プロローグ
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昨今、テレビのコマーシャルなどに流されるコピーやポップスの歌詞などに対して、
「何を言っているのかわからない」、「もっと正しい国語の用法を」
などと目くじらを立てる向きもあるようだが、言葉とはそもそも、
そのストライク・ゾーンが一定していないところに味わいがあるのではないだろうか。
明晰にして合理的な言葉、
その指示する対象が一つしかない<信号>のような言葉が一方にあるとすれば、
二重三重の意味をはらみ、
確たる対象をもたない<象徴>のような言葉が他方に存在するように見えないこともない。
しかし私には、数学と神話、物理学と詩のいずれをも表すために用いる言葉は、
二つであるように見えて実は一つであると思われる。
それは光の秩序を維持するための<道具としての言葉>であると同時に、
闇の豊饒から立ち昇る<情念の言葉>でもあるのだ。
私たちが実生活を送るためには、
確かに一義的な交通信号や正確な報道写真のたぐいを必要としているが、
それとともに、同一の物が多様に見えるイメージを描くダリや、
パイプでないパイプを描くマグリット、
生き物のように息づく建物を作るガウディらが生命の糧となっていることも忘れてはなるまい。
ちなみに、ダリDaliとガウディGaudiは、
それぞれカタロニア語で“欲望”と“快楽”を意味しているときく。
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演劇や音楽、絵画、彫刻もまた一つの言葉なのである。
見るたびに、聞くたびに、その都度新しい意味を与えられ与え返す体験の一回性は、
単に芸術作品との出会いという特権的状況に限らない。
さりげない日常会話においてさえ、伝達する意味とは無関係に、
ある時は人の言葉のイントネーションに感動し、
ある時はそれによって深く傷ついてしまう。
私たちは怒りを赤い顔で表しているのではなく、赤い顔そのものが怒りであるのと同様に、
そこには表現と内容を切り離すことのできない、
いわば身振り・表情としての言葉がある。
そうしてみると、これは狭義の言葉の問題ではなく、
人間の文化と意識そのものの重層性を暗示しているように思われてくる。
文化とは、一面こそ秩序と制度からなるディジタルな二項対立の網であっても、
同時にアナログな生命の波動でもある。
私たちは二千数百年来西欧において支配的であった<言語>の桎梏を脱して、
もう一度流動的な言葉と文化の問題をとらえなおさねばならないだろう。
これはまた、意識の表層における言語風景から、
意識の深層における言葉の風景へと垂鉛をおろす営みだと言えるかもしれない。
人間の文化は、
意識的・合理的・科学的な透明なモデルでは説明することのできない下意識や無意識につき動かされ、
死や虚無への恐怖、呪いや愛憎の織りなす心理によって左右される不透明な世界でもあるからである。
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言葉の探求を意識の深層にまで掘り下げることによって、
私たちは文化のそこに沈んでいる流動的な力に気づかされる。
個人同士はもちろんのこと、異文化間の対話の可能性も、
このダイナミックスを通して探られねばならない。
言葉とは、意識の表層における三段論法や演繹にもとづく説得の道具だけではなく、
人間と人間、人間と万物の交換を可能にする器官でもあるのである。
とは言っても、
あたまから西欧の考え方を否定して東洋の神秘主義に立ち戻ればいいというのではない。
私たちは西欧文化を知ることによって自らの文化を相対化するとともに、
東洋の叡智をテコにして西欧的価値観をも多元化すべきではないだろうか。
本書は右のような考え方から書き下ろされた小論である。
全体は五つの章から構成されているが、その主旋律は、
私たちの身を縦に貫く<意識>の重層性と、
言葉が生み出した<無意識>の非人称的な時・空をめぐって奏でられる。
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第Ⅰ章では、
従来のロゴス=理性/パトス=情念という(ひいては文化/自然の)二項図式に疑問符を付し、
第Ⅱ章と第Ⅲ章では、
スイスの言語哲学者・フェルディナン・ド・ソシュールの思想、
特にその晩年のアナグラム研究の謎を追うことによって深層の言葉の姿を描いてみた。
今世紀もあますところわずか十年余となった現在、
人間の<知>の世界にはこれまでにない大きな地殻変動が起こっている。
最突端の物理学理論が東洋の神秘思想に接近し、
コンピュータがアニマチズムやアニミズム的世界観
(自然界の事物が霊的な力を秘めていると考える有性観や有霊観)
の復権を可能にしかねない状況がそれである。
こうした事態を前にして、
問題はもはや「科学技術の革新か、生ける自然の回復か」
などという単純な図式では割り切れなくなってしまった。
そしてこのパラダイム・チェンジは、すでにもう一つの<世紀末>において、
ソシュールやニーチェたちが用意していたものなのである。
第Ⅳ章では、フロイトやユングに代表される精神分析の登場とその射程を検討することを通して、
私たちの“心の奥にかくれているx”を明るみに出し、
狭義の動物と人間との連続=不連続性の問題を考えてみた。
端的に言って、
動物にははたして無意識とかエスとかカオスの世界があるだろうかという問いかけがその根底にある。
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第Ⅴ章は、それまでのいわば原理論に走りがちな問題を、
具体的な日常生活の諸問題に応用する試みであり、
読者の関心次第では、この章から読み始めて第Ⅰ章に戻るのもよいだろう。
著者自身、書き終えてはじめて気づいたことだが、
本書ははからずも一つの円環構造をなしているからである。
この最終章では、私たちの最大関心事である貨幣と性と死の問題が語られ、
万人が<心の病い>にかかっている現代において、
従来のいわゆる<治療>とは、逆に科学的思考による<抑圧>にほかならず、
本来の意味での“無意識の開放”とはなっていないのではないかという疑問が提示される。
そして著者は、カタルシスをも含めた<治療>という考え自体を捨てて、
非在の現前としての<昇華>がもたらす“知る喜び”の方向を探ったつもりである。
なぜなら、ホモ・サピエンスは、<知恵のヒト>であるとともに
<味わうヒト>(←サピエンス=美食家(グルメ))でもあるはずなのだから。
近著『生命と過剰』(河出書房新社)の「あとがき」にも書いたことだが、
私がこれまでに著した三冊の本は、
『ソシュールの思想』(岩波書店)と『文化のフェティズム』(勁草書房)と
『生命と過剰』(第一部)である。
そして本書は、その三冊を基礎にして、まったく新しい視点から書き下ろした小冊子であり、
ロートレアモンに見られるような一種の<自己(オート)パロディ>であるとも言えるかもしれない。
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僭越をかえりみずに言うならば、この本を書いた私の気持は、
E・カッシーラーがドイツ語で著した三部作『象徴形式の哲学』を、
一切の翻訳の依頼を断って新たに一冊の『人間』という英文の本に書き改めた時の気持に
通ずるものがある。
すでに私の前著を読まれた読者も、
本書によってこの約十年間にわたる著者のささやかな思想の変遷を見てとって頂けることだろう。
また、はじめて本書から入って、少しでも人間と言葉・文化の問題に興味をもたれた読者は、
前三冊にさかのぼって読んで頂ければ幸いである。
最後になったが、この書の執筆を依頼された1985年春から足かけ3年もの間、
忍耐強く待っていて下さった講談社の渡部佳延氏に、心からの謝意を表したいと思う。
1987年9月
丸山圭三郎
最終更新:2008年06月27日 13:06