驚きのピッキングテクニックであった。
ラルティーグにいた頃休日の暇つぶしに覗いてみたレンジャー講習で習った程度だが、
ジョンはそれだけでこの通り、大抵の鍵は開けてしまう。
「さて、侵入したはいいけど……どうしようかなぁ………」
そこは食料庫のようだった。
イモや小麦粉、肉などのものらしい木箱が積みあがっている。
暗がりの中に動く影を見つける。
隅の木箱を齧って中の食料を漁っているらしい、それは鼠だった。
ネズミたちはジョンの姿を認めるとチチチと鳴いてどこかへと逃げてしまう。
「………そういえば今日はご飯も食べていなかったっけ」
ジョンは先程までネズミたちのいた物陰に座り込むと、木箱の穴から食べられそうなハムを失敬して齧った。
もぐもぐと咀嚼しながらポーチを探り、用意しておいたものをことん、と床に置く。
それは石を彫って作られた精巧な鼠の人形だった。
無論、ただの人形ではない。
複雑なダンジョンを走り回り、念波によって入り組んだ回廊の構造を伝える偵察用のマジックアイテムだ。
「鼠のいない国はないからなぁ」
魔力を込めると、まるで生きているかのように動き出し、やがて暗闇の中に消えていった。
それを、追加で二匹。
とにかく、構造を知らなければ話にならない。
そういえばヒイヅルには嘘か真か『シノビ』という暗殺集団がいて、
彼らは自在に姿を変えたり透明になったりできる術を使うという。
………本当だろうか。
ヒロトさんに聞いてみたら何かわかるかも知れない。
いやヒイヅルにいた頃の記憶はまったくといっていいほどないと言っていたから、聞いても多分無駄か。
それにヒイヅルとヒロトさんをあまり結び付けたくないらしいローラさんが
怒っているのか寂しがっているのか微妙な顔をするだけだろうし、やっぱりやめておこう。
『七人の勇者』の中にはヒイヅルに選定された者もいるそうだから、もし縁があるなら会えるかもしれないし。
いやいや勇者はこの広い広い世界で旅をしているのだ。そう何人も出会う機会があるものかは疑問である。
勿論居場所を突き止めることは不可能ではないだろうけど、こっちにだってあっちにだって都合がある。
今は魔王城に行くことが先決で――――そう考えれば、魔王を連れた勇者と出くわしたのはこの上ない幸運だ。
運命の筋書きというものはげに恐ろしいもの。
そういえば呪術の発達した翡翠と杖の国ユグドレシアでは、
その究極に全ての運命を識ることができる“アカシックレコード”なるものを目指していると聞いたっけ。
“賢者の石”を目指すこちらが言えたことではないが、ご苦労なことである。
ネズミの索敵が終わるまで、つらつらと考える。
集団失踪。王宮がその糸を引いているということならば目的はなんだろう。
考えられることは人身売買か。この乾いた国がよその国と渡り合っていくことは大変に難しい。
どの国でも扱える商品として人間を見たとしたら―――ありえない話ではあるまい。
だが、それでも簡単な話ではなかった。奴隷市場は教会によって禁止されて久しいためだ。
そんなことが明るみに出れば、それはもう国政とは見られない。
すぐさま勇者、特に教会直下ナルヴィタートの粛清者たる勇者が現れて関わった人間を一人残らず殲滅することだろう。
そんなリスクを抱えてまで人を売らなければならないほど、この国は干からびているのだろうか。
「………街を見る限り、そんなことはないと思うんだけどな………」
そういえばヒロトたちはどうしているだろう。
かつてのリオル、灼炎龍リオレイアとは違う。そこにいるという確たる場所がないヌシを探しているのだ。
奥の手の帰還はまだ先になるだろう。
「最悪、ここの構造を把握しただけで帰ったほうがいいかもなぁ……」
ジョンは今度はリンゴを手にとって、齧った。
月の下、岩山が動いていた。
それには節目のある足があり、鋏があり、長い尻尾の先には鈎針がついている。
ナフレザーク荒野のヌシ、白き死の針アシュタレス。
彼は見るも巨大なサソリの怪物であった。
普段は手足を縮め、地面に身体を埋めて眠っているため、周囲の白い岩と区別がまったくつかない。
夜になって動き出すまで、この荒野のどこにいるのかわからないのだ。
そして日が沈むと食事をし、月光を浴びてマナを補給するために目を覚ます。
そんなアシュタレスが、
「ギギ、ガギャ、GGGKKYィィィィィィィィィッッ!!」
尾の毒針を振り上げていた。
その先には一組の男女が立っている。
勇者と魔王の二人組、ヒロトとリューである。
地面を抉り岩を跳ね上げ、土煙を巻き上げるその一突きを飛んで躱すと、ヒロトはリューに抗議した。
「ちょっと待て!リュー、お前がいてなんでこいつは攻撃してくるんだ!?」
こんなことは一度も今までなかった。
下級の魔獣はともかく、種族としてより高い位置にいるヌシは頂点たる魔王に逆らえない。
それはたとえ肉体が滅びて義体に乗り移ろうが変わらない本能である。
そうだと知ったからこそヒロトはリューに協力を要請したのだし、事実これまではリューに逆らおうとするヌシなどいなかった。
ましてや攻撃してくるなど、飼い犬に手を噛まれた所の話ではないリューも状況がさっぱりなのだ。
「わ、わからぬ!我にも何が何だか―――おい!アシュタレス貴様、何の真似―――く!?」
リューの視界が紫に染まった。
アシュタレスが針の先から液体をぶちまけたのだ。飛び散った飛沫は岩を次々と溶解させ、穴を開けていく。
猛毒……もし浴びたら人間など一瞬で骨も残らないだろう。
「リュー!」
「問題ない!我を誰だと思っている!!」
魔法障壁に護られながらリューが叫ぶ。
「―――アシュタレス、気が触れたか!!」
「GGGGYKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKK!!」
毒液を弾き返したと見るや鋏を振りかざし、叩きつけるッ!
