(律澪的なおまけ)
駆け去って行った唯を見送って、その後姿が見えなくなったところでようやく、私は大きくため息をついた。
「まったく……最後に余計なこと言いやがって――あんなこと言われたら、泣くこともできないだろ」
だから、その代わりに私はため息を付く。
まあ、それでよかったとも思う。そういう湿っぽいのは苦手だったし、そうしなくてすんだってことに感謝しないといけないのかもしれない。
それにま、私にはまだやることが残ってるわけだし。
「澪、いるんだろ?いつまでそこに突っ立ってるつもりだよ」
扉の向こうに呼びかける。姿は見えなかったけど、私はそいつがそこにいるってことはわかっていた。
状況証拠ってだけじゃない。まあなんというか、あいつの気配は例え目隠しされていたって感じ取れる自信はあるからな。
「……なんだよ、律」
そして予想通りの涙声。そりゃま、そうなってるよな。
「いいから入ってこいって」
続けてそう言うと、瞬き二つ分の時間を置いて、ようやく澪は音楽室入り口へと姿を現した。
一度こちらに視線をやった後、澪は今唯が走り去っていった方へと目を向けた。
ちがうか、正しくは唯じゃなくて、梓がと言った方が正しいよな。
「梓のやつ、一度も私を見ずに行ったよ。あの瞬間、もう梓の頭には私のことなんて少しも残ってなかったんだろうな」
「だな。でも、それはお前もよくわかってたことだろ?」
それに澪は押し黙る。そしてゆっくりとまた、こちらへ向き直った。
「……お前が余計なことをするからだ」
ほんの少し、恨みがましさをこめた声。だけどその表情は裏腹で、自嘲気味の苦笑を浮かべていた。
遅かれ早かれ、その瞬間が来てしまうことは、澪にもよくわかっていたはずだから。
「それは認めるよ」
私の答えに澪は力なく息をつくと、後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと歩み寄ってきた。
そしてさっきまで唯が座っていた椅子へ、私の向かい側の席へと腰を下ろす。
いつも姿勢正しくを信条としているとしか思えないこいつにしては珍しく、どこか気だるそうに頬杖をついて、澪は虚空へと視線を向けた。
「唯には、悪いことをしたと思ってるよ」
「そーだな」
「梓にも悪いことをしたと思ってる」
「そうかもな」
ぼそぼそと、私に聞こえるか聞こえないかの声量で、澪は呟く。
私はあえてそっけなく、それに対応してみせた。普段の澪なら私がそうするとちゃんと聞けって拳骨の一つでも飛ばすところだけど。
さすがに今はそうしては来ない。その対応こそが自分にはふさわしいと、自覚しているのかもしれない。
まあだからといって、それを責める気なんて少しも無いわけだけど。
だってそれは今更なことだ。そうしたって、何かが変わるわけじゃいし、何かに繋がるわけでもない。
そもそも私にそんなことをできる資格なんて無い。
「律に振られてさ、それでどうかしちゃってたんだと思う」
まあ、つまりはそういうことだ。だから、その原因は私にもある。
振り返れば数ヶ月前。私は澪から思いの丈を告げられた。
そのときの私は、それに応えることができなかった。
何故ならまあ、私もまたその思いの丈とかいう言葉にふさわしい感情をもてあましている最中だったから。
だから、私は受け入れられないと澪に告げた。
馬鹿正直にまあ自分の想いを告げちゃって、それが精一杯の勇気を振り絞った澪への誠意になると思って、それを理由にして澪の告白を断ったってわけだ。
だけど、正直それは澪にとって理由にはできなかったのだと思う。
何故なら、私はその思いが届かないことを知っていたから。
私が思いを向けるそいつが――唯が好きなのは梓だってこと。
梓も、そんな唯のことを憎からず思っていること。
その当人同士は全く気が付いていなかったけど、それは確かに相思相愛とでも言うべき関係だった。
そのことを私はよく知っていたから。そして澪もまた、そのことに気付いていた。
届かなくていい、ただ好きでいられればいい、その傍にいられればいい。
私は一人前に傷ついたつもりでいながら、そんな立ち位置をずっと選んでいた。
そして澪の告白を断ってからも、それを変わることなく続けていた。
それを、澪は許せなかったんだと思う。そんな状況に甘んじている私を。私をそんな状況に追いやって、だけどそんなことなんて知らないよと笑う唯のことを。
だから――
「私は、梓が私を慕ってくれているのも知っていた。だから、私のほうから近付いてやれば、喜んで寄ってくるだろうってこともわかってた」
澪は続ける。まるで、懺悔のように。実際澪はそのつもりだったのだろう。私は神父でもなんでもないんだけどな。
だけどま、それを聞くのは私しかいないだろう。
さらに言えば、私以外のやつにこれを聞かせたくもない。
それはいわば、私たちの罪だ。他の誰にだって背負うことはできないし、背負わせたくも無い。そんなこと、できるはずがない。
「私は唯が梓のことを好きだってことに気付いていたし、そして梓もそれを悪からず思っていたことを知っていた」
「まあ、気付いてないのは本人たちだけ、って感じだったよな」
「律の想いにも、唯は気付いてなかっただろ」
「それは主に私のせいだ。――ったく、自分のことを棚に上げて、よく唯にあんなえらそうなこと言えたもんだよ」
私は自嘲気味に笑う。澪はそれには応えずに、少しだけ俯いた。
