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幻の書物

 彼のドラマは何よりもまず「思想上のドラマ」であった。
 そしてこのドラマは、
 自らが構築した一般言語学理論自体がはらむ<体系>的学問への疑問からくる苦しみであり、
 言葉によって言葉を語る矛盾、
 さらには言語化することのできない<非‐知>(ノン・サヴォワール)を
 執拗に言語化せんとする闘いであって、
 その底を照らし出すくらい光線の束は、
 1894年という年に収斂されるように思われる。
 この年の1月4日付のメイエ宛の手紙では、
 次のような苦渋に満ちた言葉が書き連ねられているのである。
p.57
  「(・・・・・・)言葉の事象に関してまともに意味の通ずるようなぐあいに
   何か書こうとするのは、
   ただの10行だけでもまず困難なことで、これにもつくづく嫌気がさします。
   (・・・・・・)そしてまた同時に、
   結局のところ言語学がなし得ることの大きな空しさもわかってきました。
   (・・・・・・)しかし、こういったことは、
   結局のところ私の意に反して一冊の書物になるでしょう。
   その書物のなかで、感動もなく、
   何故言語学で用いられている術語の一つたりとも
   私には意味があると思われないかを説明するでしょう。
   正直なところ、そのあとになってはじめて、
   私の仕事の放り出してあるところから、また始めることができるでしょう。」

 メイエへの手紙のなかで彼が約束した<一冊の書物>は、
 1893年頃から書き始められていた手稿9、11、12がその草稿と見られるが、
 これもアメリカの言語学者・ホイットニー追悼メッセージの草稿(=手稿10)
 と同様に未完のままに捨ておかれ、生前には誰の目にも触れることがなかった。
p.58
 おそらく『言語学の解体』とでも題されるはずであった幻の書物の草稿は、
 何故中断されてしまったのか。
 そして、のちの学生との対談によれば
 「自分でも二度と見つけられないだろうと思われるほど
  手許から遠く離しておいた」のは何故だろうか。
 そのあとに続いたニーベルンゲン伝説、テセウス、オリオン神話研究、
 ひいてはアナグラムの研究は、
 その沈黙と絶望の結果なのか、それとも原因なのか。
 言いかえれば、メイエ、バンヴェニスト、ムーナンらが考えているように、
 はたしてソシュールは一般言語学からの逃避として、
 「良心の咎めを感じながら言語学とは無関係な新しい主題を楽しんでいた」
 のだろうか。
 ジュネーヴ時代のソシュールの謎は深まるばかりである。
最終更新:2008年07月05日 12:08