東天一輝(あずま かずき)はフワフワと意識を空に漂わせていた。
セシリアに進められ、その押しの強さを言い訳に年頃の少年特有の好奇心にまかせて生まれて初めてワインを口にしてみたものの、いざ味わってみれば、渋いし、苦いし、正直なにが美味しいのかサッパリ分からない。おまけに慣れないアルコールで頭に霧が掛かったようにボンヤリしてくるしで、まるで良い所がなかった。
「なかなか良いワインだね…。馥郁とした香りがあって、ボディも強い…。でも、赤ワイン特有の、舌先がギュッと収縮する感じは、飲み慣れない人には苦手かもね。どうかな…?」
「そうですね……。この、舌が縮こまるみたいなのはちょっと……」
「やっぱりね。じゃあ、富嶽酒はどうたい…?私の所にあるのは富嶽領域(リージョン)産のだけど、キミ達地球の日本にも、日本酒という良く似たお酒があるんだろう…?私はね…、じつはワインよりもそっちの方が好きなんだ。特に、大吟醸のお酒の香りと旨味の織りなす重厚な完成度はたまらないよ。料理には辛口のお酒の方が合うけど、お酒だけを楽しむなら、やっぱり大吟醸だね」
「じゃあ、それでお願いします…!」
返答して、しまったと思った。本当は断る気まんまんでいたのだが、セシリアの勧め方が気持ちがこもっていて、つい乗ってしまった…。……『日本酒』というフレーズを出されて、つい日本人の心を刺激されてしまったのもある。遠き地で耳にする故郷の名は、どうにも離し難い親近感を覚える。
「それじゃあ…、ちょっと待っててね……」
そういって、セシリアは一度部屋から退出し、酒を取りに行く。頭の中は相変わらずボーっとしている。だが、慣れてきてみると、このフワフワとした不思議な感覚は、案外悪くない。
一輝がその不思議な心地にしばし身を任せていると、セシリアがガラス製の徳利を盆に乗せ戻ってくる。お盆をテーブルに置き、切子の猪口を一輝と自分の前に置いて、そして一輝の盃に酌をする。『孤界産みの母』に酌をさせるなど、樹木の世界(ウッドワールド)では極めて恭悦なことなのだが、界渡り(フォーリナー)である一輝にそうした感覚は無く、また、平時の判断力も鈍っていた。
なので、委細気にせずグイッと猪口を空ける。あまりの勢いに、セシリアが「あっ」と小さな声を挙げたほどだ。
口の中に、今まで味わったことのない甘く軽やかな香りと、ドッシリとした旨味を感じる。なるほど、確かに日本人の自分には、こちらの方が合っているようだ。それでも、細かな味の評価はよく分からないが、セシリアが所蔵しているほどなのだから、余程高い酒なのだろう。
急に勢いよく盃を空けだした一輝の様子に、セシリアが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫かい…?一輝」
その顔に、ドキリとする。
良く見れば…いや、良く見なくてもセシリアは美人だ。それに、真正面から瞳を覗き込まれて、急に顔が熱くなる。
いや、実際に顔が紅潮しているのだろう。なんだか、頬の辺りが熱っぽくって変な感じだ。それに……なんだか、だんだん気分が良くなってきて、どんなことでも出来そうな気持になってきた。
「綺麗ですね…、セシリアさん…」
「えっ!?」
間近で顔を覗き込まれながらそう言われて、セシリアも一瞬ドキリとする。平時の彼女に見られない戸惑いが、妙に愛らしい。
「可愛いですね」
だから思わずその顔を抱きしめてしまった。
「一輝…!!?」
言われた言葉と、巻かれた腕に、セシリアもまた、一輝のように顔を紅潮させる。
しばしそのままに互いの体温を感じ合わせる二人。
しかし、そこはやはり年の巧か、セシリアの方が先に落ち着きを取り戻す…。ふう、とため息のような息をはき、それから自身の腕を一輝の背中に回して、優しく少年を包み込む。
「寂しいのかい…?一輝……」
その表情は、母の顔だ。胸に抱く愛(フレア)をそのままに肌の温もりに乗せて、そのまま一輝に伝える。
「はい……。だって…、ここは、故郷とはあんまりにも違って、父さんも母さんも、クラスのみんなも居なくて……。でも、今は桃香が一緒だから、どこでも大丈夫だけど、それでも…、いつ帰れるかも分からなくて……。でも…、でも…、お兄ちゃんの僕が、そんな不安を桃香に見せる訳がいかなくてっ……!」
