「ゆっくりしていってね!!!」
「……は?」
会社から2Kのアパートに帰ってくると、部屋の中にキテレツなものがいた。
ぱっと見、スイカぐらいの大きさのクッション。赤いリボンをつけている。形は女の頭に似ていないこともない。
でも動く。はねる。しゃべる!
「何よ、これ……」
「ゆっ! ゆっくり! していってね!」
ばいんばいんと音を立てて跳ねてきたソレが、足の周りにまとわりついた。
むちっとした弾力のある感触。ナマモノめいたひんやりした冷たさ。
「ひっ!」
私は瞬間的に鳥肌が立って、そいつを蹴飛ばした。どよん、と飛んだそれが奥のリビングにゴロゴロ転がってから、ぽてんと止まって叫んだ。
「けらなくていいからね!」
「ちょっ、いいとかじゃなくて……」
思わず返事をしそうになった。相手は人間でもなんでもないのに。
気色悪い! なにこれ、マジで!
再びばいんばいんと飛んできたそれを、今度はよく狙って、横手のトイレに蹴りこんだ。うまく入ったのですかさずドアを閉める。外からは鍵をかけられないから、辺りを見回して、ドアノブにモップを立てかけた。
「ゆっ? ゆっくりしないの? 一緒にゆっくりしてね!」
叫び声と跳ねる音は聞こえるけど、ドアを壊すほどの力はないようだ。
「はあ……」
私はほっとして、へたりこんだ。
二、三分座っていると、気持ちが落ち着いた。なんとかしなきゃ。でもどうしたらいいんだ。警察に電話する? それとも市役所?
とりあえず調べることにした。
リビングでパソコンを立ち上げようとしたら、ローテーブルの菓子皿におきっぱなしにしておいたスナック菓子が、バラバラに散らかされていた。アレのしわざだろう。野良猫みたいなやつ。
それにしてもどこから入ってきたのか。
あれが口にしていた「ゆっくりしていってね!」でぐぐったら、簡単に答えが出てきた。なんかゲームのキャラクターらしい。名前はゆっくりれいむ。跳ねるだけで無害。多少ウザいけれど。
でもこれ、架空の生物のはずだ。なんでこんなところに……。
生態や性質はわかったけれど、現れた理由だけはわからなかった。
まあ、無害だとわかっただけでも、収穫だ。
「ん……」
なんだか下腹に催してきたので、トイレに向かった。相変わらずばいんばいんと音がする。だが、モップを外してみても、あいつはドアを開けようとはしなかった。なぜだろう。
うっすらと開けて中を覗いた。「ゆっ!」と声がして、あのむっちりが隙間にすりよってきた。名前はゆっくりれいむだっけ。試しに声をかけた。
「ゆっくり、外へ出ないの?」
「ゆっくり出してね!」
そう言ってぎゅむぎゅむと出ようとする。私が外へ出してくれるものと、頭から決めてかかっているようだ。
何か、
こう……。
もやもやした気持ちになった。思わず爪先でグッと押し込んで、またドアを閉めた。中でゆっくりが叫んだ。
「ゆっ、外へ出たいよ! しめなくていいからね!」
そして跳ねる。跳ねるだけ。鍵のないドアすら開けることができないらしい。
「ああ……」
さっき見たサイトに書かれていたことが、じわじわと理解できた。
こいつ、
バカなんだ。
そしてウザい。
「おねーさん、その部屋でゆっくりしてね! ゆっくりいってね!」
うわあー、確定だ。
うぜー。こいつうざい! 私の部屋だよ!
