卒業式というものがこの桜が丘高校にもやってきていた。
 梓は桜の木の下に立っていた。噴水を囲んで南国風の木がぽつぽつと点在するなか、離れた芝生の
ところにある桜の木は、かっこうの待ち合わせ場所のように使われていた。梓以外にも、手に花束や色
紙を持った生徒たちが頬を赤らめてそわそわしている。およそ、こんなおあつらえ向きなところに呼び出
すなんて、愛の告白でもするのかと思ってしまうところだけれど、その中に自分も混ざっているのかと考
えると、鼓動が高鳴るのを抑えられなかった。実際、花束なら胸の前できつく握りしめている。
「それじゃあ渡すときにくしゃくしゃになっちゃうよ」
 並んで立っている平沢憂に注意されてしまった。
 慌てて持ち替えてみたところ、リボンがよれっと垂れてしまっていた。
「でもでも、お花はきれいなままだからあんまり問題ないと思うよ」
 それほどショックな面持ちになってしまったのだろうか。梓はちょっと悔しい気持ちになった。
 リボンの輪をなんとか楕円形に戻し、包装紙をちょっと指でいじったところで、またすることがなくなった。
そろそろ出てきてもおかしくない時間なのに、校内は以前として静まり返っている。いや、本当は中では、
卒業生としての一種独特の感情が溢れているはずだ。ここからではなにも見つけることができないけれど、
だからこそ、鼻をすすったり、目に涙を浮かべている姿が容易に想像できる。自分ともっとも親しい先輩
たちがそこに含まれていることを想像して、何故か梓まで感慨深くなってくる。
 いくらか待ちぼうけた頃、不意に一つの教室が騒がしくなった。ホームルームが終了したのだ。窓を開
けた卒業生たちが数人、どこか優しい目でこちらを見下ろしてくる。誰かと誰かが抱き合う姿がちらっと見える。
情けなく顧問の名前を呼ぶ声まで聞こえてくる。梓はただ見上げるばかりだ。
 それから堰を切ったように騒がしさが伝染して、次々とホームルームを終えた卒業生たちが窓から身を
乗り出してきた。早くも校門から第一陣が出てきた。気づけば目的の教室もホームルームを終えてしまった
ようだ。姿が見えたら、手を振ってここにいると伝えたほうがいいのだろうか。それとも大人しく待っている
べきか。いよいよ校門から出てきたら、迎えにいってあげるべきだろうか。しかし以前として、彼女たちの
気配を見つけることができない。隣からくすくすという声が聞こえている。
「梓ちゃん。わたし、迎えにいってくるね」
 え? いっちゃうの? と訊こうとしたけれど、喉が動いた頃にはもう小走りの背中を見えるまでになって
いた。
 いよいよ梓は一人で待つことになった。こんな、告白待機場みたいなところに一人きりになるなんて。時折
誰かの視線が向けられると、「あの子あのクチだよ」なんて感想を持たれているみたいで恥ずかしくなった。
誰でもいいから隣に知り合いがいて欲しい。こんな時純がいてくれたら、と願ったが、彼女はジャズ研究会
の友達と一緒に待つつもりだという。
 時間の流れがとてもゆるい。桜の花びらが落ちてくるよりもゆっくりかもしれない。
 記念写真や、きゃーという黄色い声や、抱き合う姿や、泣きながら握手する二人や――次第に周りはそ
れらしいムードに染まっていった。同じように桜の下で待っていた誰かが、お目当ての先輩を見つけたの
か駆けていった。梓はまだぽつんと残されたまま。周囲を見やりながら、「早く来て欲しい」とも「この時間が
永遠に続いて欲しい」とも思ってしまう。別に、これを機にまるきり会えなくなってしまうわけではないけれど、
それでも一つの区切りがつくことに間違いはないのだから。
 どこだろう。まだかな。いっそ探しに――あくせくしている時だった。人ごみの隙間に見慣れた輪郭がくっく
りと姿を現した。かきわけかきわけ、梓に向かってまっすぐ突き進んでくる。大きく手を振って、その手の中
に卒業証書の入った筒を握りしめて。
 やっと二人は面と向かい合った。
「おまたせえ。待った?」
 けっこう待ちました。誰のところに行ってたんですか。そう訊こうとしたけれど……。
「いえ。そんなことないです」
 こんな言い方、さすがの先輩もがっかりするだろうかと思ったら、彼女はにししと笑うばかりだった。梓と同
じ軽音部の先輩である平沢唯は、いつもと変わらないスマイルを浮かべている。
「おおっ。お花がたくさん」
「あ、はい!」はっとして前に差し出す。「ご卒業おめでとうございます」
 彼女は赤子を抱くみたいに大事そうに受け取った。ちょうど胸の前が隠れるくらいの花束。その花束に鼻
を近づけて、今度はくんくんと匂いをかぎだす。
「ん~。いい香り~」
 彼女は本当に美味しそうに匂いを堪能している。梓のわだかまりなど、とても小さな欠片だといってしまえ
