薄暗い部屋の中、真っ暗な天井が見えた。
顔を少し動かすと、壁にかけた時計が視界に入って、
針に塗られた夜光塗料が今の時刻を私に伝えていた。
「……3時」
時間を呟いて、そこで思考が追いついてきて……
夜中に目を覚ましてしまったことを、私は理解した。
あくびを一つ。同時に喉の渇きを覚えた私は、
お水を飲んでこようとベッドから降りようとした。
でも……
「……あれ?」
パジャマを引っ張られるような抵抗を覚えて、自然と体の動きが止まった。
まだ少し寝惚けている頭で、何か引っかかっているんだろうかと
疑問に思いながら首を巡らせば……
「ぅにゃぁ……」
眠っている唯先輩の姿が、そこにはあった。
私のベッドの上で横向きで眠っている。
めくられた掛け布団の下、伸びた右腕を目で追えば、
しっかりと私のパジャマを掴む右手を見つけることができた。
「えっと……」
無意味な呟きを発し、また一つあくびをして……
唯先輩が今日、私の家に泊まったことをようやく思い出していた。
両親のいない土曜日、ギターの練習のため私の家に来た唯先輩。
珍しく練習に熱中して、気がつけば夜も大分遅くなってしまい……
明日は日曜日だからと、泊まっていくことになったのだった。
最初は私の部屋に布団をひいて、
唯先輩がベッドを、私が布団を使うつもりだったのだけど、
「せっかくのお泊りなんだから一緒に寝ようよ!」
という唯先輩の一言で、同じベッドで眠ることになってしまったのだ。
「……ふにゃ……ぁずにゃ……ん……」
二つ並べた枕の一つに顔を埋めて、幸せそうな表情で眠っている唯先輩。
寝る直前まで大はしゃぎでお喋りしていたのが嘘みたいに、
今は大人しかった。
「……私を離してくれないところは、起きてるときと変わらないですけど」
パジャマを掴んでいる手を見つめて、私は苦笑を浮かべた。
並んで寝ているときもすぐに抱きついてきた唯先輩は、
寝た後もこうしてパジャマを掴んで、私を離してくれようとしない。
それだけ唯先輩に求められていることに、
私はくすぐったいような嬉しさを感じていた。
外で抱きつかれれば恥ずかしく思ってしまうけれど、
唯先輩の真っ直ぐな好意が嫌なわけではもちろんなかった。
「でもやっぱり……」
時と場所は考えて欲しいとも思う。
こうして寝た後も捕まえられていては、
お水も自由に飲みにいけなくなってしまう。
「もうっ、唯先輩は……」
小声で文句を言って、私は唯先輩を起こさないよう気をつけながら、
その手をパジャマから離そうとした。
そっと指に触れ、布地を抜き取ろうとする。でも……
「……抜けない」
思いの外唯先輩の力は強く、
パジャマの布はしっかり握られてしまっていた。
起こさないよう優しく……そんな考えでは、脱出は不可能みたいだった。
このまま眠ってしまおうかとも思ったけれど、
一度意識してしまうと、喉の渇きはどうにも我慢できないもので……
でも無理に手をはずそうとして、
唯先輩を起こしてしまうのも申し訳なくて……
「どうしよう……」
唯先輩の手の平をなんとなく撫でながら、困ったようにそう呟くと、
「……くすっ」
小さな笑い声が聞こえた。私の声ではもちろんない。ということは、
「……唯先輩?」
そう声をかけるけれど、唯先輩は返事をしなかった。
聞き間違いかなと一瞬思ったけれど、
唯先輩の顔を見てみれば、その表情はさっきとは違って、
まるで笑いを堪えているかのように力が入っていて、
「……唯先輩、起きてるんですか?」
そう私が聞くと、
「スースースー」
わざとらしい寝息が返ってきた。明らかに起きていた。
「唯先輩、起きてるんですね?」
「グーグーグー」
「もうっ、唯先輩!」
「……ダメ、寝てるからお返事できない」
重ねた私の言葉に、挙句そんなことを言ってくる唯先輩。
思わずあきれ、私はため息をついてしまった。
「もうっ、唯先輩。起きてるのなら、手を離して下さいよ」
「ダメだよ
あずにゃん、私眠っちゃってるもん。だから無理なのです」
「……しっかりお話できてるじゃないですか」
唯先輩の態度にあきれ、喉の渇きにちょっとムッとしてしまい……
二つが合わさって、珍しくも悪戯心が私の心に生まれていた。
「そうですか……唯先輩は寝てるんですね?」
「うん、もうぐっすり寝てるよ」
「そうですか、ぐっすり寝てるんですね……」
そう言いながら、私は人差し指を唯先輩の手の甲に近づけ、
肌に触れるか触れないかという位置でそっと動かした。
「ひゃっ」
そのくすぐったさに、唯先輩が小さな悲鳴を上げた。その声に私は笑って、
「ダメですよ、唯先輩。眠っているんですから、そんな声出しちゃ」
言って、また指を動かす。それにあわせて悲鳴を上げる唯先輩。
「そんな声出しちゃダメですってば、唯先輩は寝てるんですから」
