「ありがとう、
あずにゃん」
夕暮れに染まる帰り道、私の二歩斜め前を歩いていた唯先輩は、不意にくるっとこちらに振り返るとそんな言葉を口にした。
私はというと、唐突といえばあまりに唐突なその感謝の言葉に目を丸くして、ぴたりと立ち止まってしまう。
唯先輩もその振り返った姿勢のまままた歩き出そうとはしないから、そこには見つめあう私と唯先輩という構図が出来上がっていた。
「えっと……」
どう返したものか判断に困り、私はとりあえず何か間を持たせようと口を開き、そんな返事ともいえない言葉を口にしていた。
唯先輩はそんな私の様子に、おそらくは予想通りだと言いたげな笑顔を浮かべて、くすりと笑って見せた。
なんだろう、からかわれたのかな。一瞬そういう考えが浮かぶものの、唯先輩は確かにふざけたところがある人だけどそれはあくまで客観的な評価であり、そういうからかい方はしてこない人だと思う。
だから、その発言にはちゃんと意味があるのだとは思うけれど、だけど今の私にはそれが何なのかさっぱりわからず、くすくす笑い続ける唯先輩の前で困った顔を浮かべるのみだった。
「
ねえ、あずにゃん」
やがてそのくすくす笑いを止めると、唯先輩は私の名を呼んだ。それを受けて、私は困った顔を何ですかと聞き返す笑顔に変える。
それを向けられた唯先輩は、また一度くすりと笑うと、じっとその笑顔のままの表情で私の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。
「あずにゃんは知らないだろうけどね、あずにゃんが来る前の私はこの道を一人で帰ってたんだよ」
唯先輩はそういうと、少しだけ懐古するようなそんな光を瞳にともした。
それは確かに、唯先輩の言うとおりだと思う。そのときは私はいないし、部活のない憂は先輩より先に家に帰っていただろうから。
だから、そのときの唯先輩はムギ先輩と別れたあと、今は私と二人で歩く道を一人で帰る他はないはずだから。
「だけどね、今はこうしてあずにゃんと二人で帰ってる」
そういうと同時に、唯先輩の眼差しから懐古の色が消える。そしてまた真っ直ぐと私を見つめてくる。
つまりは、そういうことなんだろう。唯先輩が私にありがとう、と言ったその理由は。
「だから、ありがとう、ですか?」
「うんー……まあ、そうなるのかなぁ」
だけど、唯先輩の答えは少しだけ煮え切らないような、そんな形で返ってきた。
それはきっと、ニュアンスがあるということなんだろうけど。だけどつまり、それは大体は正解ということで、ならそれで終わりにしてみてもよかったとは思うけど。
だけど、今日の私はその先を知りたいと思ってしまっていた。
「寂しかったんですか?」
「ううん、そんなことないよ?だって、そのときはそれが当たり前だと思ってたし」
「確かに、そうですね」
質問で会話を続けたその私の意図に、先輩は気付いてくれたのだろうか。唯先輩はうーんと小さくうなりながら、そのニュアンスを探し当てようと考え続けている。
つまり、ということは。私が欲しいと思っていることに、唯先輩もまだ気付いていないということなんだろう。
「実際ね、私もわかんないんだ。何で今あずにゃんにありがとうって言ったのか。そう言おうと思ったのか」
「そうですか」
「ううん、違う。なんていうのかな、わかってるんだけど、それが言葉にできないっていうか……そんな感じ」
「ああ、なんとなくわかります」
返した言葉は、別に先輩に会わせようとか、立てようとかそういう意思を含んだものではなくて、本当に言葉どおりのものだった。
そう言われたときにはじめて気が付いたことだけど。だけど、私にも確かにその理由になるべき何かが存在しているようだったから。
「じゃあ、私も言っておきますね」
「え?」
