変身-Polymorph Loop Junction-
――アリス・マーガトロイドは、ある日目が覚めると
ゆっくりになっている自分に気がついた――
人間は、自分が人間であることを無意識に自覚しているものなのだ……そんな感慨に打たれた。
同じように、無意識に自分がゆっくりであることを自覚したのだから。
人間ではないという不可解な状況を、受け容れることができたのだから。
「な……」
状況を確認する。場所は普段の寝室。目を覚ます以前の記憶は
なかった。
おかしい。過去の記憶はすっぽりと抜け落ちている。
「うそ…なんで…」
身じろぎするたび、ぷるぷると震える自らの体。そのおぞましさに戦慄する。
「あ゛あ゛あ゛うぞお゛お゛おうう!?」
奇妙な生き物。奇妙な生き物。奇妙な生き物。
蔑まれ、なじられ、捕食され、いわれなくなぶられ殺されるその奇妙な愚鈍な生き物が自分であるという直観。
「……っ!!」
身を震わせる。ぼよん、と柔らかな体はベッドから転がり落ちる。落下し、地面のざらりとした感触、わずかな土、埃のにおいに彼女――ゆっくりアリスは再度悲鳴をあげた。
「あ゛あ゛あ゛いやあ゛あ゛あ゛!!ぅぅうを゛え゛え゛……っ!」
自分の――まぎれもなく自分の臓物とわかる黄色い内容物が、胡乱な造形の口から吹き出る。とっさに口を押さえようとも手がない。
誰よりもしなやかに動き、自らの意思を具現する、なにより自分が自分を自分で自分の――手がない。
「う゛も゛ぉぉう゛う゛い゛や゛あ゛あ゛あ!!!!!!」
吐瀉物にまみれ、気を失わんばかりのショックに打ちひしがれながらむせび鳴くゆっくりアリスに、遠くから接近する気配があった。
大地に直接体で触れているために、その微かな足音に気づいたのだ。
もとより自分を訪問する客など数えるほどしかいない。
「ゆ゛く゛っ、ゆ゛っ…」
悪夢のような現状であっても、さらなる底辺は存在する。
もし、こんな姿を誰かに見られたなら。
その恐ろしい想像は、実現回避のための思考を立ち上げる。ゆっくりアリスはその身を隠そうと辺りを見回した。が、のろのろと飛び跳ねて物陰に隠れるより先に足音が家の前に着く。
「おーい、アリス」
案の定足音の主は魔理沙だった。
「この前、大声で呼ばれるのがウザいから勝手に入ってきなさいって言ってたからな…お邪魔させてもらうぜ」
「ゆ゛っ!!」
「……というわけなんだぜ」
ゆっくりアリスは理由のない激しい自己嫌悪と恥辱とに身を震わせながら、図書館へと連れて来られていた。
「そう、これが……」
興味深げに見下ろしてくるパチュリーの視線を避ける術すら、ゆっくりである自分は持ち合わせていない。
「(こいつ……!こいつ……!こいつ……!この私を……あの汚らわしい生き物と同列視してる……っ!!)」
しかし、無尽なる蔵書の智恵と大魔法使いの助力は、この不可解な現象を解明する最高の解答となりえるだろう。
今一時の辱めなど、何ほどのことがあろうか。
「――だけどこれ、普通にゆっくりしているんだけど」
びくっ!!おぞましい揺れで我に返る。
ほとんど無我の境地にあって、ゆっくりアリスはそれが”ゆっくり”行為だったなどと認識していない。しかし紛れもなく、パチュリーの指摘は公正な視点からのものだ。
…自分が…ゆっくりしていた……?