その下には朱い眼を眼を細め、口を真一文字に結んだリューが、身動きもせず―――。
――――――。
「………で、どうなんだ。コイツは」
「さあな。何があったかは知らんが、完全に正気を失っている。最早言葉も通じぬ。
今のこやつはでかくて強いただの魔獣だ」
「………交渉の余地はないか」
「ない」
ヒロトが、剣を抜いてその槌を受け止めていた。
後ろでは仏頂面でリューが腕を組んでいる。
「というか、別に護ってくれと言った覚えはないが?魔法障壁を突破できるものなぞ貴様くらいしかおらん」
「―――考えてみればそれもそうだ。別に意識してやったことじゃないから気にするな」
「………ふん」
そっぽを向くリュー。状況が状況だけにでれでれできないが、その頬は少し赤く染まっていた。
「魔獣なら、相手をするのは勇者の使命だ。リューは下がっていてくれ」
「ん」
干からびた地面を蹴り、低く、弾丸のように駆ける。
アシュタレスは慌てたように毒液を発射するが掠るそぶりすらない。
星明りの下、蒼い影は彗星となって大蠍の化物の足元に潜り込み、ひと薙ぎで節足を全て斬り払った。
「KKKYYYッッ!!?」
背後に回る剣の煌きを頼りに尻尾を振り上げる、その時にはすでに
神速を地面に縫い付けるはずのそれは断たれて身体から滑り落ちている。
シュタレスはひとまず丸くなり、防御の姿勢をとった。彼の甲羅は強靭無比であり、
その強度たるや攻城兵器カタパルトの鉄鎚を百度受けても傷ひとつつかないほどなのだ。
「悪く、思うな」
―――勇者の剣が振り下ろされる。
幾多の名のある魔獣を葬ってきた刃は違うことなく鋼の甲羅を割り、猛毒の体液を裂き、蠍の命そのものを斬り裂いた。
白き死の針と謳われた魔獣はこうして、その生涯を終えたのだった。
真っ二つになった魔獣を、魔王がもの言わず見つめている。
かさ、と二度と動くことのない身体に触れ、そして空を見上げた。
虚空には、月。
煌々と輝くそれを手をかざして、リューは溜め息をついた。
「どうした?」
「……この荒野は乾いている」
その握りを確かめるように、何も掴めない手のひらに目を伏せる。
当たり前の話だった。この白くくすんだ大地を見れば、乾いているのは一目でわかる。
それを、何故わざわざ口にしなければならないのか。
「見た目ではわからないからさ。我としたことが、夜にならねば気付かぬとは不覚……。
この地には水だけではない、圧倒的にマナが枯渇している」
「………………」
「我を含め、貴様を含め、生き物は皆マナを糧に『生命』として活動する。
もしそれがまったく断たれてしまったらどうなるのだろうな?我にもそんなことは解からんし、
そういった文献を読んだこともないが―――おそらく正気を失い、闇雲にマナを求めるのではないか?
生きているモノを喰らい、直接そのマナを啜る化け物になってもおかしくはあるまい」
「この土地に、わずかにでも暮らしているはずの獣や魔獣たち……。
まったく見なかったのは気の触れたこいつが全部喰らいつくしたからってわけか……」
冷たい炎の燃える瞳をスライドさせ、彼方を睨みつける。
ここから王都は見えないが、おそらく彼の視る方向には街の光があるに違いない。
「ジョンが話していたな。この国は王都のド真ん中に深く井戸を掘り、辺りの土地を干上がらせた、と。
おそらくは……それと同じことが起きているのだろうさ」
「………………………」
ヒロトはひゅんと剣を一振りし、鞘に収めた。
渇きの国のソラは赤く~新ジャンル「 」英雄伝~[中編A] 完
最終更新:2007年11月06日 07:21