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NWA-AWA 
幼少時代からリック・フレアーに憧れ、高校在学時にプロレスラーになることを決意した[要出典]。また、JBエンジェルスの熱烈なファンであり、特に山崎五紀には心酔している。18歳の頃にホセ・ロザリオに師事し、1984年9月8日に地元サンアントニオ地区のテキサス・オールスター・レスリングにてアート・クルーズを相手にデビュー。ポール・ダイヤモンドとのタッグチーム「アメリカン・フォース」でキャリアを積み、海外武者修行中だった冬木弘道と川田利明の「ジャパニーズ・フォース」との抗争も行われた[1]。

1985年にNWAセントラル・ステーツ地区(ミズーリ州、カンザス州近郊)においてマーティ・ジャネッティとミッドナイト・ロッカーズ を結成し、セントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得。その後ダラス地区などを転戦し、1986年にAWAに移籍(AWAでは当初「USエクスプレス」と名乗るプランもあった)。翌1987年1月にAWA世界タッグ王座を獲得した。同年夏にWWF(現・WWE)と契約するが、ナイトクラブでの乱闘事件が元でわずか2週間で解雇される[2]。その後、ミッドナイト・ロッカーズはAWAに戻り、再びAWA世界タッグ王座を獲得。なお、当時のAWAには後にマネージャーを務めるシェリー・マーテルや、後世に語り継がれる名勝負を残すことになるスコット・ホールも在籍していた。

WWF 
1988年、チーム名をザ・ロッカーズに改め、再びWWEと契約を交わした。後のライバル "ヒットマン" ブレット・ハート率いるハート・ファウンデーションなどと抗争を繰り広げ次第に人気を高め、1992年、相棒のマーティ・ジャネッティと決別し、ヒールのシングルプレイヤーに転向した。その年には初のシングルタイトルとなるIC王座を獲得した。その後、しばらくはかつての相棒ジャネッティなどと抗争を繰り広げるが、その頃はまだ中堅クラスという感は否めなかった。そんな状況を脱するきっかけは1994年のWrestleMania Xで訪れた、レイザー・ラモンとのラダー・マッチである。ショーンは敗れたものの、双方ともに実力を出し切ったこの試合によってショーンの名前は全米に広がり、広く実力も知られるようになった。

1995年、ロイヤルランブルにおいて優勝し、WrestleMania XIではディーゼルの持つWWF王座に挑戦したが敗れた。WrestleMania XI後はベビーフェイスに戻り、1996年には再びロイヤルランブルを制しWrestleMania XIIにおいてブレット・ハートとWWF史上初のアイアンマン・マッチを行い、延長戦の末勝利。初のWWF世界ヘビー級タイトルを奪取した。しかし、この時の経緯を巡りブレット・ハートは激怒し、彼との間に大きな確執を残すこととなった。

名実ともにWWFの頂点に立ったショーンは、ブレットが長期休養を取ったこともあり、マンカインド、ベイダー、ブリティッシュ・ブルドッグらを相手に防衛を重ねるが、サバイバー・シリーズでサイコ・シッドにWWF王座を奪われた。翌1997年1月19日、地元サンアントニオのアラモドームに6万人超の観客を集めたロイヤルランブルで王座を奪回するが、この試合で膝を痛め王座返上し、レッスルマニア13には不出場。しかし、これは直前にブレットが契約更改で、ビンス・マクマホンから高額な契約金を引き出したことに対しての試合ボイコットであった、という説もある。

1997年秋、再度ヒールターンしてハンター・ハースト・ヘルムスリー、チャイナらとD-Generation Xを結成。再びブレット・ハートと抗争を繰り広げた。9月20日にはブリティッシュ・ブルドッグからWWF欧州王座を奪取し、WWF史上初のグランドスラムの快挙を達成する。同年11月にモントリオールで開催されたサバイバー・シリーズで、既にライバル団体WCWへの移籍が決定していたブレットとのWWF世界ヘビー級タイトルマッチの最中、ショーンがブレットの必殺技のシャープ・シューターを繰り出した瞬間、突如としてショーンの勝ちが宣告される不可解な事件が起こった(モントリオール事件を参照)。最大のライバルであったブレットはWWFを去ったものの、この頃から長年に渡るハードな受身が災いし、持病の椎間板ヘルニアが悪化した。様々な治療やリハビリを試みたがこの時点では回復は困難と見られ、1998年3月29日、WrestleMania XIVでのストーン・コールド・スティーブ・オースチン戦を最後に引退した。

1998年-2002年 
引退後は故郷サンアントニオに戻り、プロレスリング・スクール兼WWFファーム団体のTWA(Texas Wrestling Academy)を設立し、後進の育成に励んだ。TWAには若手時代のタッグパートナーでありAWAやWWFでも活動を共にしたポール・ダイヤモンドもトレーナーとして協力しており、卒業生にはブライアン・ケンドリック、ポール・ロンドン、ランス・ケイド、ブライアン・ダニエルソンなど後にWWEで活躍する選手も多い。

また、この時期にはストーリー上WWFのコミッショナーに就任して、テレビにその姿を見せることもあった。1999年11月23日に横浜アリーナで行われたFMW10周年記念大会では、特別レフェリーとして久々の来日も果たしている。私生活においては、親友ケビン・ナッシュの紹介で出会った元ナイトロ・ガールズのレベッカ・カーチと結婚した。