だから私も、おそらくは先輩にとって唐突といえる言葉を口にしないといけない。
「ありがとうございます、唯先輩」
「え?え?」
唯先輩は私の予想通り、困惑した表情で、それでもどこか嬉しそうな表情を浮かべながら、私の言葉にどういう反応を返せばいいのか戸惑っている。
ああ、きっとさっきの私も先輩から見たらこんな感じだったんだろうなと、私は先ほどの先輩を真似るわけではないけれど、おそらくは同じ仕草でくすりと笑った。
「何であずにゃんまでお礼を言うのさー」
笑われた唯先輩は少しふくれっつらになって、すねた表情。
「わかりません、だけど、いわなきゃって思ったんです。唯先輩と同じですよ」
同じって言葉に、膨れていた唯先輩の頬が元に戻る。そして今度は嬉しそうな顔に変わる。
いつものことながら、ころころと表情の変わる唯先輩はやはりきっと、可愛いというべきなんだろうなと私はそう浮かべてしまう。
「そっかぁ……あずにゃんも同じなのかぁ」
「みたいですね」
こくりと頷いてみせると、唯先輩はふにゃっと笑顔の質を変えた。あ、と私はぴんと来る。
唯先輩がこの形で笑顔を更に緩めるときは、それは。
感極まって、ぎゅうっと私に抱きついてくるその直前の仕草。
「あーずにゃんっ!」
そしてその予想通りに、一瞬後の唯先輩がぎゅうっと、ある程度の人通りのある公道だということに微塵の配慮も見せることなく、私に抱きついてきた。
「きゃっ!も、もう!」
唯先輩のハグにはいつも遠慮がないから、私はいつもその全てを受け止める羽目になる。
ぎゅうっとしがみついてくるその重みと、ぬくもりと、匂いと、柔らかさを。
自分の全てを感じて欲しいって、その代わり私の全てを感じさせて欲しいって、唯先輩のハグはいつもそんな形で私に訪れてくる。
一緒に倒れこんでしまわないように踏ん張って、抱き返しまではしないけどバランスを崩さないように抱きつく先輩の両腕にそっと手を添えて。
そのいつもの体勢で安定させ終えると、いつもの困ったような呆れたようなそんな表情を私は浮かべて見せる。
「こんな往来で抱きつかないでくださいっていつも言ってるじゃないですか」
「だって嬉しいんだもん~」
そんな私の苦言にも、唯先輩は離れる気配はない。これもまたいつものことといえばそうなんだけど。
きっと唯先輩は、私が本気で嫌がっているんじゃないとわかってるんだと思う。それは、唯先輩に抱き締められる事に対して私が浮かべるものは、プラスの方面のものが多いからだけど。
だけど、かといって時間と場所と場面を全く考えなくていいということでもない。私が拒否しきれない分、先輩らしくその辺りはちゃんと考えて欲しいとも思うけど。
唯先輩にそんなこと望めないのはわかってることだし、逆に突然そんな事を口にし始めたら何かあったのかと心配してしまうかもしれない。
「もう、何がそんなに嬉しいんですか」
「あずにゃんが、私と同じ気持ちでいてくれたってこと」
「はあ…もう、少しだけですからね」
それに、実際のところ。
今の私は、先輩が嬉しくて私に抱きつきたいと思ってくれたように。
私も嬉しくて、先輩に抱きしめて欲しいと思っていたから。
だから、今口にしたいつものフレーズは、文字通り表面上だけのことだった。
「あずにゃん」
私の名を呼びながら、きゅうっと先輩の腕が私をより深く抱きしめる。私はバランスを崩してしまわない程度に体の力を抜いて、その動作を受け入れる。
いつもより少しだけ深いハグ。それをしてくれたということは、きっと先輩も私がそうなんだって気が付いてくれたのだろうか。
もしくは、そうしてしまいたくなるほどに、嬉しかったということなのだろうか。
どちらかはわからない。だけど、そのどちらでもきっと私は嬉しいと思っていたと思う。
「私ね、あずにゃんがいてくれてほんとによかったと思うんだ」