ちょっといじめるようにそう言って、
私は身を乗り出し、今度は指を首筋に這わせる。
「ひゃうっ、あ、あずにゃん、ダメっ……」
途端、体をびくんと震わせる唯先輩。
ベッドの隅に逃げようとするその体を抑えて、繰り返し首筋を撫で、
更にはパジャマの下にまで手を入れようとしながら、
「逃げちゃダメですよ、唯先輩。だって寝てるんですから」
私がそう言うと、
「降参! あずにゃん、降参!」
慌てて唯先輩が体を起こして、半ば叫ぶようにそう言っていた。
必死なその態度が面白くて、私はつい笑ってしまっていた。
「うぅ……あずにゃんひどい。いじめっ子ぉ」
「最初にふざけたのは唯先輩じゃないですか」
そう言いながら、
私はまだパジャマを掴んでいた唯先輩の手をそっと離して、
ベッドから降りた。
「……だって、あずにゃんが私を置いて、どっか行こうとしてたんだもん」
「ちょっとお水を飲んでこようとしただけですよ」
「ぶー、それでもダメだもん。
せっかくのお泊りなんだから、朝まで二人で寝なきゃダメっ」
拗ねたようにそんなことを言う唯先輩。
いつも以上に子供っぽいのは、ちょっと寝惚けているためだろうか。
私のさっきの悪戯も、まだちゃんと目が覚めていないからできたことだろう。
朝ちゃんと起きたら、思い出して恥ずかしい思いをしそうだった。
「……あずにゃん、早く帰ってきてね?」
部屋を出ようとする私に、唯先輩がそう声をかけてくる。
枕を両腕で抱きしめ、ベッドの上に座っている唯先輩は、
ほんとに甘えんぼの子供みたいだった。
「はい、すぐ戻ってきますね」
くすっと笑って、私は部屋を出た。
台所からミネラルウォーターのペットボトルとグラスを二つ持って、
私は部屋に戻った。ベッドに座ったままの唯先輩にグラスを一つ渡し、
「唯先輩も飲みますよね?」
と言う。唯先輩は笑って、
「ありがと、あずにゃん」
グラスを両手で受け取った。
ペットボトルをあけ、唯先輩のグラスに水を注ぎ、
続けて私のグラスにも水を注ぐ。
ペットボトルをテーブルに置いて、
ベッドに腰をかけて、私は水を一口飲んだ。
冷たい水が喉を通り過ぎて、ようやく渇きが癒された。
「お水、美味しいね」
「……そうですね」
唯先輩に返事をして、もう一口水を飲んで、ほっと息を吐いた矢先、
「えいっ!」
「にゃっ!」
首筋に冷たいものを感じて、私は悲鳴を上げていた。
なにが起きたのかは考えるまでもなかった。
唯先輩が水の入ったグラスを、私の首にくっつけたのだ。
「も、もうっ、唯先輩!」
「エヘヘ……さっきの仕返しです!」
笑いながら言って、唯先輩が突然抱きついてきた。
「あ、危ないですよ、唯先輩!」
「だってぇ、あずにゃんが離れていた分、
あずにゃん分足りなくなっちゃったんだもんっ」
「ダメですってば、唯先輩! お水こぼれちゃいます!」
「エヘヘ……あ~ずにゃんっ」
ベッドの端で揉み合って、
並んで腰掛ける形で落ち着くまで、
お水がこぼれなかったのは奇跡だった。
「もう……ほんとに唯先輩はしょうがないんですから……」
私の文句に、唯先輩は「エヘヘ」といつもの笑いを浮かべる。
片手は私の手をしっかりと握っていた。
手の平をあわせる恋人繋ぎ。抱きつく代わりの唯先輩のご希望で……
これなら抱きつかれた方がまだ恥ずかしくなかったかな、と思ってしまう。
昼間だったら、たとえ部屋の中であったとしても断っていただろう。
まったく何をしているんだろうと、そんなことも思ってしまった。
真夜中に、二人でベッドの端に腰掛けて、
恋人繋ぎで手を握って、一緒にお水を飲んでいる。
どこか間が抜けているようにも思えて……
でもなんとなく、私と唯先輩らしいかななんて風にも思ってしまった。
「ねぇあずにゃん、明日はなにしよっか!」
隣に座った唯先輩の言葉に、私は壁の時計を見た。
夜光塗料は3時半の形になっている。
「明日」というよりも、もう既に日曜日は「今日」で……
こんな時間に起きてお喋りをしていたら、
きっと朝早く起きることなんてできないだろう。
昼頃までズルズルと寝てしまい、結局一日部屋で、
なにをするでもなくダラダラ過ごしてしまうことになるかもしれない。
それも悪くないかななんて私は思ってしまって、
そう言ったら唯先輩は笑って喜ぶだろうけれど……
それで喜ばれるのもやっぱりちょっと悔しいから、
「決まってます、もちろん練習です!」
力強く、私はそう言っていた。私の言葉に、
「えぇ~」という唯先輩のちょっと情けない返事が返ってくる。
部屋に響いたその声に、私は小さく笑って、また一口、お水を飲んだ。
冷たいお水と、手の平のぬくもりが心地よかった。
END
- こういう雰囲気大好きだわ -- (名無しさん) 2020-07-10 01:07:32
最終更新:2010年06月23日 22:51