樹木の世界のとある領域に、永遠の夜に鎖されたひとつの城があった。遍く魔を内に匿うその城は、荘厳かつ妖しげな空気につつまれて、月の灯りに暗く輝いていた。
その城の玉座の間に、低くしわがれた声が響く。
「伯爵様。お客様のお通りに御座います」
「うむ。通せ」
装飾の施された重い扉が開かれ、白骨の執事(butler)に案内されて、透けるような白いドレスを纏ったひとりの美しい女が現れる。
「セシリア=ベルモントにございます…。伯爵には、久方ぶりにこうしてご尊顔を拝し得たこと、恐悦至極に存じます……」
スカートの裾を摘み上げ、恭しく一礼するセシリア。その立ち振る舞いは、優雅な社交界のそれに準じたものだ。しかし、武器こそないものの、背中に広げられた《光翼の盾》の輝きが、彼女がただ慇懃に礼を取りに来たのでないことを物語っている。
だが、そんな彼女の挨拶に、眉一つ動かさず伯爵は応じる。
「これは女神様…、これは良い時においで下された…。丁度、今宵は魔界の諸侯を呼び集めて、晩餐会(パーティ)を開いておったところなのだ…。そんな折に、貴女様のような麗しい賓客(ゲスト)にお越し戴けるなど…私の方こそ恐悦至極に存じ上げる……」
不意に、それまで隠れ潜んでいた“魔”の気配が色濃く漂いだす。霧のように現れた魔の君主たちは、めいめいに優美な服で身を包み、やや遠巻きに輪を成しながら、賓客(ゲスト)の登場を出迎えていた。
突然の魔王たちの登場に、一瞬だけセシリアにも緊張が走る。
「(……迂闊だったな。これほど大きな戦いを企図しているんだ…、その備えのために私がここを訪れるという動きも、伯爵にとっては運命の糸を通してお見通しというわけか…。さすがだな……)」
だが、魔界の諸侯に取り囲まれても、セシリアに動揺の色は無い。諸侯の輪に向かってもう一度礼をした後、ゆったりとした足取りで伯爵に向かっ歩き、伯爵の玉座の前に跪く。
「こうして諸侯もお揃いでしたら話が早い。伯爵様…、貴方様のお力をお借りしたいのです……」
伯爵の灰白の手を取りながら、華やぐ微笑(えがお)を上目に向けるセシリア。その奥に、退くことなき意志を隠して…。
だが、伯爵もまた役者で譲らない。悪戯な嘲笑(えみ)を浮かべて、大仰な口調で返す。その奥に、絶えることなき憎悪を湛えて…。
「おお…!貴女様のような麗しき賓客(ゲスト)のお頼みを断ったとあっては、主催者(ホスト)たる私の名折れ。是非とも、お応え致そう。ただ……」
「ただ…?」
「貴女に、是非、今宵一晩、我が晩餐会(パーティ)にお付き合い戴きたい。血と、肉と、愛欲をもって……!!!」
舐めるような無数の視線が周囲からセシリアに絡みつく。這い回り、透かし見て、侵し刺さる、無数の眼差し。薄いドレス越しにセシリアを犯す。
「よく実ったものだ…。破邪の血と、大天使(ミカエル)の剣と、創世の偉業…、そして褪せることなき美しさ……。実に…“魔”を性とする者の食思をそそる……」
灰白の指をセシリアの細い顎に当てて、自らの顔を近くに寄せながら伯爵は続ける。
「貴女の身を穢したいと思う魔王が、貴女の血で喉を潤したいと欲する吸血鬼(デュナミス)が、貴女の肉を喰らいたいと飢える黄泉還りが、いま我が城には大勢招かれている。是非…、貴女の身体をもって諸侯諸氏の願いを叶えて戴きたいのだが……?」
気が付けば、セシリアを取り囲む魔界の諸侯の中に、吸血鬼(デュナミス)や人狼(アルテミス)や黄泉還り(アンデッド)の姿が交じっている。
伯爵の言葉に、彼らはみな邪悪な欲望を滾らせる。女神を凌辱して咽び泣かせ、その血を啜って歓喜に酔い痴れ、その肉を喰らって力を高める…。それは、魔なる者にとって至上の悦びであり、聖なる者にとって耐えがたき屈辱である。
