「今日からは‥‥さ。」
今まさに眠りにつこうとしているその時,奏はぼそっと口にした。
後ろめたいことがあるのか,雪乃と目を合わそうとはしなかった。
いつも通りののんきな素振りで雪乃は着替えを進めながら,
意地っ張りな奏を楽しそうに眺めていた。
居心地の悪かった時間は,今日でサヨナラ。
ちょっとした行き違いから生まれた気持ちのズレは,今日,思いがけなく修正された。
誰もいない廊下で,立ち止まって優しく微笑む雪乃の姿が今でも奏の胸に焼き付いている。
いつになく真剣な雪乃の告白,そしてわだかまっていた自分の心。
お互いを思う気持ちを確かめ合っただけなのに,ただそれだけで癒されるのだと,
それだけで十分なのだと気づかされた瞬間だった。
誤解のきっかけは雪乃がお菓子につられたこと。
(‥‥それ以外も多くあるが,奏で的には省略。)
いつものようにつまみがいのあるほっぺたを奏が引っ張ってけりがついたかに見えた。
何事もないように普段通りの帰路につく二人。
久しぶりに手を繋いで帰えることが,なんだかとても新鮮だった。
二人で一緒に部屋に入るその一歩が,とても幸せだった。
いつも一緒にいた。そしてこれからもずっと一緒。もう二度と離さない。
奏にとって,二人がいるその何気ない時間がとても愛おしく感じたのだった。
ぼそぼそと奏が語りかけているのに,その声は雪乃には届いていなかったようだ。
返事のない雪乃に問いかけるかのように奏が雪乃に視線を向けると,
雪乃は小さく欠伸をしながら,二段ベッドの天段に向かう梯子に手をかけていた。
「あ~~!!ちょっと!ちょっと!ゆきちゃん,待って待って!!」
奏はあわてて雪乃に駆け寄る。
しかし,これまでの奏を知ってか知らぬか,雪乃は何事もない風で首をかしげている。
「ん~~?なぁに~~?」
「いや,だってさ‥‥。雪ちゃん‥‥上行くの?」
「一緒に寝るのやめようって言ったのは,奏さんですよ~?」
「‥‥‥だって‥‥‥ブツブツ。」
喉まで出かかっている言葉を,奏は言えないでいた。
ごくっとつばを飲み込むが,一向に問題は解消されず変な間が続くだけだった。
雪乃の散々な対応に奏の顔は引き攣っている。
「おぉ!?」
小首を傾げながらぽんと手を打つと,雪乃は思いついたように奏に言った。
「でもね,かなちゃん。私はね,かなちゃんと一緒に寝たいなぁ~って思ってるのよ?」
「ええっ?!」
思う通りに言葉にできない奏は仏頂面をしていたが,
雪乃のその言葉を聞いてその表情はぱぁっと明るくなった。
なんでなんでと,子犬のような瞳をして奏は雪乃に詰め寄る。
「だって~,かなちゃんの足,ぬくぬくなんだも~ん。」
「‥‥‥‥靴下穿きなよ,雪姉。」
がっくりと肩を落として雪乃に背を向ける奏であった。
くすっと微笑み,温もりを感じさせるほどの優しさが込められた雪乃の視線は,
寂しそうな奏の背に向けられていた。
「‥‥ほんとはね。」
力ない奏の背中に雪乃は優しく語りかける。
「大好きなかなちゃんを抱き枕にして,お休みしたいなって思ってるんだよ。かなちゃん。」
「ゆきちゃん‥‥。」
柔らかな雪乃の笑顔は奏を包み込む。
奏は振り返って雪乃を見る。
すると,雪乃の手には,カナ印のまるまるバナナが握られていた。
「さて,かなちゃんは何が言いたかったんですかぁ?正直に言わないと‥‥。」
「言わないと?」
「まるまるバナナの命はないぞぉ~!」
と雪乃はおいしそうに口に頬張るジェスチャーをして見せた。
冗談そうに見えるこの仕草だが,
奏が大切に用意しておいたまるまるバナナが本人の知ることなく
消息を絶っていることは一度や二度ではなかった。
「あ~~!!ちょっと!雪ちゃん,待って!それ最後の一個なんだからっ!」
「じゃ・あ・ね?」
「はい‥‥あたしの負けです。」
しぶしぶというか,やけっぱちというか,雪乃の誘導尋問に乗る形で奏の口上が続いた。
「また‥‥さ‥‥前みたいに‥‥一緒に‥‥寝よ‥‥ゆきちゃん‥‥。」
真っ赤に照れた奏に満足したのか,雪乃はバナナを近くに置くと,
奏の手を取って嬉しそうにはしゃいだ。
「はい。よくできまし‥‥た!」
雪乃はそのまま,奏でを引っ張りベッドに倒れ込んだ。
いきなりのことでバランスを崩した奏は,雪乃に覆いかぶさるように倒れこむ。
「もぅ,あぶないじゃなっ‥‥‥。」
「ねぇ‥‥私のこと好き?」
はにかんだ雪乃が奏に問いかける。
「‥‥うん‥‥大好き。」
「私もね‥‥かなちゃんのこと‥大好きだよ。」
優しくはにかむ奏の頬を包み込むように雪乃の手が触れた。
「チューしてくれる?」
「え゛?!」
「子供のころは黙ってしてたくせに。」
小悪魔的な雪乃の微笑みに,敢え無く屈した奏は仕方なく雪乃のおでこに軽くキスした。
「‥‥おでこ?」
「しっ‥‥したからね。おやすみ‥‥ゆきちゃん。」
きゅっと手を握り締め,奏では雪乃にお休みを告げる。
雪乃は奏の唇の触れたおでこに軽く触れて,嬉しそうに言う。
「ふふふ‥‥おやすみ‥‥かなちゃん。」
握られた奏の手を雪乃も握り締めて自分も眠りにつく。
二人の温もりが行き交う。
ずっと‥‥ずっと一緒だった。生まれたときからずっと‥‥。
初めて離れた二人の距離は予想以上に遠く,そして堪らなく切なかった。
もう二度と離したくない‥‥絶対に離さない‥‥。
固く握られた手が,二人を繋ぐ。
眠れない夜はもう来ない。今日,やっと取り戻した安らぎために‥‥。
寝付いてすぐに穏やかな寝息を響かせる奏を雪乃は薄目を開けて確認する。
寝起きの良い奏は寝付きも極めてよかった。
もぞもぞと雪乃が動いたかと思うと,奏に向けて小さくつぶやく。
「私が一番かなちゃんのこと好きなんだからね。」
ゆきちゃんと寝言を言う奏の唇にそっと雪乃は唇を寄せる。
触れるだけのキスはその思いだけを伝えた。
夢の中の奏はそれを知ることもなく,二人は久しぶりの安らかな眠りについた。
<追伸>
翌日,奏が楽しみにしていたまるまるバナナが忽然と姿を消していたことは,また別のお話。