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ライプツィッヒ留学の俊英
18歳までジュネーヴで教育を受けたソシュールの早熟さは、
その昔、22歳でジュネーヴ大学の前身である学士院の正教授となった
曽祖父オラス=ベネディクトの才にも比せられるものであったらしく、
1876年5月には創立されたばかりのパリ言語学会員として迎えられ、
ついで当時の言語学界のメッカたるライプツィッヒに留学(4年間)中にも、
「インド=ヨーロッパ語の複数のAの弁別に関する試論」
をパリで発表し(1877年)、
これをさらに発展させた
『インド=ヨーロッパ語における原初の母音体系についての覚え書』
(1878年12月)を完成して人々を驚かせた。
この『覚え書』は、多くの学者の目に
(彼の弟子であり友人でもあるA・メイエの目にすら)
少壮文法学派の業績の一つとして映ったが、
実はそのなかにはすでに、
従来の歴史言語学の方法論への厳しい批判と告発がこめられていたことを
忘れてはなるまい。
この著作は、約1年後に提出された博士論文
「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」(1880年2月)
よりもはるかに重要であり、
その関係論的視座は、
のちに完成される一般言語学理論と通底するものであった。
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ライプツィッヒ留学時代のあと、
ソシュールの約10年にわたるパリ時代が続く(1880年-1891年)。
最初の1年間はパリ高等研究院でM・ブレアルの講義を聞く学生であったが、
1881年の秋学期からは、弱冠24歳にしてその講師に任ぜられている。
最終更新:2008年07月05日 11:14