でもまあ、いつまでもウザがっていることもできないので、ドアを開けて出してやった。ばいんっ、と出てきたところを、足でプギュッと踏みつける。手で触るのは、なんかきもかった。
「ちょっと」
「ゆっ?」
「その辺、いていいから、とりあえず何にもさわらないで」
「おねーさんはこっちのお部屋でゆっくりするの!?」
何しようと私の勝手だよ! 私は無言でトイレに入り、下着を下ろして腰掛けた。
……手を洗って出てきたら、驚いた。ゆっくりれいむは、食べさしのえびせんべいを平らげている真っ最中だった。
その食べ方がまた、汚い! 手がないもんだから皿に顔を突っこんで、口の周りを粉だらけにして、ぼりぼりかじっている。
じきに食べ終わった。口の周りがサラダ油でてかてかしている。どうするのかと思ったら、辺りを見回して……。
うわあああ、タペストリーでごしごし拭いた! 友達のアイルランド土産で!
「ちょっと、さわるなって言ったでしょう!」
「ゆっ?」
振り向いたゆっくりが、いたずらを見つかった子供みたいに、いそがしく私と壁を見比べた。一応、まずいとは思ったようだ。
どうするかと思ったら、キッチンへばいんばいん跳ねてきた。冷蔵庫の上を見つめて、「ゆっ、ゆっ」と跳ねる。
視線の先を見た。食パンが乗っていた。まだ食うのか、と思ったけれど、なんだかものすごく切迫していたので、つい渡してやった。
「はい、これ? ……何、開けろって? まあ確かに自分じゃあけられないんだろうけど」
何やってるんだろう、私。夜中にこんな怪生物と会話して。
そう思ったけれど、つい渡してしまった。ああ、根が弱気……。
するとゆっくりは、その食パンを口にくわえて、私に向かってばいんばいんと飛んだ。
「ゆっふりたべへね! ゆっふりがまんしへね!」
「……それでえびせんの代わりのつもりか!」
私は思わず、力を込めてゆっくりを蹴ってしまった。
ちょうど足の甲の辺りがあごの真ん中に入って、どぼっ、とへこんだ。競技用のボールなんかより柔らかくて、適度に重みがあって、しかも強い弾力がある。
あっ……イイ感触。
「ゆ゛ううっぷぷ!?」
ゆっくりは壁まですっ飛んで、べたんと当たって落ちた。何か赤黒い粒が二、三粒飛び散った。顔色が変わっている。目をまん丸にして驚愕の顔でこちらを見ている。
これまたすごいリアクションだ。顔芸で食べていけそう。
私はなんとなく、笑顔になってしまった。声は低くなったけど。
「勝手に、ものを、食べない。わかった?」
「ゆ、ゆ゛っゆ゛っ!」
真っ青になったまま、ゆっくりはがくがくとうなずいた。
その物凄いおびえっぷりに、キュンときてしまった。
結局ゆっくりは住み着いた。
あの翌日外へ出してやったけど、夕方ものすごいボロボロになって帰ってきたのだ。左の頬をかじられ、右の頬にタイヤの後をつけ、髪がくっしゃくしゃにからまって、だくだく泣いていた。
「おね゛えざああん、ゆっくりさせでねえ゛え゛え゛」
聞けば、左頬は通りがかりのハスキー犬にやられ、右の頬はバイクに出会い頭に轢かれかけ、髪はカラスにつつかれたそうだった。よく生きて帰ってきたものだ。
哀れになって、私は入れてやることにした。
「しょうがないなあ……入れば」
「ゆっくりしていくね!!」
入れてもらえるのが当然といわんばかりのそのセリフは、相変わらずムカついたけれど。
それから一週間だ。
ゆっくりは、思ったとおり、バカでウザかった。
たとえばゆっくりは、人がドラマ見てる横で、叫びながらばいんばいん跳ね続けるようになった。ソファの弾力が気に入ったらしい。
「ゆっゆっ、ゆっくりさせてね!」
そのたびにぶん殴ったけれど、一時間もするとコロッと忘れてまた跳ね出した。
