最近、唯先輩に抱きつかれていないな、と思う。

完全になくなったわけじゃない。それでも、
以前に比べて格段にその頻度は落ちていた。

それでも別に、だからどうってわけでもない。
もちろん、どうしたのかなとか、そんなことはちょっとは思う。
だけどそれは、日常化していたものが突然なくなったわけだから、
そういう意味では当然の感情なわけで。

だから私は特に唯先輩に理由を聞くこともなく、
ただ、唯先輩も大人になったんだな、とか、
漠然とそんな風に考えていた。


「さむいねえ、あずにゃん

いつもの分かれ道を越えて、唯先輩と二人で歩く。

「冬ですからね」

コートもマフラーも手放せない、そんな季節。
雪が降っていないのがせめてもの救いだ。

「朝だってなかなかおふとんから出られないよね」
「わあ、その光景、すごく想像できます。結局憂におこしてもらうとこまで」
「えっへへー」
「なに赤くなってるんですか」

褒めてないですから。

「いやいや、あずにゃんってば私のことよく分かってるなあって」
「いえ、たぶん、唯先輩を知ってる方なら誰でも想像つくと思います」
「えーそーかなー?」
「そーです」

たぶん、トンちゃんだって分かることです。

「そういえば、唯先輩のおうちっておコタありますよね」
「おコタ! 言い方がかわいいね、あずにゃん!」
「いや、そこはスルーしましょうよ」

どこに反応してるんですか。

「うん、あるけど、どしたの?」
「きっと唯先輩のことだから、冬場はいりびたってるんだろうなあと思いまして」
「自慢じゃないけど、家ではコタツムリです!」

ほんとに自慢じゃないです!

「もうその光景も、ありありと想像できるんですよね。
テレビ見ながら、いつのまにか寝ちゃったりとか」
「えー、でもそれはあずにゃんだってやるでしょー」
「う、たしかにそうですけど……」
「コタツに入りながら食べるアイスもまたいいんだよねー」
「あ、それは分かる気がします。なんでしょうね、冬でもアイス食べたくなるの」
「アイスはゴイス!」
「新曲のタイトルですか?」
「そう! あ、私はMOWも好きだよー」
「何のはなしですか、もう」
「あずにゃんもMOW派だね!」

あ、掛けたのに気づいてくれた。ちょっと嬉しい。

「んでも、一回コタツがなくなっちゃう危機があったんだー」
「へえ、壊れちゃったとかですか?」
「んーん、あれあんまりにも気持ちよくっていりびたっちゃうからさあ、
いったん入っちゃうとなんにもできなくなっちゃって。
それでコタツ禁止令が出たんだよー」
「うわあ」

なんか理由が駄目すぎる。

「しかも、たぶん禁止令を出したのは憂ですよね。唯先輩がそんなことできるわけないですから」
「いやいやあずにゃん。まあ、それは間違ってないんだけどさ」

やっぱりですか。

「でも、憂だってよくいりびたってたんだよ。
いっしょにいつの間にか寝ちゃってたことも何度もあったし」
「へえ、何だか意外ですね」
「実は似たもの同士なのが平沢姉妹なのです!」

いや、そんなどやって顔されても!
あとごめん憂、駄目とか言って。

「でも、そこで自分から禁止令を出せるのがさすが憂ですね」
「そだね、私はさんざんぐずったけどね、『おコタ』禁止するの」
「すみません、さっきの似たもの同士発言を撤回して下さい」

しかも『おコタ』って言ったこの人。今更。
スルーするけど。

「一時間くらいかけて説得したかなあ。そしたら憂、許してくれて」
「説得っていうか、たぶん、だだこねてたたけですよね。憂もとことん唯先輩に甘いなあ」
「でもそれがあって、今のおコ太がいるのです!」
「おコ太!?」
「今名づけました!」

そんな、たわいもない会話を続けていく。
唯先輩といると、いつのまにか先輩のペースに巻き込まれる。
それがいつからか私は、とても楽しい。

「あったかいといえばね、この前憂が取ってきたおっきいくまちゃん」
「あー、あのゲームセンターのやつですね。
純が二千円くらいかけて取れなかったやつを、憂が一回で取っちゃった、あれ」

あのときばかりはちょっと純がかわいそうだったなあ。
憂も純にゆずってあげようとしたんだけど、「くやしくないもん!!」とか言って、
結局憂が持ち帰ることになったんだっけ。

「そうそう、あれも、ぎゅって抱きつくと、あったかいんだあ」

――あ、チャンスかも。

私はこの流れで、最近スキンシップが少ないことについて
話題が振れるなと思い立つ。
そこまで気になっていたわけではなかったけれど、
この機会に聞いておくのもいいなと思ったのだ。

「そういえば、最近、あれですよね」

でも、いざ振ろうとすると、ちょっと恥ずかしい。
だってなんだか、スキンシップを楽しみにしていたみたいな、
そんな風に思われてしまうことを聞こうとしているからだ。

「なあに?」

うう。えーい、もう聞いてやる!

「あの、最近、抱きつきが少なくなったかなーって……」

わーわー! はずい、恥ずかしい!
あー、絶対からかわれる。にやにやしながら、いじられる!!

