『私の日記』

日記を付け始めたのはいつごろからだろうか。
そしてその理由はなんだったろうか。
そんなことは最初のノートを見ればすぐ解るが、しばし思いを馳せてみる。
真新しい大学ノートの表紙に、油性ペンで『日記帳』と書き込む。
その下に、西暦と月、日にちを。
通算何冊目かは私にも解らない。今更数える気も無いし。
固く閉じた表紙をめくり、折り目をつける。
真っ白な未来を意味する空白。
それは今日から私の記憶で染まっていく。
「今日は……」
今日の聡介くんは……

「みそぎ、かえるぞ!」
「えー、やだ! まだそうすけくんとあそぶもん!」
「だめだって! またおかあさんにおこられるだろ!」
「やーだっ!」
夕方5時を知らせるチャイムが鳴る。
空はオレンジ色に染まり、世界を闇に導く体制を着々と整えている。
「わがままいうなよ」
「わがままじゃないもん……」
砂場にへたり込み、動こうとしない少女。
そんな少女を少しだけ鬱陶しげに、しかし優しく宥めすかすような態度で少年は語りかける。
「みそぎのおかあさんにもいわれただろ」
「でも……」
「でも、じゃない」
「…………うぇ……っく……」
「あ、ぅ……」
少女が不意に涙を零す。
大きな瞳からこぼれる透明な滴は、傾いた陽光に輝いて宝石のように見えた。
「まったく……」
呆れたようにしながら、少年は背を向けてかがみこむ。
「ひ……ふぇ?」
「おぶってくから。のれよ、はやく」
「…………うん!!」
「うわっ!?」
涙の跡が乾きもしないうちに、少女は元気を取り戻す。
少女がその背中に抱きつくと、勢い余って少年まで砂場に倒れこむ。
その顔は、泥だらけ。
「い、ってぇな! きゅうにげんきに……」
「あ、あはははっ! そうすけくん、どろまみれー!!」
「お、おまえのせいだろ!? かえるぞ!」
「うん! おうちかえったら、いっしょにおふろはいろーね!」
ふん、と鼻を鳴らし、少年はそっぽを向く。
そして体勢を立て直すと、今度はゆっくりと背中に体重がかかる。
「そうすけくんにおんぶー! えっへへ♪」
「あ、あばれるな!?」
「はーい!」
夕闇に、小さな影が一つ。
ゆっくり、ゆっくり動いていく。
そして黒い影が伸びきり、闇に呑まれ始める頃にやっと少女の家に着いた。
「はぁ、はぁ、そ、それじゃ、な」
「だめー! いっしょにおふろはいるもん!」
「で、でも……」
少年が自宅へ帰ろうとしたとき、玄関の扉が開く。
「あら、おかえり。おそかったわね。だめでしょ、みそぎ? ちゃんと約束守らないと」
少女の母が、娘を迎える。
「あのね、あのね! そうすけくんがおんぶしてくれたの! いっしょにおふろはいるの!」
「あら、聡介くん、こんばんわ。そうなの? ごめんね、みそぎが迷惑かけて」
「べ、つに……は、ぁ……」
「泥だらけじゃない。みそぎ、また聡介くんにわがまま言ったのね?」
「ちがうもん!」
「聡介くん、おふろ入って行きなさい。おうちにはれんらくしとくから。ね?」
「…………はい」
「やったー! はやくはいろ!」
少年は渋々、少女をは喜々とした表情で家庭の明かりの中へ進んでいく。

そんな生活が当たり前だった。
そんな時間が、いつまでも続いていくものだと思っていた。

「私は変わらないのに……聡介くん…………」
手に取ったボールペンで、今日の出来事を書いていく。
彼に起きた出来事を、私の主観を交えて埋めて行く。それがこの日記の記法。
それ以外は意味を成さないから。
すらすらと綴られていく書面に私が登場するのは稀だ。
「…………」
『聡介くんの笑い声が私の鼓動を速くさせる』
『聡介くんの走る姿が格好いい』
『聡介くんが居眠りしてる』
聡介くんはいっぱいいるのに。
私はそこにいない。
ずっと一緒にいたのに……
それが当たり前なのに……
少し、寂しい。
とても、寂しい。
「聡介くん……」
記憶をなぞり、彼の表情を思い浮かべる。
喜怒哀楽、全てが愛しい。
かわいくて、格好よくて、キレイで、絶対で。
私だけしか知らない表情もたくさんある。
生まれた時から一緒だった。
何をするときも、聡介くんが側にいたから。
「はぁ……んっ……」
だから、また感じたくなる。
側にいたときの感触を。
「聡介くん……っ、あぅ……!」
髪の先端からつま先までの感触を覚えている。
そして、そんな彼が私に触れた場所。
その場所を、記憶が、手がなぞる。
「あ、んぅ……」
気持ち良い。
思い出という悦楽に浸る。
熱を帯び、甘くて、とろけそうで。
消えることのない楽園。
私にだけ許された時間。

そんな思い出が途切れた日。
私から聡介くんを奪った現実と言う悪魔を忘れはしない。

「絶対来んなよ! サッカーは男のスポーツだっての! スポーツ出来ねぇ女となんか詰まんねぇんだよ!」
「ちょ、何でお前はそういうこと言うんだよ~。あっ、待て待て! 先行くな! あ、そういうことで、ごめんな、みそぎちゃん!」
少女は呆然と立ち尽くした。
その瞳には去って行く聡介だけが見えた。
周りは暗闇。その中へ、彼が溶け込んでいく。
手を伸ばそうとしたが、動かない。
叫ぼうとしたが、声が出ない。
瞬きすら忘れて立ち尽くした。
「…………ぇ?」
蚊の鳴くような声で、少女は疑問符を吐き出す。
「私、みそぎ……だよ? そうす、け……くん?」
少女の言葉は、投げかけられた対象の耳には届かず散った。
「うそ……」
とっくに見えなくなった彼の背中を、未だ目で追い続ける。
見えなくなっても、見えると信じて。
一時の気の迷いが彼をそうさせたのだと、少女は頑なに信じた。
信じて、彼女の時は止まった。
しかし、彼は走ったまま止まらない。

ずっと駆け続けていた少年が、ふと振り返ったのはそれからずっと後だった。
しかし、少女にはそれが十分すぎるほどの果実だった。
日記に少女が登場する、稀な事態が起きたのだから。

6月6日水曜日
やった!やったやったやったやったやったやった!!!!
聡介くんが、聡介くんと私が相合傘!!
やっぱり優しいんだ、聡介くんって。信じてたよ!
今まで寂しかったんだよ?
やっと、やっと戻ってきてくれたんだね。
すっごく心配したんだよ。
私のところにいない聡介くんは聡介くんじゃないんだもん。
傘、忘れてよかったな!
今までのは試練なんだよね?
私と聡介くんの仲を引き裂こうって言う、悪魔の仕業なの。
聡介くんは悪い人たちに変なことばっかり教えられたんだよね?
それでも、私たちは負けないもの。
だって、私たちの絆は運命でつながってるんだもん。
だから、まためぐり合えたんだよね?嬉しい!!
聡介くんも、嬉しいよね?
明日からはもっともっと、たくさんおしゃべりするんだ!
昔みたいに、いっぱい、もっと、たくさん。
約束だよ、約束。
私だけ見てくれる聡介くんに戻って?
毒に侵された聡介くんを、私がキレイにしてあげる。
昔の聡介くんを、取り戻させてあげる。
だから、ね?
私とずっといようね、聡介くん。
いつでも、どこでも、二人で。
二人で、笑おう?
最終更新:2013年03月18日 01:16