記憶を探ってみても、その時間はすとんと抜け落ちている。しかし、どことなくあたたかく、やすらかな時間をすごしていたような気もする。
「あなた、本当にアリスなの?」
「あ、あ、あ、あたりまえでしょっ!!ゆっくりなんかじゃないわ!とかいはのありすよ!!ゆっくりていせいしてね!!」
三者の間に微妙な空気が流れた。
「可愛いな…こいつ…そしてなんか違う感情がふつふつと沸いてきてるんだけど…」
「私もよ……そして今の発言、どう見ても……」
ゆっくりアリスは、たった今自分の口から出た言葉が信じられなかった。
まさか、心が平静を保つためにわけのわからない諧謔を試みたのだろうか。
よりにもよって本物のゆっくりの真似だなんて、吐き気がする。
「わたしはありす!わたしはありすなの!!ゆっくりしんようしてね!!」
最早、二人から降り注ぐ視線は懐疑に満ち満ちている。自尊心をずたずたに引き裂かれ、それでもゆっくりアリスは可能な限りの弁解を試みる。
「まちなさいよ!そんなめでみるのはゆっくりやめてね!いましょうめいするから!」
いつの間にか、二人はゆっくりアリスから一歩引いた位置にいる。
さて、どのようにして自身の潔白を証明しようか……そこへ、魔理沙が助け舟を出す。
「お、おい…落ち着いて、ゆっくりだぜ」
「ええ!ゆっくりしていってね!」
はあ、とパチュリーがため息をつく。
「ゆ゛っ、ゆ゛っ…!」
思考する。しかし、またも脳裏は空白に埋め尽くされる。
「まあいいわ……魔理沙?」
「なっ、何だぜ」
「これは私がここで預かるわ。色々調べたいこともあるし。いいわね」
「ああ」
魔理沙はゆっくりアリスと視線を合わせることなく、紅魔館を退出していった。
本当は行かないで欲しかったゆっくりアリスだったが、口をついたのはまったく逆の言葉だった。
「いなくなってせいせいしたわ!!ゆっくりでていってね!!」
「さて」
パチュリーはいったん部屋を出ると、透明の箱を持って現れた。
「まさか…それは…」
噂に聞いたことがある。
それは家畜に付ける鎖。食肉に施す焼印。
「い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ!!し゛ん゛し゛て゛は゛ち゛ゅ゛り゛い゛ぃぃぃ!!た゛す゛け゛て゛ま゛り゛さ゛ぁぁぁぁ!!!!」
「うるさいわ。都会派が聞いてあきれるわね。
魔理沙の証言があるから人間並みに口をきいてあげてるんだから有り難く思ってもらわないと」
まったくそれはその通りだ。今の自分の体は、あの気持ち悪い生き物のものなのだから。
しかし、納得はしても感情のコントロールはきかなかった。
「うるさ゛い゛!!ゆっくりし゛ね!!ゆっくりし゛ね!!」
パープルの瞳が鋭く細められる。
「見上げた愚かしさね。
あなたなんかのために文献を探しても、この様子じゃ無駄になりかねないわ」
ゆっくりアリスはびくんと身をすくませた。渾身の精神力で口をつぐむ。いまや自分にとって唯一の全能者であるパチュリーに見放されることが、人間としての死へと直結する事実に気づくだけの冷静さはあった。
「まったく面倒くさい……そうだわ、知能テストをしましょう。
合格できなかったらあなたをゆっくりと断じて、余計な手間がはぶけるわけだわ」
「これは何?」
絵本を開いて、パチュリーが問う。
「ゆぐっ……にんじん」
「これは」
「……う、うさぎ……」
透明の箱の中のゆっくりアリスに向かって次々と、幼児にするような質問を投げかける。ゆっくりアリスはじれて、すぐに癇癪を起こす。
「ねえっ!!アリスをもとにもどすほうほうをゆっくりさがしてねっ!!」
パチュリーはというとなにやらノートにメモを取っているようだ。それが一層ゆっくりアリスの苛立ちを募らせる。
「う゛う゛う゛ぅーっ!!!」
「いくらなんでも我慢が足りなすぎるわ……」
パチュリーが席を外した。その間ゆっくりアリスは一人考える。
なぜこんなことになってしまったのか。なぜこんな目にあっているのか。
それよりも……自分に起こっている変移は一体なんなのか。
目覚めてよりこの瞬間まで、自分はどんどんあの忌まわしい生き物に近づいていくように思える。
事実すでに、手や足を失ったことさえほとんど意識に上らない有様だった。
「待たせたわね」
扉が開き現れたパチュリーは、その手に黒い麻袋を手にしていた。魔力で支えられていたのだろう、パチュリーが手を離すとそれはふわりとゆっくりアリスの前に転がり、口紐がほどけた。
そこから現れたのは――
「ゆ゛っ!ゆ゛っ!ゆ゛っ!」
「「ゆっくりしていってね!!」」
心身はつらつとした、それぞれ10匹ずつのゆっくりれいむとゆっくりまりさだった。
「ひっ!!」
本能的な恐怖と嫌悪感にかられ、ゆっくりアリスは思わず声をあげる。
