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1 それぞれの子どもに、それぞれの心のドラマがある


 武田美穂さんの絵本に、『となりのせきのますだくん』という作品があります。

  あたし きょう がっこうへ いけない きがする

 こんな書き出しで始まるこの絵本。
 主人公のみほちゃんが、
 学校でとなりの席に座っているますだ君に、
 ことあるごとにいじめられる姿を描いた絵本なのです。

 勝手にみほちゃんの机の上に線を引いては、
 「ここからでたらぶつぞ」なんて言ってにらみつけるますだ君。
 消しゴムのカスがはみ出したらイスを蹴り、
 給食のシチューに入っている赤いニンジンやトリ肉をみほちゃんがこっそり残すと、
 すかさず「いけないんだー」と大きな声でいう……。

 そんな感じで、いじめっ子のますだ君に、
 いつも泣かされてばかりのみほちゃんなのです。
 ところがそのみほちゃんが、
 あのますだ君に消しゴムを投げつけてしまいます。
 絵本の中ではそのあたりの事情、次のように記されているのです。
p.9
  きのう かえりのじかんに
  けんか した。
  おたんじょうびにもらった
  いい においのする
  ピンクの えんぴつ
  きにいってたのに
  ますだくん おっちゃった。

  けしごむ なげたら びっくりしてた。
  それから にらんでた。
  あわててかえったけど
  きょう がっこうへ いったら
  あたし ぶたれるんだ。

  やだな
p.10
 それで冒頭の、
 「あたし きょう がっこうへ いけない きがする」
 となっていくわけですが、
 不安な気持ちでドキドキしながら学校へ向かうみほちゃんを、
 校門の所でますだ君が待ち受けているのです。
 事件のきっかけになった折れたエンピツにテープを巻き付け、
 それを片手にもったますだ君。
 みほちゃんを見つけると、
 すかさず「おい」と言って手をつかんだかと思うと、
 「ごめんよ」といいながら、またみほちゃんをぶつのです。

 「かえりに たしざん おしえて やろうか」
 「いい。いじめるから。」

 こんな会話で絵本は終わるのですが、
 絵本の中で最後まで緑色の怪獣として登場していたますだ君が、
 この最後のシーンでやっと、
 普通の男の子として描かれることになるのです。
 怪獣のようにしか見えなかったますだ君が、
 こんな出来事を繰り返すうちに、
 だんだん普通の男の子に見えてくる……。
 こんなみほちゃんの気持ち。ほんとうによくわかります。

 実はこの絵本には、『ますだくんの一ねんせい日記』という姉妹編があるのですが、
 これがまた面白い。
 先の本が、みほちゃんの気持ちを代弁する形で描かれているとするならば、
 この本は逆に、同じ場面をますだ君の立場から描きだしているのです。

 比べて読んでみると、たしかにますだ君にはますだ君の思いがあり、
 一つの筋の通った考えがあることがわかります。
 たとえばみほちゃんの机に線を引いて、
 いじわるした時の日記は、
 ますだ君の立場から書けば次のようになるのです。
p.11
  5がつ○にち
  きょう ぼくは、すこし いじわるな きぶんでした。
  だって せっかく しんせつに して あげても、
  となりのせきの みほちゃんは、
  ぼくのこと こわがってばかりなんだもの……。

 いや、そればかりではありません。
 あのエンピツを折ってしまったときにしても、
 悩みに悩んでいったいどうしたものか、
 家に帰ってお姉さんに相談したりもしているのです。
 そして四苦八苦しながらそのエンピツを修理し直して、
 あの朝をむかえているのです。
 勇気をだして「ごめんよ」と言ったあとで、
 てれかくしでポカリとやってしまうのですが、
 その日の日記をますだ君、次のように書いています。

  ごめんよ、といってエンピツをかえしたら、みほちゃんは うん、といいました。
  あー よかった。あんなに どきどき したのは はじめてだもんね。
  いろんなことが あるけれど やっぱり がっこうは たのしいな。
  あしたもいいこと ありそうです。

p.12
 それぞれの子どもに、それぞれの心のドラマがある……。
 そうなのです。
 考えてみたら子どもたちは、こんな体験を何度も何度も繰り返しながら、
 人間というものをゆっくりと理解しているのです。
 そしてここに描かれたような〔いじめ―いじめられ〕体験を含めて、
 さまざまな人間発達のドラマを通して彼らは、
 自分と違う他者の存在を認識し、自分自身をも知っていくのです。

 子どもたちに「子ども時代」をたっぷり保障すること。
 考えてみればそれは、
 J・J・ルソー(J・J・Rousseau,1722-1778)が
 「自然は子どもが大人になるまえに子どもであることを望んでいる」と
 『エミール』の中で語って以来、「子どもの権利条約」に至るまで、
 繰り返し繰り返し語られてきた子育てと教育の原則でした。
 そして学校を含めた公教育制度は、
 そうした原則を豊かに発展させるべく普及・拡大してきたはずでした。

 しかしながら現実には、
 子ども時代を豊かに過ごさせることを目的に普及したはずの学校と学校制度が、
 逆に子ども時代を奪う機能を果してしまうという実に皮肉な現象が、
 日本のみならず世界的な教育問題として指摘されるようになってきたのです。

 たとえばアメリカではD・エルキンドの『急かされる子供たち』、
 N・ポストマンの『子どもはもういない』、
 そしてM・ウィンの『子ども時代を失った子どもたち』と、
 子どもたちからあの活き活きした「子ども時代」を奪ってきた現代社会の現実が、
 鋭い言葉とともに問いかけられています。
 しかもそこではそのいずれもが、
 人生の中でもっとも子どもらしい幼児期の段階から、
 子ども時代の剥奪の現象が起きつつあると指摘しているのです。

p.13
  幼児教育の段階から、
  空想や遊びや想像力を発揮できるさまざまな活動が軽視され、
  学習に的が絞られてきたため、
  遊び中心だった子ども時代が変わってしまった。
  そして大人の世界同様に、
  成績中心で目的のはっきりした競争の激しい子ども時代になってしまったのである。
  おそらく、就学前から勉強ばかりしている子どもたちが、
  小学校入学後、よく遊ぶ子どもにもどることはないだろう。

 M・ウィンの『子ども時代を失った子どもたち』の一節ですが、
 もちろんこれはけっして他人事ではありません。
 日本の幼児たちが置かれている現実も、
 まさにこのとおりだといわざるをえないのが実態なのです。
 しかも問題が深刻なのは、
 子どもたちのところに起きつつあるこうした変化が、
 大人たち自身の価値観の変化を伴いながら、
 ゆっくりと、しかし確実におきている点にあります。
 つまり当の大人自身が
 子ども世界に起きつつある問題の本質を明確に認識することができないでいる間に、
 乳幼児期を含めた子ども世界がいま、
 かつて経験しなかった姿へと大きく変容しつつあるということが問題なのです。

最終更新:2008年07月14日 21:53