「
あずにゃん!」
身を翻し、とにかくその場から逃げ出そうとした私を、何かがぎゅっと捕まえた。
考えるまでもなくわかる。この暖かさも、柔らかさも、匂いも、私をふわりとさせるこの全ての要素は、それが唯先輩であることを示している。
―駄目です、先輩。こんな私なんかに触れちゃいけないんです。先輩は優しいから、こんな私でも許してくれようとするんでしょうけど。
―私はこんなにも汚いから、それが先輩を汚してしまうのが嫌なんです。さっきだって、私は―!
私は、とにかく先輩から逃れようと、ばたばた暴れた。そのつもりは無かったけど、何回かぶつような形にもなってしまったと思う。
だけど、先輩は私を離さなかった。それどころか、ぎゅっと力を込めると。ぐいっと私の体を引き倒す。
体格で劣る私は、それから逃れることが出来ず、どさりと倒れこんだ。ふかふかのクッションで怪我はないけど、衝撃に一瞬だけ動きが止まってしまう。
それでも何とかもがき続けようと、急いで取り戻した視界に映ったのは、それを埋め尽くそうとする先輩の顔だった。
「え…?」
一瞬後、唇に生まれた感触は、さっきとまるで同じもので―それでいて決定的に違う何かで。
それを私はどう理解すればいいのだろう。
混乱した頭は、体の制御を忘れ、もがこうとしていた私の腕はパタリとクッションの上に落ちる。
それをぎゅっと先輩の腕が掴んだ。私が逃げられないように、逃げてしまわないようにと。
―そこでようやく、私はこのシーンが先程の焼き直しだということに気が付いた。ただ違うのは、組み敷いているのが唯先輩で、組み敷かれているのが私ということ。
「…んぅ…っ」
そして、先輩は私のように直後身を離してなんてくれなかったということ。つかんだ腕も、あわせた体も、重ねた唇も、離してくれる気配すらない。
伝えられるのは、いつも感じている柔らかくて暖かくて優しい先輩。
ただ、それはいつもよりずっと熱くて、それが私の思考をとろとろに溶かしてしまうまで、先輩は許してくれなかった。
「…は…ぅ」
へなり、と私の体から力が抜ける。まるで糸を抜かれた操り人形のように、体に力が入らない。そのくせに、感覚だけはやたら鋭敏で。
ただひたすらに唯先輩のことを感じていようと、その方向だけに意識が開かれているようだった。
そこでようやく、先輩は私の唇を解放してくれた。少し距離が開いて、初めて読み取れた表情は、今まで見たこともないほど優しく暖かな笑顔だった。
それが、きゅっと私を抱きしめる。
「…ごめんね、あずにゃん」
「な、なんで…」
先輩が謝るんですか、とは言わせてもらえなかった。
再び合わせられた唇を離すと、先輩はすまなそうな笑みを浮かべる。
「…私ね、あずにゃんの気持ち、気が付いてたんだ」
「え…?」
思いもよらなかった言葉に、私はきょとんとさせられる。
「でもね、怖かったんだ。それを信じて踏み込んでいいのかって。だって、もしそれが間違ってたら…きっとあずにゃんは私を嫌いになっちゃうから」
「唯先輩…それは」
先輩の声に混じるのは、明らかな謝罪の意。だけど、私はそれよりも、それが意味するところのほうに気を取られていた。
それはつまり、唯先輩のほうも私の方を―そう思ってくれてたということでいいんですよね。
「でも、それがあずにゃんをずっと傷付けていたんだね…ごめんね、私…私がもっとしっかりしてたら、あずにゃんを泣かせたりしなかったのに」
そういうと、唯先輩はじわりと目じりに涙を浮かばせた。
私は慌てて手を伸ばすと、そうっとそれを拭い取る。先輩が泣くことなんてない。
だって本当にそうだったとしたら、踏み出せなかったのは先輩だけじゃない。待っているだけの私もそうだったんだから。
「あずにゃん…?」
それに、今するべきは謝りあうこととかそんなのじゃなくて。
「先輩、聞いて欲しいことがあるんです…こんなことして、本当に今更なんですけど」
きっと、今ようやく形になったそれを、ちゃんと言葉にして伝えることだと思うから。
「…うん、聞かせて」
私の上で、先輩がきゅっと表情を引き締める。
その腕は私を抱きしめたままで、私の腕もまた、先輩の背中に回されていて。
お互いの顔は触れ合ってしまうほどの距離。実際、何度か触れ合った唇は疼くような熱を帯びていて。
―本当にこんな状態で、何を今更という感じですけど。
くすりと一度小さく笑みを浮かべる。それに釣られて、先輩がにこりと笑みを浮かべたそのときに。
私に触れる全て、それが私の中に生み出すもの、その全ての思いをこめて、その言葉を小さく囁いた。