新参のゆっくりたちは、ゆっくりアリスのものよりずっと広い飼い箱をあてがわれ、存分にゆっくりしている。
「それじゃあ、続きをするわよ……これは?」
「……」
ゆっくりアリスは落ち着かない。さっきからしきりに新参たちの方へよそ見している。
「これは?」
「あっ……ゆっくり……じゃなくて……ぱ、ぱんだ……」
「「ゆっくりしていってね!ゆっくりしていってね!」」
「これは?」
「……」
「「ゆっくりしていってね!ゆっくりしていってね!」」
「これは?」
ゆっくりアリスの視線は、箱に入ったゆっくりれいむとゆっくりまりさに釘付けだ。
「やっぱりね」
パチュリーは本日何度目かの嘆息とともに透明の箱へと歩み寄った。
「ゆっ……ゆっ!?」
細長い箱の上に手をかざすと、魔力の光がゆっくりアリスを包み込んだ。
「ゆ゛ゆ゛ゆ゛ゆ゛ゆ゛ぅぅぅっ!」
箱から引きはがされるように持ち上げられ、無様に床の上に落ちる。しかしゆっくりアリスには、全身の痛みよりも狭い箱から解放された喜びのほうが大きかった。
「あなた……ねえ」
勝手にパチュリーから離れ、”ゆっくりしていってね!”の大合唱を放つ新参ゆっくり箱のほうへとぴょんぴょんと近寄っていく。
ぷちん。
「話を………聞 き な さ い !!」
パチュリーは我にもなくかっとなって、ロイヤルフレア……を放ちたい自分をぎりぎり抑制した。図書館を散らかすわけにはいかない。
が、今まで押さえつけてきたその魔力と苛立ちを一点に集めて、ゆっくりアリスへと狙いを定める。
ドジュッ
「き゛い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁっっつ!」
ドジュッ
「き゛い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁっっつ!」
ドジュッ………
数分後、黒こげの貫通銃創だらけとなったゆっくりアリスと、満ち足りながらも複雑な表情のパチュリーがそこにいた。
暫定的ゆっくりプレイスを謳歌していた箱詰めのゆっくり達は、目の前の惨劇に恐れおののくばかりだ。
「これは知性の敗北かしら……でも……すっごい気持ちよかった……」
「ゆ゛ゆ゛ゆ゛ゆ゛ぅぅ……」
その傷跡も見る間に復元していく。
「あなた、ゆっくりしたいんじゃないのかしら。さっきからそうとしか見えないのだけど……」
「!!!」
ゆっくりアリスは絶句した。まさか。人間であるこの自分が、こんな気持ちの悪い群体と一緒に……
しかし、先ほどから自分の心に根ざしていたその欲求が言葉で提示されてしまうと、耐え難い焦燥となった。
「そ……そんなわけないんだからね!!ゆっくりあやまってね!!」
そういいながらも目は泳ぎ、なぜかゆっくり箱から目が離せない。
「こっちを見なさい。えい」
ドジュッ
「や゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ!!!」
傷跡をもう一度えぐってやった。ゆっくりアリスがキモくのたうつ間に、ゆっくり箱へと事情を説明する。
「じしょうにんげんだってさ」
「おお、こわいこわい」
「あんなみすぼらしいのとはゆっくりできないよ!!」
「たのまれてもごめんだよ!!」
「ゆっくりしていってね!ゆっくりしていってね!!」
そうしてパチュリーは、また復活したゆっくりアリスへと冷たい視線を投げかける。
「そろそろこの茶番に終わりを告げましょうか。
選択肢1.箱に戻って知能テストを続ける。
そうした場合、そのゆっくり共は死なすわ。
選択肢2.そこのゆっくりに頭を下げて、ゆっくりプレイスの末席に加えてもらう
その場合、人間扱いはもう必要ないわけよね」
人間か。ゆっくりか。
いずれかを選べと。しかし、我慢の利かないゆっくりアリスにとって永劫とも思える時間をかけた”知能テスト”の、さらにずっと先にある人間への道と、今そこにある、あまりにも魅力的なゆっくりプレイス。
ゆっくりアリスは目を閉じた。
心に浮かんでくるのは魔理沙の笑顔だった。
心に響くのは、パチュリーや皆…その声や、まぼろしのようにはかない思い出だった。
ゆっくりの体を衝き動かす、ゆっくり欲求に、全身全霊で抗った。
「ちのうてすとを……つづけなさいよぉっ……」
わたしはこのなぞをときあかして、にんげんにもどるんだ。
「そ」
パチュリーは無表情に頷いた。
「ばーかばーか!!」
「ゆっくりしね!ゆっくりしね!」
「ゆ゛く゛っ…」
「その答えが――知能テストの最終問題だったのよ」
パチュリーの言葉が、罵声に耐えるゆっくりアリスに届いた。
「え……!?」
そのとき、どこからともなく瀟洒なメイドが部屋に入ってきた。
手には鎖。その先に繋がれているのは……
「うー♪うー♪」