また、ゆっくりは隙を見てはツマミ食いをした。お菓子や流しの下のそうめんを、袋をびりびりに噛み千切ってボリボリ食べてしまった。
「うんめ、これメッチャうんめ!」
三日目には冷蔵庫の開け方も覚えた。私がシャワーを浴びている間に、牛乳パックを取り出されていた。出てみたら、だくだくと口いっぱいにミルクを受け止めて床にこぼしながら飲んでいた。
「ゆばっ、ゆぐっ、ぐっぱ、ゆ゛っ、だっずけで゛ね゛!」
しかも飲み過ぎで溺れていた。
見た途端ぶち切れて、私はそのパックを喉の奥まで無理やり蹴り込んで、そのまま放置した。ゆっくりはぐばぐば言いながら悶え苦しんで、じきに動かなくなった。
心配になってパックを抜き、水道の水をかけてやったら、じきに目をぱちぱちして叫んだ。
「すっきりー!」
皮は多少ぶよついたけれど、翌朝には乾いていた。
また、ゆっくりは無駄に好奇心が強かった。ドアノブは無理だけれど、口でつまめるタンスやクロゼットは全部開けてしまった。会社から帰ってきたら、そこらじゅうにパンツを散らかして、その上でゴロゴロと転がっていた。
「おねーさん、お花畑だよ! ゆっくりいっしょにねようね!」
しかも一枚かぶっていた。どうやったのか知らないけれど、鼻までぴっちり覆う形で。
自分のパンツを変な生き物に履かれたせいで、おぞ気が背中を駆け上がった。私はそのパンツを奪い取ってゴミ箱に捨ててから、またしてもゆっくりを蹴った。
どぼんっ!
「ゆ゛ぎぷっ!」
ゆっくりはまた壁にぶつかって粒を撒き散らした。その後は半日ほどおとなしくなった。
ネットで調べなおしてみたら、あの粒はあんこだった。
なんと、ゆっくりの中には餡子がびっちり詰まっているらしい。餡子で考え、餡子で生きている。ますます謎生命だ。食べるとおいしいとも書いてあった。きもくて食べる気なんかしなかったけれど。
基本的に饅頭なので、饅頭としてのつくりが残っている間は、生きている。柔らかいから蹴ったり殴ったりしてもあまり堪えないけれど、餡子が飛び出したら黄信号だ。餡子が出るのは、人間でいうと勢いよく出血するのに相当するぐらい、痛みとダメージを受けるらしい。やりすぎると皮の薄いところが一気に裂けて、餡子が大噴火し、死ぬ。
そうなのか、ひどいことしちゃった。少しだけ、そう思った。
けれど、新しい餡子を詰めなおせば蘇ると書いてあったので、再びきもくなった。
とはいえ脳みそが入れ替わるのとおなじなので、記憶は消えるらしい。それはまあ、当然か。
……あのアホバカキモ生物の記憶がなくなったところで、何も差し支えはなさそうだけれど。
「ゆっゆっ♪ ゆっくり、しようね……」
リビングの隅で幸せそうにささやき、だらしなく傾いて眠りこけたゆっくりを見つめて、私は醒めた感想を抱いた。
ペットみたいだけど……どっちかというと、猫より虫っぽいなぁ。
そのころは仕事が忙しくて、ゆっくりを誰かにあげたり、保健所にいったりするヒマがなかった。なあなあのまま、私はゆっくりとの共同生活に慣れてしまった。
朝だいたい六時。私はゆっくりの、嫌な感じに不正確な目覚ましで起きる。
「今日もぉー……ゆっくりしていってね!!!」
朝一番のゆっくりコールは、ものすごく元気な声なので、無視できない。しかもこいつは空腹のために叫ぶのであって、私の出勤時間など考慮してくれない。でも以前の教訓により、寝るときは寝室に連れ込んでドアを閉めるようにしている。私があけないと、外に出られない。
「おなかが空いたよ、ごはんにしてね! ゆっくり食べさせてね!」
ムカつきつつ、私は起き出して、足元を跳ねるゆっくりにつまづきそうになりながら、食事の支度をする。
新聞紙は必須だ。こんなきもい生き物と同じテーブルで食事をするのなんか絶対ごめんだったので、床に新聞紙を敷いて、お盆で餌をやることが定着した。犬猫未満の扱い。でも本人は(本体は?)気にせずに、這いずったままで食べる。