つまるところ…、実質上の全面降伏。それがセシリアの要求に対し伯爵が突き付けてきた条件であった。
セシリアは思案する。
「(飽く迄も私を厭(きら)う伯爵の嫌がらせか…。世界のためならば、この身を汚すことくらいどうということもないが……)」
だが、彼女は曲りなりにも外交で成り立つセント・アゴラの主だ。一方的に頭を垂れるだけの交渉が何の確約も結び付けられないことを、彼女は良く知っている。
だから、ひとつの交渉材料を持ってきていた。
「せっかくのお誘いでございますが、私にはこれから、急ぎ為さねばならぬ備えがございまして、すぐにでも城に戻らねばならぬのです…。ですから、大変ご無礼かとは存じますが、お誘いに応じることはできません。誠に申し訳ございません…」
深々と謝罪の頭を垂れるセシリア。そして顔を起こし、やや神妙な面持ちで言う。
「それから…、これはご無礼ついでの身の上話なのですが……」
「何かな…?」
「内々の話になりますが、私共はこれから、城の備えを固めるついでに、諜報部隊の再編成も行わねばならないのです…。と、申しますのも、実はつい先日、地獄の津見姫(つみき)卿から私共の所へ諜報部隊を借りたいとのお申し出がありまして…。卿のお申し出に応えるために、諜報部隊を幾つかに分けて再編成しなければならないのです……」
唐突に始められた、脈絡もない話。表情を変えぬ伯爵と、意図を掴みかねている群衆を余所に、セシリアは声を潜めるようにして続ける。
「……なんでも、閻魔帳の帳尻が合わぬから、仔細を調べたい。そのために、人手が欲しいので貸してほしい…とのことで……」
その言葉に、伯爵も周囲の群衆も押し黙る。
伯爵は、黄泉還りの軍勢を配下に率いている。その戦力は、伯爵が司る『輪廻転生』の掟を歪んだ形で行使して、冥府から死者の魂を死したまま現世へ黄泉還らせることで確保されているのだが、これは当然冥府の法に触れる。伯爵が司るのは、現世から冥府への、および冥府から現世への“魂の移動”だけであり、冥府にて死者の魂を預かるのは別のコラプサーなのだ。
そして、その中で地獄を預かるコラプサーが『閻魔王』花雪津見姫(はなゆき つみき)なのである…。
「津見姫卿は、ご自分の領内から咎人の魂を“ちょろまかして”いる者がいるのではないかと疑っておられる様子。冥府の法が犯されているとあっては、我々セント・アゴラとしましても見て見ぬふりはできませぬ…。それ故に、何とかして卿のお力に成りたいと思っておる次第でございます…」
地獄の管理人である津見姫にとって、刑期の終わらぬ咎人の魂を勝手に現世に連れ戻されることは、決して許し難い行いであろう。伯爵はこれまで、情報工作を駆使することで、津見姫に証拠を掴まれないようにしながら、死者の魂を盗み出していたのだが、地獄の操作網にセント・アゴラの諜報部隊が協力すれば、その証拠を暴かれる恐れがある。津見姫もまた強力なカオスフレアであり、これを敵に回すのは、伯爵にとっても面白くないことであろう…。
即ち、セシリアはそのことを利用して伯爵に脅しをかけているのだ…。
「さあ、そのような次第でございますから、どうか今宵はお暇させてくださいませ…。早く帰って、津見姫卿に配下を送らなければ……」
「……あい解った」
ふぅ…とため息をついてから、伯爵はセシリアを呼び止める。その言葉に呼び止められて、その場を立ち去ろうとしていたセシリアも、ピタリと足を止め、クルリと伯爵の方を向き直る。
「今度の決戦、貴女や貴女に協力する者達がダスクフレアを倒すまでの間、私も私の配下やその息のかかった者達も、すべて貴女と貴女の協力者達の味方だ…。共に力を合わせ、ダスクフレアと戦うことを約束しよう…。これで…、よろしいかな……?」