言わずと知れたゆっくりゃだ。箱詰めのゆっくり群が騒ぎ出す。
「そっちの箱のはもう要らないから処分して」
「はい」
ゆっくり箱を横倒しにし、ほじくり出すように捕食を開始するゆっくりゃに、ゆっくり達はなすすべもない。
「い゛た゛い゛ぃ゛!! い゛た゛い゛よ゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!!!」
「れ゛い゛む゛は゛い゛い゛か゛ら゛ま゛り゛さ゛た゛け゛は゛た゛す゛け゛て゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!」
ゆっくりアリスは、その光景から目を逸らした。
パチュリーの魔力に抱かれて、ゆっくりアリスは階段をのぼっている。
「あなたは、ゆっくりをどう思う」
「きもちわるい、けがらわしい、ゆっくりしね」
「あなたは、自分がゆっくりだったとしたらどうする」
「そんなことはゆっくりありえないよ!ゆっくりなおすほうほうをみつけてね!!」
「じゃあ、なぜあなたはゆっくりゆっくり五月蝿いのかしら。反吐が出るわ」
「え……」
パチュリーの魔力が解除される。魔法の浮力を失い、ゆっくりアリスの体は階段のうえにべちょり、と落ちる。
「待ちくたびれたわ。どうだったかしら」
赤い満月踊る階上。
どこかで聞いた覚えのある声が響いた。
「なんで……?」
そこにいたのは自分自身。
アリス・マーガトロイドはゆっくりアリスに一瞥をくれると、
「汚らわしい」
と断じた。
「実験に使っておいてそんなこと言うの」
「事実気持ち悪いし汚らわしいわ」
「どういうこと……?」
アリスはパチュリーの指に自分の指を絡めた。そうして、ゆっくりアリスが見上げているのもかまわず淫靡な仕草で口付ける。
「あ……」
その体は自分のものだ。その指は自分のものだ。その声は自分のものだ。
「に゛せ゛も゛の゛ぉ゛ぉ゛!!!か゛え゛せ゛え゛え゛え゛ぇ゛ぇ゛!!!!!」
しかし落下の衝撃で崩れかけているゆっくりアリスは、声を限りに叫びながら、その禁忌じみた光景を見ていることしかできない。
「思考パターンはかなり効率よくトレースできたわね。だけど、最初のうちはまだしも途中で本能に負けたわね。ほとんどゆっくりになっちゃったのはいただけないわ。物欲しげにゆっくりしたがっちゃって、浅ましくて見てらんなかったわ」
「いや……いわないで……」
「次はもっと改良しよう」
身をよじるゆっくりアリス。
階上では二つの身体が交わる。
「それでも、知能テストは合格したのね。ここまで生きて来られたってことは」
「そうよ。大したものね。あなたの実験というのも。私も貴重な知識を得たわ」
明かされた。
これは、人工知能の知能レベル、精神性、本能を計るテストだったのだと。
おぞましい生き物に人間としての『自分』を与えた際の反応を見る実験だったのだと。
「あなた……はあんっ……すごい……みじめっ……!!馬鹿みたい……!!馬鹿っ……!!低能……っ!!きたならしいゆっくりのくせに……仲間まで殺しちゃった!!滑稽すぎる……よおっ……!!お馬鹿で……!!下等な生き物の癖に……!!自分を……ああっ!!
こ の 私 、 ア リ ス ・ マ ー ガ ト ロイ ド だな ん て 勘 違 いし て い たな ん て ぇ ぇぇ っ!!あはははははははははっ!!!!ああっ!!」
「アリス……こ、これでイくんだ……ドSってレベルじゃ……」
「う゛そ゛ぉ゛ぉ゛!!!!!い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛っ゛!!!!!!わ゛た゛し゛わ゛た゛し゛わ゛た゛し゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛!!!!!」
告げられた。
もっともっと聡明に、もっともっと本能旺盛に品種改良して、記憶を消して。
『自分がアリスだと思っているゆっくり』として繁殖させることを。
永遠の苦悩と欲求不満と自己否定に生きる存在として、何度も何度も滑稽劇の主役を任ぜられることを。
その個体の末路は――記憶をすべて簒奪され、『自分がアリスだと思っている』状態に戻された。二度とこの真実にさえたどり着かぬよう、今度は聴覚、言語能力もすべて剥奪され――放逐された。強化された聡明さで同族たるゆっくりを憎み、強化された本能ゆえにゆっくり欲と性欲に苦しみ、生あるかぎり苦悶の声を上げ続けるだろう。いつか救いの手が伸びて、人間に戻れると信じて。
この無残な、赤い月の階上に到ることさえ二度と叶わぬとは知る由もなく――
――アリス・マーガトロイドは、ある日目が覚めるとゆっくりになっている自分に気がついた――
最終更新:2008年09月14日 10:55