●ヘレン・ケラーの“最初の一語”
p.25
あの有名なヘレン・ケラーのエピソードも同じである。
本能的感覚=運動の次元から文化的世界への飛躍を可能にしたのが言葉の習得であった。
水のほとばしりとともに手のひらに綴られたwaterという語は、
あくまでも触覚イメージに過ぎないが、
このイメージこそがそれまで存在しなかった意味をつくり出し、
外界が以前とは別様に分節されたからである。
それまでの水の知覚は、突然別の綱目にからめとられ、
言葉の指向対象としての「水」になった。
この対象物は、人間という種がもつゲシュタルトとしての<モノ>ではなく、
文化のなかでのみ意味をもつ<コト>として存在し始めたと言えるだろう。
p.26
そもそも言葉の指向対象が生れるということは関係づけられるということにほかならず、
関係の場にあっては自存的な個は存在しない。
ヘレン・ケラーの場合は、
最初の一語を覚えてから一挙に言葉の世界が開けたと報告されているが、
実は、「最初の一語」と言われているwaterも、実体的な一語なのではなく、
彼女が習得したのは「最初の分節」
つまり「water/non-water」という差異化だったのである。
最終更新:2008年06月26日 00:28