そこがまた畜生っぽくてウザい。
「ゆっく、りぐっちゃ、うめ、ゆっゆっぐっちゃうめ!」
食べながらしゃべるところもウザい。起きてから三十分もたっていないけれど、この辺りでもう、私の髪の毛とうぶげは、ウザさでざわざわと鳥肌立っている。
ゆっくりの献立は適当だ。どれぐらい適当かというと、何もなくて水練りした小麦粉を出したこともあるぐらい、適当だ。それでもゆっくりは、うめうめ言いながら食べる。
自分でもひどいなーと思いながらそうしていたけれど、ある日、とんでもない光景を目撃して、同情が一切ふっとんだ。
こいつ、アレ食べるのだ。黒くて光って走る台所虫。自然の機能か、そういうときだけイヤに速く追う。そしてべろんっと舌を伸ばして取る。
これは引いた。もう全身ぞわぞわに鳥肌たった。殴るのもイヤだったので、丸めた新聞紙で三十回ぐらい殴ってから、トイレに蹴りこんで一晩閉じこめた。
以来、一応ゴキを見つけても食べないようになった。……少なくとも私の前では。
とにかくそんなわけで(ご飯時の話題じゃないな)、私は一つのルールを思いついた。
その日手に入った、一番適当な食材をゆっくりに食べさせること。
このルールはうまく機能している。スーパーで、安くてまずくて体に悪そうな食べ物を見つけるたびに、それを買ってゆっくりに食べさせる、という楽しみができた。
なんでもかんでも「むっちゃうめ」だから、張り合いがないと言えばないんだけれど……。
今日のゆっくりごはんは、パンの耳とスパムだ。五百グラムの脂っこい肉をガンガン平らげていく姿は、べたべたしたものが苦手な私にとって、とてつもなく高脂肪な感じで、ウザいうえに非常におぞいのだった。
食べ終わると、その姿で動き出す前に、雑巾で手早く拭ってやる。この辺は、もろペットか赤ちゃんって感じ。適切なタイミングで適切な処理をすれば、そう手間でもなく、片付けられる。
食べ終わると、もちろんこれだ。
「すっきりー!」
このときの顔は……うん、まあ、見ているこっちもちょっとすっきりする。
着替えて化粧して、出かける準備を整えた。ゆっくりがいるので、各所の戸締りは必須だ。ベランダの窓だけは開けておいてやる。外が見られて、心地いいだろうから。
そうやって気遣いしてやっているのに、出かけようとするとゆっくりは叫ぶ。
「ゆっくりしないの? もっとゆっくりしていいよ! れいむがゆっくりしてあげる!」
ああ……
この、一日の中で人間がもっとも急いでいる、朝の出勤前の時間に……
言うにことかいて「ゆっくりしていってね!」
ウザい!
最高にウザい!
私はゆっくりを抱え上げ、にっこり笑って、「そうね、ゆっくりしたいわねえ」と微笑みかけ、期待して「ゆっゆっゆっ♪」と嬉しそうに跳ねたところで、
寝室にダンクシュートで放り込んで、力いっぱいドアを閉めて、鍵をかけて出て行くのだ。
朝と比べると、仕事上がりの夕方はだいぶゆるい。
それこそ、本当にゆっくりだ。
「ゆっくりー、ただいまぁ」
「ゆっ! ゆゆゆっ!」
寝室でばすばす跳ねる音が聞こえる。ちょっとうきうきしながら奥へ入る。今日はどんな悪行をやってくれるているのかと考えながら。
ドアを開けると――目に入ったのは、チェストの上のゴチャゴチャにされた化粧品だった。
「うっわー……」
こめかみに青筋が浮くのが、自分でもわかる。怒りのオーラがチャージされていく。
ゆっくりは足元にやってきて、嬉しそうにまとわりついている。
「ゆっくりしていってね! 一緒にゆっっっくりしてね! おやつも食べさせてね!」
そうね、わかるわかる。飼い主が帰ってきて、嬉しいのよね。
私も、すっごくゆっくりしたいよ。