私をぎゅっと抱きしめたまま、私の頬をぎゅうっとその暖かな頬に押し付けたまま、先輩は囁くほどの音量で呟く。
私だけにしか聞こえないようにするかのように。私にだけ、その答えを教えようとするように。
「帰り道寂しくないってだけじゃないよ。私、あずにゃんがいてくれたことで、いろんなこともらえたような気がするんだ」
これはきっと、さっきの続き。ありがとうの、その理由。その先に続くものをみつけようと、先輩は一つ一つ言葉をつむぐように、私の耳元で囁いてくれる。
「ギターもうまくなった気がするし、いつもぎゅーっとあずにゃん分補給できるし、私が困ってると助けてくれる」
ぎゅっと抱きしめられているせいでその表情は見えないけれど、きっと先輩は、いつものようにやさしく微笑んでいるんだと思う。
いつも、例え私がどんな状態にあっても、ほわっと暖めてくれるその笑顔を浮かべてくれているんだと思う。
「もちろん、あずにゃんだけじゃなくて、他のみんなにもいっぱい助けてもらってるんだけど……えへへ、私ってこんなだからね」
「でも、なんだろう。今こうして私の隣にあずにゃんがいてくれることが、なんかすごく嬉しくてありがたくて、すごいことだって思っちゃってるんだ」
そういって、先輩はまた強く、ぎゅっと私を抱き締めた。
「それは、私もですよ」
だから私は、まるではじめからそういうことが決まっていたように、そう呟いた。
「え?」
即座にそう返されて、唯先輩はきょとんとした声を上げる。だけど、それは意外でもなんでもない。決まっていたといえば文字通りそういうことになるんだろう。
「唯先輩は知らないでしょうけど、私も唯先輩にはいっぱい助けられてるんです。いろんなもの、もらってるんです」
私のほうも、それは同じことだから。唯先輩がそういってくれるように。だから、つまりは。
「ぎゅーってされて、一緒にギター弾いて、こうして一緒に歩いて。唯先輩と一緒のことみんなみんな、私をほわっとあったかくしてくれるんです」
先ほどと全く同じシチュエーションということ。こうして同じ思いを抱いていたということが、嬉しくて嬉しくて、たまらなくなっている。
だからもう、私の両腕は我慢し切れなくなって、添えるだけだったそれを先輩の背中に回すとぎゅうっと強く、先輩に負けないほどの力を込めて抱きしめていた。
「あずにゃん……?」
先輩の声はまた、きょとんとしたもの。だけど、そう。これもまた意外なことでもなんでもない。
そうするだけの理由が、私にはちゃんとあるんだから。
ああそうだ。きっと私は今こんなに嬉しくなってしまうほどに、きっと。私は先輩のことを――と言うことなんだ。
そしてきっと、私と同じ想いでいてくれる先輩もきっと――そう思っていいんですよね、唯先輩。
「昔の私はきっと想像できなかったでしょうね。こんなに自分が、誰かに――そう、懐いてしまうのは」
「え?な、なつくって私に?」
「そうですよ、いつも私にいうじゃないですか。あずにゃんあずにゃんって。そのとおり猫だったとしたら私はきっと、先輩に懐いてしまってるんです」
そういって、私は甘える猫のように先輩に頭をこすり付ける。先輩はくすぐったそうに小さく笑うと、抱きしめる手の片方を外して、私の頭をなでてくれた。
ように、じゃなくて実際にそうなんだろう。私は甘える子猫。先輩の、先輩だけの可愛い子猫。
その胸に収まって、ごろごろとのどを鳴らし続けているのを、何よりの幸せと思う子猫。
本当は、その先に続けるべき言葉があるけど、だけど今の私たちにはまだそれは届かないものだから。
だからそのときまで、私はこのままで甘え続けようと思う。
さっきまでとは少しだけ、でも確かに短くなったこの距離で。
「あずにゃん~…」
