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謎の沈黙
さて、1891年にジュネーヴに帰ったソシュールは、
病に倒れるまでジュネーヴ大学で教鞭をとるのだが(1891年-1912年)、
多くの研究者が指摘するように、
「彼の伝記上の唯一の問題はそこにある」(G.ムーナン『20世紀の言語学』)
ようである。
フランスの言語学者・E・バンヴェニストによれば、
それはパリ時代の生き生きした生産的ソシュールと対比される謎の沈黙であり、
あるいはたまにその沈黙を破る言葉があるとすれば、
知的絶望感の表白でしかない沈痛な表情のソシュールであった。
「かなり早い時期に沈黙のなかに消えていった彼の人生をめぐっては、
いささかの謎がある。
(・・・・・・)この沈黙は一つのドラマを秘めていて、
そのドラマは苦痛に満ちたものであったらしく、
年とともに重くのしかかり、
出口を見出すこともできないものであった」
(『一般言語学の諸問題』)。
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確かに1894年頃からのソシュールは、
学術論文の発表はおろか、友人への手紙さえ書かなくなり、
自ら<書簡恐怖症(エピストロフオピー)>と名づけて無音を詫びている
(1900年11月27日に予告していて、
1902年10月27日になってやっと送付したメイエ宛の手紙)。
この謎の沈黙に加えて、
ソシュールが言語学とは直接関係の無いように見える
ニーベルンゲンの詩といったようなテーマに没頭したのは何故か。
ロマンド地方におけるゴルゴンド族についての民俗学的研究に
惹かれた理由は何か、さらには、
アナグラムとかイポグラムと呼んだ詩の謎解きにのめりこんだのは何故か。
メイエは師の沈黙を、
その病的なほどの完璧主義のせいであると考え、
バンヴェニストやイタリアの言語学者・デ・マウロたちは、
あまりにも時代を超えていたソシュールの言語理論に対して、
彼の同時代人が示した無理解ないしは無視の壁にぶつかったための
落胆からであろうと推測している。
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ムーナンはそれに加えて、
「不釣合だった結婚」と
「おそらくは重症だったにもかかわらず人からは気づかれなかったアルコール中毒」
を理由に一つに数えているが、
これは晩年のソシュールの講義に出席した学生たちの憶測の域を出まい。
デ・マウロにおよれば、
同じジュネーヴの旧家の出であるマリー・フェッシュ夫人との結婚は、
その社会的地位からいってもいささかの不釣合なものではなく、
レーモンとジャックの二子を得た夫妻が、
イタリア、フランス、イギリスなどへの数回にわたる旅行を共にしていることや、
ソシュールの歿したヴェフランの城はフェッシュ家の所有であった事実などからも、
夫妻の間に精神的葛藤があったという確証はまったく見出されない。
最終更新:2008年07月05日 11:45