ゆっくりしたいときに、こういう、見逃せない悪行をされると……
ウッッッザいわあぁぁ♪
「ね、ゆっくり」
「ゆ?」
寄ってきたゆっくりを抱き上げて、チェストに近づく。あー、八千円もした化粧水が。わー、マスカラでそこらへんでろでろ。
「これ、なにかしら?」
「ゆっ……」
「触らないでって、言っといたわよね?」
「ゆ、ゆっくりしていたよ!!」
「ゆっくりした気分で、無意識に、ばいんばいん触っちゃったの?」
「さわってないよ! れいむしらないよ! それよりおやつにしてね!」
腕の中でバスバス跳ねながら、見え透いた言い訳をする。してくれる。
ウザメーターが天井知らずにはね上がる。
「じゃあ、そうね、正直に言ったら、ケーキをあげる。甘いあまぁいショートケーキを……」
「ゆゆゆっ!?」
目を見張ったゆっくりが、何の考えもなしに、一秒でドロを吐く。
「ゆっくりしていたら、倒れたよ! はやく許してね!」
「やっぱりかぁーーーー!」
私はゆっくりを抱いたまま、床に向かってダイヴして、体重でむぎゅんっ! と押し潰した。
「ゆぶっぷぅんっ!」
ぶぴぴっ、と耳や口から餡子を弾けさせるゆっくり。やばい、これはやばい、死んじゃうかも!?
どきどきしながら起き上がって、そーっと抱え上げて、頬をぺしぺし叩いてみた。
「ゆっくり……ゆっくりー?」
「ゆ゛っ……ぐり……さぜ……でね」
いったん白目になっていた目に、くりんっと黒目が戻ってきた。見る間にえぐえぐと泣き出して、滝のように涙を流す。
あ、生きてた……内心ほっとしたのを押し隠して、私はにこやかにゆっくりの頬をつねった。
「いーい? これからは、こういうことしちゃだめだからね?」
「ゆっゆっ……ゆぅぅ……」
ゆっくりは殊勝にうなずく。仕草だけ見れば、心を入れ替えて反省したって感じだ。
でも、明日になればコロッと忘れて、絶対また悪事をするんだろうけどね♪
「ゆっくりー、足ー」
「ゆっゆっ! ゆゆゆんゆっ!」
シャワー後は、ソファにうつぶせになって、足を投げ出す。もちもちひんやり饅頭が、ふくらはぎの上でばいんばいん跳ねてくれる。
この時だけは……ゆっくりが、心底ありがたい。市販でこんなきもちいいマッサージャー、ないもんなー。
あ、申し遅れました。私デパートでエレガやってます。立ち仕事しんどいです。
一時間に何度も乗ってくるキモオタうっざいです♪
ゆっくりはウザさはトップクラスだけど、怖くないのがいいわあ……。
ひょっとしたら、理想の同居人……?
「ゆゆっくー、ゆっくっ、ゆぐぅっ!?」
バランスを崩したゆっくりがテーブルの上にひっくり返って、私のキリン淡麗ぶっこぼした。
前言撤回☆即制裁。
ゆっくりの悪行がだんだん狡猾になってきたように感じたので、何か監視する方法がないかと友達に相談したら、USBカメラを使う方法を教えてくれた。
パソコンにつないで、ソフトを起動して……あら簡単。携帯のボタンひとつで、静止画が見られる、と。
これで、仕事に行っている間もゆっくりの監視ができるようになった。
私がいない間のゆっくりの行動は……別に、変わったこともなかった。毎日毎日、能天気に寝室の中を跳ね回って、倒せるものを倒し壊せる物を壊して、姑息に隠蔽するだけ。
ベランダから外を見て、鳥に向かってゆーゆー叫んでいることもあったけれど、外に出たいわけではなかったらしく、すぐ戻ってきてベッドで寝てしまった。
無害きわまる。カメラの意味なかった。
と思っていたら、ある日、ゆっくりが妙な行動を取っていた。部屋の隅の見えにくいところにうずくまって、もぞもぞ動いている。
ものすっごい不吉な予感がしたから、わくわくしながら家に帰った。
「ただいま、ゆっくりしてたぁ?」
何をしたんだろう。絨毯にインクでもこぼしたとか? 虫を潰してしまったとか?