先輩の声が更にとろりと溶解度をまして、さてこれ以上は路上だとまずいなと私の頭は冷静にスイッチを切り替えて、くいっとその体を引き剥がした。
「でもこんなところでのハグはダメです」
「あぅう、あずにゃんのいけずぅ~」
唯先輩は小さく頬を膨らませて、だけどそんなに不満げには見えない眼差しを私に向けてくる。
きっと、私がこうするということをわかっていたのだろう。
「何とでもいってください」
「ぶぅ~」
つんとわざとそっけない仕草を見せる私に、先輩は更に頬を膨らませて見せるけど。
だけど一瞬後、こらえきれなくなって私たちは笑い出していた。
楽しそうに嬉しそうに笑う唯先輩。その声に私の声も重なる。きっと私も、目の前の唯先輩と同じ顔で、同じ声を上げて笑っているんだろう。
「あはは、もう、あずにゃん。笑いすぎだよ」
「先輩だって、ふふふ」
笑いすぎて、目じりに涙が溜まった辺りで、ようやくそれは収まってくれた。
ある意味抱き合っているときよりも周りの視線が気になる状態だったけど、だけど嬉しかったから仕方がない。
それにまあ、日々スキンシップしあいながら帰る二人組とこの辺りの人たちには認識されてそうだし、今更これくらいどうってことないなんて、そんな少し投げやりな思いもあったりする。
それもどうかとおもうけど。
「じゃあ、かえろっか」
まだ少し笑顔にその余韻を残しながら、先輩は言う。
「そうですね、遅くなっちゃいますし」
私が頷くと、先輩はそうだねって言いながらきゅっと私の手をとった。
そしてそのまま歩き出すものだから、私の手はそのままくいっと引かれて、先輩の後に続いて歩き出すことになる。
私の左手は唯先輩の右手に包まれて、じわっと暖かい。それはいつもの唯先輩のぬくもりなんだけど。
あれ?と思う。だってそれは、いつもの
私たちの帰り道にはないものだったから。
「唯先輩?」
「えっとね、なんとなく手を繋ぎたかったんだけど……ダメかな?」
そういわれて、初めて私は今自分たちがその手を繋いでいる状態にあるってことに気が付いた。
唯先輩があまりに自然にそうするものだから、その認識が遅れてしまっていた。
というより客観的な描写より、体感的なものを優先してしまう自分はどうなんだろうと突っ込みを入れざるを得ない。
唯先輩があったかいせいですよ、なんて勝手にその責任を押し付けたりしながら、私は少しだけ頬を染めてこちらに振り返らないまま返答を待ってる唯先輩に、にこりと笑い返してあげた。
「まさか」
そう答えると、ぴくりと繋いだ手が震えて、えへへといつもの柔らかな唯先輩の笑い声が聞こえてきた。
それがなんだか嬉しくて、握られるままだった手にきゅっと力を入れて握り返す。
引かれるまま歩いていた足を一歩踏み出して、唯先輩の隣に並んだ。
「唯先輩、顔にやけてますよ」
横目に見た唯先輩の顔は、だらしなく緩んでいて思わずそういってしまったけど。
「それをいうならあずにゃんもだよ」
なんて即座に返されるほど、私もそうなっているんだろうなとも思っていた。
「そうかもしれませんね」
「そうなんだってば」
そうしてまたいつものような、そんな他愛もない会話を続けながら、私たちは帰路に付く。
今までと少しだけ縮まった距離で。手を繋いだ分だけ、いつもより少しだけ縮まった距離で。
今の私たちにふさわしいだけの距離を置いて、そしてまたいつか、この距離をもっと縮められたらいいなと願うように。
私たちは笑い合っていた。
良いでござるよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww良いでござるよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww -- (名無しさん) 2011-01-04 01:27:11