「唯には本当に、悪いことをしたと思う」
「そうすれば、唯がどんな思いをするかもわかっていた。それをわかった上で、私はそうしたんだ」
梓との距離を縮め、仲むつまじく振舞い、それを唯に見せ付ける。
もともと梓は澪に好意を向けていることを公言していた。唯もそれを知っていた。
唯と梓は確かにお互い好き合っていたけど、矢印は確かに向け合っているけど、それは重なり合ってはいなかった。
澪のつまり、それを乱す絶好のポジションにいたということになる。
そしてそれを澪は最大限に利用した。梓に近付き、その思いが自分に向けられていると唯に錯覚させ、そしてその思いを自覚させた。
その上で、その振る舞いをし続けた。
つまり、それまでの私と全く同じ状況に唯を追い込んだと言うわけだ。
もちろん、私はそれに気付いていた。だけど、それを止めることはできなかった。
やめるように言っても、澪はそれを聞き入れてはくれなかった。
それに私もまた、もしこれがうまくいけば、ひょっとしたら梓をあきらめざるを得なくなった唯が私の元に来てくれないかと、そんな期待を抱いてしまっていたから。
はっきりと口にはしなかったものの、おそらく澪にもその算段はあったのだろう。
だから私は澪にあまり強く言うこともできず、ただそれを見守る日々を過ごしていた。
つまりは私は傍観者ではなく、もちろん救済者なんかではなく、ただの共犯者と言うことになる。
だからこそ、結局は一番いいと思える方向に、あいつを導くことができたんだけど。
そしてもう一つ、その日々の中で澪には、それをやめられない理由ができていた。
「気付いていたはずだったんだ。だけど、梓に近付けば近付くほど、表向きは私を慕うその目が、本当は誰に向けられているのか思い知らされてた」
「無理やりにでも私のものにしてしまうこともできたけど、私にはそれはできなかった」
その理由とはつまり、そういうことだ。
「――本気になってしまったから、だろ」
慣れない真似をするからだよ、と思った。
それに気付いた瞬間、そう思った。もともとそういうことができるやつじゃないんだ。
だからそういう振りを続けていれば、本当にそうなってしまうかもしれないなんてことは、私が気付いて言ってやるべきだったんだ。
「本当に律は何でも知ってるな」
「何でもじゃねーって。……気付いたことだけだよ」
当たり前の台詞を口にして、私はじっと澪を見る。
そうだ、本当に。気付けなかったことにもし、私が気付けていたとすれば、きっともっとスマートにことは運んでいたかもしれないのにと思ってしまう。
まあ、言えば後悔だ。
すれば、いれば――れば、れば、だ。そんな仮定の話に意味なんて無いってわかってはいるけれど。
「らしくなかったな」
「ああ、本当にらしくなかったよ。律のおかげで振られて、なんかさっぱりした」
「まあ、私も振られたんだけどな。でもさ、そうできたってことに感謝してるよ」
「……そっか、私もだ」
そう、意味なんて無い。つまりは、これが私たちにとって必要なプロセスだったんだろう。
傷つくのも、傷つけるのも、傷つけあったのも、全部きっと必要なことだったんだと思う。
もちろん正しいなんて口が裂けてもいえない。その辛さも痛みも苦しさも、私は知っているから。
だけど、澪が口にしたこの懺悔告白も、言ってみればただの事後報告だ。
この件に関して、あの二人にこれ以上私たちができることは無い。
それをしてしまえば余計でしかなく、まさに蛇足としか言うほかはないから。
それ私たちの罪で、私たちだけで背負わないといけないものだから。
そして、ここしばらくの出来事はとりあえず結末を迎えたということになる。
梓は自分の想いに気が付き、唯はそんな梓の元へと向かった。
そして一人になった澪は今私の傍にいる。
一人になった私は、今澪の傍にいる。
そして私は、それでいいと確かにそう思っていた。
だから、この瞬間になってようやく腑に落ちたものを、そっと拾い上げてみた。
「なあ、澪」
「何だよ、律」
俯いていた顔を上げ、ぽろぽろと落ちる涙を隠すこともしない澪に、私はそれを告げる。
すると、澪は小さく目を見開いて、驚いて見せた。
私としては、一世一代のものなんだから、もっと派手に驚いてくれてもいいのにな。
だけどまあ、それくらいが私たちらしいのかも、とも思う。
そんなことより、早く返事をくれってやつだ。じゃないと、私の頬はどんどん熱くなって、それこそらしくない表情を見せてしまうことになるんだから。
だけど、澪は意地悪なことにそれをじっくりと観察しやがって、結局は私がそれに屈してから、ようやく口を開いてくれた。
「……もっと早く言えよ。バカ律」
そして、ようやくいつもの笑顔を、私に向けてくれた。
そう、そんな結末。
だからまあ結局のところこれはつまりハッピーエンドだったと、そんな言葉で締めるべきだと思った。
(おまけ終わり)
- 最高でした・・すごく綺麗な文章でした! -- (///) 2010-02-07 10:15:15
- 良かった…唯梓も律澪も幸せになれて本当によかった… -- (通りがかりの百合スキー) 2011-01-06 12:39:46
- これでテストがんばれる -- (名無しさん) 2011-01-15 01:34:57
- よかった -- (名無しさん) 2012-09-22 12:59:44
最終更新:2010年02月07日 07:19