ひどければひどいほどいい……ゆっくりをたっぷり叱ることができる。
「さあ、ゆっくりー……」
言いながらドアを開けた私は、立ちすくんだ。
「ゆむっ」
ゆっくりれいむが、厚紙を口にくわえて差し出していた。部屋の隅には、散らかした色鉛筆。
取り上げて、見た。何か書かれていた。縦に細長い、手と足の生えた物体が、赤白のごちゃごちゃを保持していた。
精一杯想像力を働かせて、かろうじて理解できた。
「これ……私?」
「ゆっ」
「と、ゆっくり?」
「ゆっ♪」
一歩下がってドアを勢いよくバンと閉めた。
「ちょ……反則」
私の顔は、多分真っ赤だったと思う。
振り向いて壁のカレンダーを見た。花丸を書いてある。あのカレンダーを買ったときに自分で書いたのに、忘れていた。
誕生日だった。
「ゆっ? おたんじょうび、ゆっくりしてね?」
戸惑ったようなゆっくりの声が聞こえてくる。少し怯えているみたいだ。
また何か、知らず知らずのうちに自分が悪いことをしたんじゃないかと、心配しているんだろう。
心配してるってことは……そっか、多少は成長もしているんだ。
「ゆっくり、ちょっと待ってて」
「ゆっ?」
私はドアに声をかけて、玄関に走った。目的地は角のコンビニだ。
ビニール袋を手に、急いで帰ってきた。十分もかからなかったと思う。
アパートの階段で、ちょうど帰ってきたところらしい隣の部屋のカップルと会ってしまい、お先にどうぞ、と譲り合った。結局私が先に階段を登った。顔見知りで、互いの名前も知っている。いつもならこのくそカップルうらやましいと思う。
今日はそれほどでもなかった。
「ただいま、ゆっくり」
息を切らして玄関のドアを開けると、出会い頭にドンと誰かに鉢合わせした。
「きゃっ」
声を出してから、ぞっとした。
「誰?」
ていうか、何?
なんで私の部屋から?
無精ひげで汗臭いジャージ姿の男が出てきた。私を見て、ばちばちと忙しく瞬きした。
その瞬間、隣の部屋の鍵を開けようとしていたカップルが、こっちに気付いて甲高い声で叫んだ。
「泥棒!」
男はビクッと身を震わせてから、私を突き飛ばしてバタバタと逃げていった。
「ど……」
頭が白くなって、ぺたんと尻もちをついた。空き巣だ。ううん、強盗か、レイプ犯かも。
私が一人で中にいたら、今ごろは……。
「大丈夫?」
「あ、はい、なんとか……」
気遣ってくれたカップルにおざなりに礼を言って、私は立ち上がった。彼氏のほうに、頼んでみる。
「警察、呼んでもらえる?」
「あ、うん」
カップルが電話を始める。その間に、私は部屋に入った。
あの子は。
ゆっくりは?