……そう思っていたのに。

唯先輩は黙ったまま、すこしだけ寂しそうな表情を浮かべている。
足取りは止まり、私たちは小さな路地に、二人きりで立ち尽くす。

「えへへ……、うん、ちょっと少なくしないとなって思って」

そう言う声は、さっきまでの、いつもの明るい唯先輩のものじゃない。
まるで、気づかれたくなかったことに気づかれたみたいな、そんなばつの悪そうな声。

がらっと、空気が変わってしまったのを感じた。
数秒前の緩やかなそれは、冬の冷たい風にさらわれて、どこかに行ってしまった。

怖い。その先の唯先輩の声を聞くことが。
抱きつかなくなった理由を知ることが怖い。
でも、聞かなくてはいけない。そんな奇妙な感覚に突き動かされ、
私は声を振り絞る。

「……どうして、ですか」

唯先輩の視線が動く。中空をさまよい、こちらを見ることを迷っている。
私はそんな唯先輩の目元から、目を離せない。
途端に、全身に寒気が走る。体が震える。
不安でたまらない。
言ってほしい。けれど、言ってほしくない。
もどかしい思いが交錯する。
きっと、唯先輩がいうことは、これからの私たちを決定的に変える何かだと、
私はそんな予感を巡らせていた。

時間にして数秒、感覚にして数分にも思える時間が過ぎ、
ついに唯先輩から、その言葉が紡がれる。

「もう、私たちは卒業だからさ。そしたら、あずにゃんとも会えなくなっちゃうから、
ちょっとずつ、離れていかないといけないから……」

ぐさり、とガラスの破片で心臓を貫かれたような痛みが走る。
身動きが取れなくなるほどの力で胸が締め付けられる。
苦しくてたまらない。呼吸がうまく出来ない。
世界が作り物になったかのような感覚に陥る。

なんで。

なんでそんなに悲しそうな顔をして言うんですか。
なんでそんなに震えた声で言うんですか。

私は何よりもそれが悔しくて、許せなくて、わめき散らす。

「そんなの……理由になりません!! 卒業したっていつでも会えます!!
なんでそんなこと言うんですか……なんで、は、はなれるなんでっ……」

声が揺らぐ。涙が溢れてくるのが分かる。
私は抑えきれない感情をぶつけるように、唯先輩の後ろに手を回し、コートに顔を押し付ける。

「ほんとは、そんなこと思ってないくせにっ!! ひとりだけ、大人になったつ、つもりですか、
だっだら、うっく、もっと、もっと安心させてぐだざいよ!! そんな声や、顔されて、
な、納得できるわげっ、ひぐっ、ないです!!」

激情が飛散する。堪えられない。
体が凍える。
いつもなら私を包んでくれるはずの手が、今はない。

「あずにゃん……」

先輩は頼りない声で私の名を呼び、それはすぐに寒空に消えて行く。
ちがうよ唯先輩。今私がほしいもの、分かってるくせに。

「わあああああっ……!! もう、やだよっ……えぐっ、」

どうしてこんな気持ちにならないといけないんだろう。
時間はあまりにも残酷で、私たちの間に、決して超えることの出来ない、
絶望的な溝を作り出す。

あと一年私が生まれてくるのが早かったら。
あと一年唯先輩が生まれてくるのが遅かったら。
こんなに張り裂けそうな胸の痛みはなかったのだろうか。

けれどそのときはきっと、私たちはこんな関係になれない。
私の望む、私の経験した幸福は、絶対に手に入らない。

「ごめんね」
「……あやまらないでくださいよ」
「……ごめん」
「ひどいです……」

私たちは、大人になる準備をしなくてはならない。
唯先輩はそれを理解して、大人になろうとしている。
けれど子供の私には、それが分からない。
自分に嘘をついてまで、大人になることが大事なのかが。

「……抱きしめてください」

唯先輩は何も言わない。
何もしてくれない。
ここで私の言うとおりにしてしまったら、
今までが無駄になってしまうとか、
きっと、そんなことを考えている。
私はそんな唯先輩に失望して、落胆して、幻滅して、
悲しくって、やりきれなくて、痛くって、
また、涙を溢れさせる。

「おね、がいですっ、ゆいぜんばいっ……」

いつもみたいにしてください。
あずにゃんって、あなただけしかしない私の呼び名で呼んで、
私をあたためてください。

ふわり、と私の背に優しい感触がする。
少しだけ抱き寄せられる。
以前とはまったく違う温もり。
それを感じて、私は悟る。
私たちは、変わらなくてはならない。

唯先輩は、大人になってはいなかった。
けれど、大人になろうとしていた。

離れるとか、離れないとか。
会えるとか、会えないとか。
その言葉は、今に縛られている。

私たちは、今に甘えてはいけない。
きっと私たちは春が来たって何度も会う。
いっしょにどこかへ行くことだってあるだろう。
けれど、そうじゃない。
また会えるから。
その理由だけで、今と同じ時間を延長させてはならない。
時間はあまりにも残酷な提案を私たちに押し付ける。
私たちはそれを受け入れ、飲み込んで、前に進んでいく。

震える手をほどくと、唯先輩も同じようにする。
顔を見る。涙の跡はない。
私は顔をぬぐい、先輩の頬へ手の伸ばす。引き寄せる。
口元に、柔らかな感覚が伝わる。
心の奥底でくすぶっていたものが晴れていき、
代わりに、私の一番好きな感情が沸き上がる。

口を離す。私は何かを言おうとして、ためらい、視線をそらす。
今はまだ、言えそうにない。

「……また明日っ」

唯先輩がどんな顔をしていたかも分からないまま、私は駆け出していく。
沸き上がる感情の任せるままに。

それが導く先も知らないままに。


  • 続きが気になる… -- (名無しさん) 2010-12-11 22:01:41
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最終更新:2010年09月09日 13:02