急に堰を切ったようにあふれ出てくる寂しさと不安。先ほどまでの高揚感が嘘のように、一瞬にしてそれは一輝を支配した。
その一輝の様子に、キュッと腕の力を強めるセシリア。
最愛の少年(ひと)の姿を、そこに重ねて……。
「ごめんね…、一輝…。キミや桃香をこの世界に呼んでしまったのは、この世界がもつ力のせいだ…。だから…、この世界を創り出した私のせいだ……。私は、キミ達に、とても申し訳ないことをしたと思っている……」
女神の懺悔に、界渡りの少年は、ただ黙って肩を震わせる。
「それに対して、とても埋め合わせが出来るとは思っていない…。だからせめて、こうさせて欲しい……。私は、キミの味方だ……。キミが求めれば、いつでもこうしてキミを包むから……」
そう言って、想いをフレアに乗せて包み込む。肌の温もりが人に安心感を与えることを、母の本能で知っているのだ……。
その温もり(フレア)に、色々な感情が爆発して、一輝は声をあげて泣き出す。
慈母(セシリア)はただ、優しくその背中をさすってやる…。
しばしの間泣くだけ泣いて、感情を出し尽くした一輝は、少し平静さを取り戻す。アルコールの感覚はまだ抜けないが、なんだか気持ちがすっきりした。
「……ごめんなさい、セシリア様。貴女に酷いことを言ってしまいました」
この世界での孤独をもらすことは、女神を責めることに繋がる。落ち着いた頭ではそれが理解できる。そしてそれは、一輝の最も嫌うところなのだ…。周りの人にはみな、笑顔でいてもらいたい……。
「大丈夫だよ…。事実だから……」
「いえっ。僕は確かに寂しさも感じてますけど、それ以上にこの世界に感謝してます。この世界のおかげで、ライラやマリアさんや桜花ちゃんに出会えた。桃香を取り戻すこともできた…。それに……」
抱かれた体を少し離し、セシリアの瞳を見つめて言う。
「貴女と会うこともできましたから……」
満面の微笑(えがお)で言う一輝。
その一輝に、やはり微笑(えがお)で返してセシリアは言う。
「もう…。そういう言葉を、誰彼にでも言うものではないよ…?女性に余計な誤解を抱かせる……」
言ってクシャクシャと一輝の頭を撫でる。
そして、二人で声を合わせて笑う。
「さてさて、私が無理にお酒につき合わせたばかりに、大変な思いをさせてしまったね」
「いいえ。色々吐き出してスッキリしました。これで心置きなく明日に備えられそうです」
「いよいよ本番…だもんね。キミの願いが叶うと良いね…」
「はい。ありがとうございます」
微笑(えがお)で励ますセシリアに、一輝も満面の微笑(えがお)で返す。
「それじゃあ、明日に備えて寝ようか…?」
「そうですね。もう、こんな時間だ」
セシリアは一輝を兄妹に当てられた寝室に案内する。ベッドでは先に桃香が静かな寝息を立てている。
そこに腰かけた一輝にセシリアは言う。
「そうだ、一輝。子守唄を歌ってあげようか…?」
「え!?でも……」
一輝がまたも顔を赤らめる。
「恥ずかしがることはないよ。いつも銀月や桜花にしてあげてることだ…。子供は、子供らしくしておくものさ……?」
柔らかいが有無を言わさない彼女の言葉に負けて、一輝は首を縦に振る。
「それじゃあ…、お願いします……。少し、恥ずかしいですけど……」
「変なこだわりを捨てて、小さい頃に帰ってみなよ…。私の歌は、心地よい眠りを運ぶ力があるから、きっと今夜は良い夢を見られる……」
ベッドに入り、掛布団をかける一輝。その布団に入り込んで、セシリアは一輝に添い寝する。
「え…?え……!?」
これまでで一番顔を真っ赤にする一輝。
セシリアは一輝の頭を胸に抱き、そしてゆっくりとしたテンポで子守唄を歌いだす。
初めはかえって寝辛そうにしていた一輝も、次第にセシリアの歌の持つ魔法の力に誘われて、意識を深い眠りの底に落としていった…。
慈母の詩は界渡りの兄妹を、優しい眠りの揺り籠に包み込む…。いましばらくは、使命を忘れて眠ってくれと、祈りを込める。
「(おやすみ…一輝…。今夜は私が、キミの夢を護るよ……)」
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※夜伽=警護や看護のため、夜寝ずに付き添うこと。また、それをする人。
女神は今宵、界渡りの兄妹の夜伽を務める……。