そうなものだ。この無邪気さが先輩なんだ。心のどこかで、そう言ってみた。
 はじめても出会いも、部活での日々も、合宿や、ライブや、他にも色んなイベント――全部全部記憶に残って
いる。ぱっと思い浮かべることができる。それらのシーンを連想するたび、はじめに彼女の底抜けの笑顔が飛
び込んでくる。でも一つだけ例外があるとすれば、それは昨年の文化祭の後だ。梓以外の先輩たちは皆、
目に涙を浮かべていた。今日も似たような展開になるのだろうか。それとも、全く逆に……。
「こっちはどうかな~」
 気づくと彼女はすぐ目の前にまで迫っていた。しかもまるで、おでこにキスをあてるような位置に。
 梓はぴくっと震えた。心臓が、それに合わせてとくんと鳴った。まさかこんな公然で、と期待していいのか羞
恥を覚えたほうがいいのか分からなかったけれど、結局いつまでもその瞬間は訪れなかった。視界の隅から、
桜の花びらが一枚二枚流れ落ちていく。
「う~ん。よく分かんないや」
 そう言って彼女は身を引いた。
 なにがよく分からないのか。気になって前髪の辺りをさすってみると、五枚も六枚も桜の花びらが落ちてきた。
これはまさかと思い、今度は力を入れて払ってみると、ちょっとした桜のシャワーが目の前を流れていった。
つまり、梓は頭に花びらが積もっていることに全く気づいてなかったのだ。ちらちらと見られていたり、憂に笑
われたりした原因がまさにこれだった。
 すぐにぶんぶんと首を振って払い落とした。そのせいか顔が少し熱くなった。梓は視線をあげることができず、
ただ制服の裾を握るしかなかった。
「ここのとこ、跳ねちゃってるよ」
 彼女は梓の頭部に手をあてがうと、撫でるように髪を梳いていった。やめて下さいこんなところで。昼休み
の廊下で散々言ってきた言葉だったが、今はたったこれだけの行為にさえ反発することができないでいた。
あやされるように、されるがまま。
 それが終わると彼女は手紙を差し出してきた。まだ梓は下を向いていたので、その手紙がいっぱいに映った。
桜色の封筒だった。受け取って顔をあげたが、またにししと返されるばかりだ。
「あの、これは……」
「お手紙だよっ」
 手紙の裏を見ると『桜高軽音部一同より』という文字が踊っていた。ふたは可愛らしいハートのシールでぴっ
たりと閉じられている。
「あのね、結局新しく入部してくれる子を見つけられなかったから。今年はあずにゃん一人できっと大変だと思
うから、そんな時、この手紙を読んで欲しいなって」
「皆さんで、書いてくれたんですか?」
「そうだよ。つまりこれは未来のあずにゃんへの応援メッセージなのです!」
 それからふんすと威張ってみせる彼女。梓はぼーっとそんな様子を見ていたが、不意にくっと喉の奥が締ま
るのを感じて、萎縮した。
「すいません。本当は、こういうの私から書かなきゃいけないものなのに」
 梓の声は体の震えに従っていた。彼女たちには、なにも思い残すことなく卒業して欲しかったのに、だから
学園祭のときにだって泣かなかったし、今の今まで我慢することができた。なのに、こればっかりは全然だ
めだめだ。
「ほら、泣かないで」
 彼女が抱きしめてくる。真正面同士なんて、今までありそうでほとんどなかった。いつも梓が体を逸らしてし
まうからだ。でもこの時だけは、真っ直ぐに想いを抱きとめることができた。未来への大切な手紙を涙で濡ら
せないんだ、そう言い訳をつけることで。
 およそ二十秒くらい。梓が体の強張りを解くと、同時に彼女の胸も離れていった。梓の顔はくしゃくしゃになっ
ていたけれど、唇だけはきりっと結ばれていた。顔だけじゃなく、心にも一つ堅い芯ができたようだった。
「部室に行きましょう。いいですか?」
「いいけど」彼女はちょっと言い淀んだ。「その前にお手洗いいこっか」
「いいえ。それは大丈夫です」
 梓はにっと笑って続ける。
「この顔のままで、こんなにいい後輩と別れることの辛さを思い知らせてやります」
 彼女もつられて笑った。そして手のひらを出してくれた。
「行こう。あずにゃん」
「はい。唯先輩」
 ぎゅっと握った二人で一人。学校の中庭を、それぞれの別れの隙間をぬって歩いていく。
 泣きたいならときには泣いたほうがいい。だってそのほうが、悔いなく未来に向かっていけると思うから。これ
から先、なにか辛いことがあって涙を流したとしても、この手紙が支え直してくれそうな気がするから。



  • 良いな -- (名無しさん) 2014-02-09 20:00:03
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最終更新:2010年11月26日 06:42