「ゆっくり!」
居間、何もいない。寝室――。
ドアを開けた途端、甘い匂いが鼻を突いた。
ゆっくりはチェストの角に突き刺さるようにして、破裂していた。買いなおした化粧品に餡子がたっぷりとぶちまけられていた。壁にもベッドにもあずき色が放射状に飛び散って、のろのろと下へ垂れ落ちていた。
「……ゆっくり?」
私はささやきかけて、ゆっくりの後ろ頭に触れた。そして、びくりと指を引いた。
あの弾むような弾力は、もうそこにはなかった。ただぺらぺらした米粉の薄皮だけが残っていた。
――あとでカメラの動画を見た。バカなゆっくりは、突然入ってきた男にも「ゆっくりしていってね!」と無邪気に近づいていったけど、驚いた男に蹴り飛ばされ、チェストの角に衝突したのだった。
一撃だった。たぶん、苦痛はなかった。
「ゆっ……くり……!」
私はふらふらとリビングに戻った。テーブルに、さっきの厚紙が残っていた。
それを、抱いて、床にへたりこんだ。
「ゆっくり……していたからよ、バカ……!」
私の代わりに。
和菓子です、と警察には言った。誕生日だったので、一人で食べようと、特大のを買ってきました。
それで警察は、寝室の惨状にも納得した。当たり前だ。それ以外の説明などあるはずがない。しゃべって跳ね回る饅頭なんて、この世にはありえないのだから。
あれが和菓子だったとすると、私の買ってきたこのショートケーキが余ってしまうのだけれど、もちろん警察はその矛盾に気付かなかった。
警察が帰ってから、私はぼんやりとリビングに座っていた。部屋の中がとても静かだった。
皮肉なことだった。
私は、ゆっくりがいなくなってから、初めてゆっくりできるようになったのだ。
「ゆっくり……できないわよ」
半ば放心状態で、そうつぶやいたとき……
突然、開け放しのドアの向こうで、寝室に光が満ちた。
私は目を見張り、おそるおそる寝室を見にいった。ゆっくりがいた期間のおかげか、何か超常の雰囲気のあるその出来事も、落ち着いて受け止められた。
餡子の匂いが消えている。代わりに、濃厚な甘い香りが漏れてくる。デパート勤めの私が一度としてかいだことがないほど、清楚で芳醇で高圧な香りだ。
寝室には、一人の女が立っていた。
外人だった。長い綺麗な金髪。それを高そうなシルクのウィンプルですっぽり覆っている。服装はパープルのワンピース。人の部屋だっていうのに白いブーツのままで上がりこんでいる。えらく少女趣味な格好だ。顔立ちも少女みたいだ。
でも私にはその人が少女なんかじゃないということがわかった。
ただの少女にしては、その人の周りの空間が歪みすぎていた。
その人は畳んだレースの日傘で、ゆっくりの残骸をつついていた。
「遅かったか」
「あなたは?」
私が訪ねると、その人はこちらを向いた。切れ長の目に、見掛けだけだとわかる笑みが浮いた。
「巻き込んでどこかへ落としてしまったときには、なるべく回収するようにしているのよ」
「それを?」
「可愛かったでしょう?」
ゆっくりを可愛いと言い切れるなんて、ただ者じゃない。大人物だな。
その人はゆっくりに目を戻し、傘の先でぺらりと皮をめくって、鼻の頭にしわを寄せた。
「これでは、手間がかかりすぎる」
そう言って、トンと小さく後ろへジャンプした。何の根拠もなく、その人が去ろうとしているのだと直感した。
「待って!」
その人が空中で静止して、もう一度、振り向いた。三度はないぞと言いたげな冷たい顔だった。
私は必死で聞いた。
「手間がかかるですって。治す方法があるの?」
「なぜ私が教えなければならないの?」
私は絶句した。その人が鼻で笑った。
「安い愛は嫌いよ」
「……愛じゃないわ」
なぜ、そんなことを叫んでしまったのか、わからない。
でも私は、そう言うのが最善であると思ったのだ。
この人が相手なら。
「いじめたいのよ!」
ぴく、とその人の目尻が動いた。
「もっともっといたぶって、泣かせたかったのよ。押し潰して、苦しむ顔が見たかった! だから生き返らせたい。貴女なら――わかるんじゃない?」
その人は、じっと私を見ていた。いや、私の右手を。