WWE 
2002年、nWoの新メンバーとして衝撃の復帰を果たしたが、ケビン・ナッシュの負傷に伴いnWoが崩壊。その後トリプルHと抗争が始まり、SummerSlam 2002でのトリプルH戦(団体未公認試合)でついにリングへの復帰を果たした。さらにSurvivor Series 2002でのエリミネーション・チェンバー・マッチで初の世界ヘビー級王座を獲得。2003年にはWrestleMania XIXでクリス・ジェリコと戦った。

2003年は世界ヘビー級王者トリプルH、あるいはその派閥エボリューションとの抗争を続け、年末からはトリプルHとの試合を繰り返した。ロイヤルランブル覇者クリス・ベノワが王座への挑戦権を得たため、WrestleMania XXではトリプルH、ベノワと三つ巴戦でメインイベントに出場した。翌月のBacklashでの再戦ではモントリオール事件がテーマとなり、ブレット・ハートと関係が深いベノワのシャープシューターにタップアウトした。以降はトリプルHとの抗争に戻り、バッド・ブラッドでのヘル・イン・ア・セルでの決着に至った。翌日のケインの襲撃を期に長期欠場に入った。復帰後はケイン、あるいはエッジと抗争。

2005年のRoyal Rumble 2005以降、SmackDown! 所属のスーパースターであるカート・アングルとの抗争を開始し、WrestleMania 21の番組対抗戦で対決するも敗北。WrestleMania 21以降は一時復活したハルク・ホーガンとチームを組み、Backlash 2005までモハメド・ハッサン、デバリの嫌米チームと抗争。6月に行われたドラフトでカートがRAWへ移籍し、Vengeance 2005で再戦し雪辱を果たす。7月4日に開催されたRAWでのマイケルズ&ホーガンvsカート&クリス・マスターズ戦の試合終了後、突如ホーガンにスウィート・チン・ミュージックを浴びせヒールに転向。以降ホーガンとの抗争を開始する。SummerSlam 2005のメイン戦でホーガンとの対決には敗れたが、再びベビーとなった。秋からは同じくベビーターンしたリック・フレアーと組み、マスターズと抗争を開始。マスターズとの抗争を終え、USAネットワークに戻ったRAWでカートとのアイアンマン・マッチを行った。その後SmackDown!との一連の抗争ではRAWの主将を勤めた。

2006年からは、「モントリオール事件」についても語られている、ブレット主演のDVDの発売に絡んで、ビンス・マクマホン、シェイン・マクマホンと抗争。Saturday Night Main Eventでのシェイン戦は、シェインがショーンに対してシャープ・シューターを出した瞬間にビンスがゴングを要請して試合が決着するという、モントリオール事件を再現するアングルが組まれた。WrestleMania 22ではビンスとのストリート・ファイト戦が行われた。以後もマクマホン親子との抗争は続き、7月、トリプルHと組み、9年ぶりにD-Generation Xを再結成した。

2007年にはロイヤルランブルで激闘の末、ジ・アンダーテイカーに敗れた。 同年、ランディ・オートンに頭を蹴られ(というストーリー。本当は足の怪我)欠場していたが、ノー・マーシーの翌日のRAWでいきなり復活した。その後はオートンなどと抗争。

2008年ロイヤルランブルでアンダーテイカーと共に1番手として出場したが、Mr.ケネディに落とされた。 WrestleMania 24では、ビンスにより試合に負けたら即引退を課されていたリック・フレアーと対戦。そしてこれに勝利し、フレアーを引退へと導いた。 その後もクリス・ジェリコ、JBLなどとの抗争で番組の中心として活躍するが、アルマゲドンにて景気悪化の煽りを受け破産状態になったと「告白」、JBLの"従業員"となって彼の試合に介入、観客からブーイングを浴びると共にトリプルHとの仲も微妙になり、悩めるベビーフェイスとして葛藤の日々が続いた。

しかし2009年のノー・ウェイ・アウトで行われた、マイケルズが勝ったら今までの報酬が全て支払われるが負ければHBKやショーン・マイケルズの名前の権利がJBLに奪われるという"オール・オア・ナッシング"マッチに見事勝利し、ハート・ブレイク・キッドが復活した。 2月のRAW放送ではそれまで無敗を誇っていたウラジミール・コズロフをスウィート・チンで下すなど破竹の快進撃を続け、WrestleMania25でジ・アンダーテイカーの16勝0敗という記録を破ると宣言。 その後のRAW及びSmackDownにおいてあの手この手でテイカーを挑発、翻弄するが、WrestleMania25本番ではテイカーの無敗記録を破る事はできずマットに沈んだ。このWrestleMania25後は長期休養に入った。 その後8月のRAW放送においてオートン率いるレガシーのコーディ・ローデスとテッド・デビアスとのハンディキャップマッチに敗れたトリプルHが「テキサスに電話を一本かけるか」とDX復活を示唆。翌週テキサスに飛び、とある会社の食堂でシェフをしていたショーンを発見する。ショーンは「会社は尊敬してくれる」と言ったが直後に上司に罵倒され、スウィート・チンで撃沈。DXが再結成した。(このスキットは映画「レスラー」のパロディ) 再結成後はレガシーのローデス&デビアスと抗争。WWE Breaking Point 2009では史上初の試合形式であるサブミッション・カウント・エニウェア・マッチで闘うが、ローデスの鉄柱4の字固め、デビアスのミリオンダラー・ドリームのダブル攻撃に屈してしまい、DXとしては初めてのタップアウト負けを喫した。 しかし次PPVのHell in a Cell 2009では勝利し、決着がついた。

12月に開催されたTLC:Tables, Ladders and ChairsでのTLC戦でクリス・ジェリコ&ビッグ・ショー組に勝利し、統一タッグ王者となる。
最終更新:2010年03月01日 16:35