あいも変わらず大仰な口調を取りながら、「負けた」とばかりの悪戯な自嘲(えみ)を浮かべて言う伯爵。
セシリアは、柔らかな微笑(えみ)を浮かべてこれに応える。

「ありがとうございます…、伯爵。さすがのお器…、感服いたします」
スカートの裾を摘み上げ、優雅に一礼するセシリア。
両者のやり取りに、魔王や怪物たちがざわめきの声を挙げる。
だが、伯爵もただやり込められては終わらなかった。
「ただ…」
「ただ…?」
「我が晩餐会(パーティ)まで女神にお越しいただいて、ただ挨拶だけで帰らせては、主催者(ホスト)たる私の沽券に係わる…。そこで…、貴女のご神体から、一杯の血(ワイン)を戴きたいのだが、よろしいかな…?」
そう言って伯爵は、黒紫に輝く水晶で出来たワイングラスをひとつ取り出す。
セシリアは、その伯爵の申し出に、しばし困ったような表情(かお)を浮かべながら思案していたが、たっぷりと時を置いてから再び顔を微笑(えがお)に戻し、伯爵の申し出に答えを返す。
「あい解りました…。それでは、せめて一杯、ご馳走させていただきます」
そう言うと、セシリアは《魔剣召喚》を行い、銀色に輝くその刃で自らの手首を軽く切りつける。
血の香りが空気に舞い、伯爵が手にもつ黒水晶のワイングラスへと注がれる。本来なら直ぐにでも固まってしまうはずのその血は、黒水晶の持つ不思議な力に護られて、赤々とした輝きを保つ。
香る血に群衆が色めき立つ。
グラスを鼻元に近づけ、その香りをかぎながら伯爵が言う。
「高貴にして鮮烈なるこの香り…。実に良い血(ワイン)だ……。今宵集まり戴いた諸侯諸氏にこの一杯を争わせれば、さぞや良き闘争(よきょう)となるであろう…な……?」
悪戯に嘲笑(わら)い、周囲を一瞥する。
群衆はざわめき、さまざまな思惑を交錯させる。
「それでは伯爵様…、私はこれにてお暇させていただきますが、くれぐれもお約束のことお忘れなきように…。事と次第によれば、地獄への協力者の数が、増えも減りもするやもしれませぬ故に……」
「あい解った」
念を押すセシリアに、ニヤリと意味あり気に嘲笑(わら)う伯爵。
それから伯爵は、例の大仰な口調でセシリアに言う。
「とは言え、これほど極上の血(ワイン)を馳走になって、手土産も持たせずに返したとあっては、我が名に傷がつこうというもの…。故に私から貴女に返礼をしよう…。死神(Death)よ…、あれを持て……!」
グラスを玉座の肘掛けに置き、手を叩いて死神(butler)を呼ぶ伯爵。
呼ばれた死神(butler)は、鞘に納められた一振りの槍をその手に持って現れる。そして、恭しく一礼したあと跪き、女神(セシリア)にそれを献上する。
「その槍は『魔槍の鎧鞘』と言ってな…。さる名工が手掛けた魔界にふたつとない逸品だ…。血(ワイン)の返礼に、是非お納め戴きたい……」
女神を前に自慢の一品を説明する伯爵。
セシリアは、献じられた槍を手に取ると、空に向かって一振り振るい、その感触を確かめる。
煌めくフレアが粒子と成って、槍の軌跡を燐光に染める。
「なるほど…、良い槍だ……」
女神から戦士の顔に戻り、言葉を繕うのも忘れて思わず漏らすセシリア。手になじむ感触が、魔槍の品質を保証する。
「これは良き返礼を戴きました…。どうか、この穂先が貴方様に向くようなことが無きよう、祈っておきます…」
「ふふふ…。もし…、そのようなことになれば…、私としてはまたとなき役得よ……」
再び悪戯に嘲笑(わら)う伯爵。
その伯爵に三度一礼して、女神は荘厳な扉の外に消えた……。