●カタログに整理する
p.18
そもそもロゴスというギリシア語は、
言葉、議論、計算、比例、尺度、理法、理性、根拠などという複雑多様な意味を持っていた。
そこでハイデガーは、
ロゴスが何であるかを推定するためにこの語の動詞にあたる
<レゲイン>に注目する(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』参照)。
レゲインとは、
「述べる、言う、物語る」であるとともに「読む」ことでもあるが、
そこに共通する基本的な意味は、
「とり集めて目の前に置く」ことであるという。
もちろん、「とり集める」といっても、ただ乱雑な集積をつくるのではなく、
一定の尺度に従って多種多様な異物を
一つのカテゴリーに括ることであるのだから、
それは<秩序化>と<統一>をも含む概念と言えるだろう。
現在でも使われるカタログ(←カタロゴス=整理のための目録)という語がもつ、
分類と整頓の概念を考えてみればわかりやすい。
ここに、万物を支配する<法則>、ひいてはのちのキリスト教的な唯一、
絶対神の概念が導き出されるもとがあった。
「太初(はじめ)に言(ことば)(ロゴス)ありき。
言(ことば)は神とともにあり、言(ことば)は神なりき。」
というヨハネ伝福音書の冒頭の文言が、
ヘレニズムの正統的遺産であることは想像にかたくない。
p.19
ところで、ハイデガーはその思想家としての一生のごく初期から
言葉と存在の関連に思いをめぐらしていた。
一九一五年の教授資格取得論文は
「ドゥンス・スコトゥスのカテゴリー論および意味論」であるが、
これについてのハイデガー自身の解説を聞いてみよう。
「<カテゴリー論>とは存在者の存在の究明であり、
<意味論>とは存在との関連における言葉についての形而上学的省察です。
けれどもこの連関のすべては、当時の私にはまだ見通せていませんでした。
言葉と存在への省察が早くから私の試作の道を規定していたので、
かえってその究明は可能な限り背景にしりぞいたままになっていたのです。
おそらく『存在と時間』という本の根本的な欠点は、
私があまりにも早く、
あまりにも先にまで進みすぎたというところにありましょう。」(前掲書)
彼の考えでは、
森羅万象をカテゴリー化して意味有るものと見ることができるのは
人間だけであり、
これはアニマル・シンボリクム(象徴を操る動物)
としての人間が有する言葉の力によるものにほかならない。
つまり、人間のもつ言葉こそ、
「取り集めて目の前に置く」ロゴス(←レゲイン)であったのだ。
p.20
そうしてみると、ロゴスとしての言葉は、
すでに分節され秩序化されている事物に
ラベルを貼り付けるだけのものではなく、
その正反対に、
名付けることによって異なるものを一つのカテゴリーにとりあつめ、
世界を有意味化する根源的な存在喚起力としてとらえられていたことになる。
くだいて言えば、
私の「頭」と魚の「頭」、私の「脚」とテーブルの「脚」は、
それぞれ「頭」と「脚」という言葉によって同じカテゴリーに括られていくのである。
最終更新:2008年06月26日 00:25