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ハダカンボ王位継承戦争 - (2019/04/15 (月) 21:02:16) の編集履歴(バックアップ)
背景
ハダカンボ王国では7580年以降植民地時代を経ながらハダカンボ10世による統治で安定し、さらにその治世末期にはイクファターナ諸国に学び国家改革を断行しようとしたがイマラ族を筆頭とする大貴族による専横で改革を行うことは困難であった。
また大貴族も強権を振るうハダカンボ10世の政治手法に不満をいだいており、皇王と貴族の対立は年々深まっていた。
経過
勃発
7611年1月20日、ハダカンボ10世はフーエラ族の反乱を鎮圧するために親征するも、遠征先のブラバノ村でイマラ族族長ティガソ一党によって暗殺されてしまう。
このことはラータイに事前に示し合わせていたため、同時多発的にラータイは王太子ヘアヌドを王宮クーデターで殺害(自決との説あり)。
これによって王位継承順位第一位に繰り上がったラータイはティガソとフルヌゥドで合流すると皇王セキラ10世として即位を宣言。
もとより貴族の支持が薄かったこともありこれに従わない部族が続出。イマラ族とフーエラ族という大貴族以外は従わなかった。とはいえこの時点で軍事的にはほぼ王国の軍事力を掌握しており、他の部族の従属も時間の問題と思われた。
ビリア河畔の戦い
しかしこのときキサバシリ巡礼でフルヌゥドを離れていた異母弟ヌギが反旗を翻し、2月14日、モフモフ族と有志の戦士を率いて挙兵。
ラータイは逆賊ヌギ討伐令を発し、7月30日午前9時、フルヌゥド近郊のビリア河畔でヌギ軍1500(歩兵1000、弓兵300、騎兵200)に対して、ラータイ軍はその10倍の5000(歩兵4000、弓兵800、騎兵200)という約3倍の戦力差で迎え撃つ。
当初これはラータイ軍の圧勝と思われ、ラータイ自身も家族や側近を連れ、自身の快勝を見せつけようとし、さらに豪華な生活用具、金銀財宝を持参し、本陣で宴会まで開くという豪遊振りを見せた。
戦場となったビリア河畔は川と丘陵地帯の隘路となっており、狭い地帯での戦いとなり一度に衝突する戦力差は殆どなかった。
ヌギ軍は右翼に騎兵を配置し総大将ヌギも騎兵隊を率いていた。
戦いが始まると歩兵の戦列が衝突。一進一退となり膠着状態となったがヌギ軍がやや押され、歩兵隊は後退。前進してきたラータイ軍歩兵横隊を見て右翼騎兵隊は丘陵地帯を駆け上がり後方に一気に回り込む。後方に回り込んだ騎兵隊はラータイの本陣に一気に迫り、戦力を一気に前に押し込んだラータイ軍はすぐさま反転しようと後退。本陣突入時にはラータイ本人はこの時点で逃亡し戦場を離脱し本陣はもぬけの殻であった。
ラータイを追撃することを断念し、反転して歩兵隊後方を襲撃。前列の歩兵と挟撃しほぼ包囲する形となる。ラータイ軍は大軍ではあったが包囲され中央の兵は遊兵となり玉ねぎの皮を剥ぐように外側の兵から順次殺されていった。あるものは圧死し、あるものは川に飛び込みワニに捕食されるなど悲惨な最後を遂げた。この時ヌギ軍にもかなりの損害が出たが、士気の高いヌギ軍は16時までにはラータイ軍をほぼ殲滅した。
こうしてビリア河畔の戦いはヌギの巧妙な戦術によりラータイ軍主力は壊滅。多くの貴族や兵を見捨てて戦場から離脱する。また本陣に連れていた家族もヌギ軍の捕虜となった。敗戦後ラータイは内陸部のジャングルに逃亡し、さらにタヴェリア縦断山地を経由しザルバチに亡命した。
一方でもうひとりの首謀者であり大貴族筆頭であるイマラ族長ティガソもこの戦いに参加していたが逃亡しようとした先で家臣の裏切りにより捕らえられる。
乱の首謀者であり、陰謀家であるティガソを生かしておくメリットはなかったため、ヌギ自らの手で殺害される。
こうして指導者を失った貴族連合軍は瓦解し、ヌギは翌月3日にフルヌゥドに入城。
フーエラ族の降伏を以て反乱鎮圧と秩序回復を宣言した。
影響
この内戦に勝利を収めた翌年1月13日、ヌギはハダカンボ11世として即位した。軍事的に勝利し即位したことによりヌギの政治的権力は絶大なものとなった。また、大貴族の影響力は削がれ、各部族は自治権を縮小され、部族領は藩部となり、中央集権制が大幅に進んだ。
しかしラータイは逃亡先の
ザルバチ海岸共和国で再び権力の座に返り咲くべく、策謀し、ザルバチ軍の支援を受けて再度軍事行動を起こし、
ダハーカ戦争が勃発する。