ハッと気付いた。私は右手に、ゆっくりが描いた絵を持っていた。そのことに気付いて、唇を噛んだ。
これじゃ……見えみえだ。
「餡を戻しなさい」
私は顔を上げた。その人は、完璧な無表情でどこか上のほうを見つめながら、言った。
「すくって戻すのよ。私はそんな汚れ仕事、願い下げだけど」
「それだと……でも、一度出た餡は腐ってしまうから」
「馬鹿ね、ヒトなら腐敗を止める方法ぐらい知っているでしょう」
「そ……それでいいの?」
「食べられなくなってしまうけれどね」
言い終わるか終わらないかのうちに、その人はため息をついて後ろへ下がった。カーテンの前の空中に、ファスナーの合わせ目のような裂け目がバラッと開いて、疲れた顔のその人を飲み込んで閉じた。
私は唖然としていた。
ずいぶんたってから、ようやく、足元の地面が戻ってきた気分になった。
私はそろそろとリビングへ下がって、防腐剤について調べ始めた。
仕事を終えて帰ってきた私は、胸の前にスタンガンを構えながらアパートのドアを開けて、中に入った。
そこには恐れていた姿も、期待していた姿も、なかった。がらんとした一人暮らしの部屋。
「……ふう」
まあ、当然だ。あの強盗は次の日に捕まったし、ゆっくりはまだ死んだままなのだから。
私は傘の女性に言われたとおり、ゆっくりの餡に防腐剤を練りこんで、皮に詰め直した。心のどこかで滑稽な気がしていたけれど、努力してマジで居続けた。
そして皮を丁寧に米粉で張り合わせて、窓際に置いておいた。
けれども、ゆっくりは蘇生しなかった。皮で作ったただの和菓子のように、窓際にドデンと置かれ続けていた。毎朝起きるたびに、いつまで置いておこう、と私はため息をついた。いくら防腐剤を入れたからって、死んだままで何日も置いといたら、虫が湧いてしまうだろう。
あれから五日。
私は疲れた気持ちで帰ってきて、リビングのテーブルにバッグを投げ出した。
「ったくもー、溜まるなあ……」
「ゆっ」
ぴくっ、と私は全身を耳にした。
あれは。
あの間の抜けた、幼稚な声は。
振り向いて、寝室へ足を向けた。ドアは閉じてある。そうっと開けて、中を覗いた。
「……!」
息を呑んだ。
しっちゃめっちゃかだよあのヤロー! 前みたいにパンツはぶっちゃけてあるし化粧品も倒しまくりだし、加えて今度はシーツまでべとべとのよだれ塗れに……
「ゆ、ゆっくりしてね?」
部屋の隅に、あれがいた。
私はドアを開け、駆け寄ろうとした。
「あんたはまたこんなことを……!」
「ゆっ、ゆっくりやめてね! ゆっくりころさないでね!」
ゆっくりは信じられないぐらいの速さでベッドの下に潜り込んだ。
私はちょっとぽかんとして、ベッドの下を覗きこんだ。こんなに怯えたゆっくりは初めてだった。
「……ゆっくり?」
「ゆ、ゆっくりしていってね!!! おねがい、ゆっくりしてね!!!」
あの自信満々ウザさ百倍のゆっくりコールではなくて、追い詰められたような哀願だった。まるで私が誰だかわからないみたいな……。
「……そうか」
わからないんだ。
記憶が。
飛んでしまって……。
「ゆっくり……」
なんでだろう、なんでこんなやつに。
目が熱くなってしまうんだろう。
飛び散った餡を回収し切れなかったのかもしれない。防腐剤のせいで、何かが変わってしまったのかもしれない。殺された瞬間の恐怖だけが残っているのかもしれない。
とにかく、このゆっくりは……もう、前のゆっくりじゃないんだ。
「ゆっくり……」
私はがっくりと床に手をついた。手の甲が点々と熱くなった。
そのとき。
ぺたり、と柔らかな感触。
水辺の生き物のような、キモ冷たい手触り。
かすむ目を開けると、紅白のウザバカ饅頭が、おずおずと出てきて、私の手に触れていた。
「ゆ……ゆっくり、絵を見てね?」
私は――
「こいつ……!」
ベッドの下から引きずり出して、抱きしめた。
ゆっくりは柔らかく、もちもちとして、ふんすふんすと鼻息を噴き、ちょっとおとなしめにぱいんぱいんと跳ねていた。
「ゆぐっぐ、きついよ! おねーさん、ゆっくりしていってね!!!」
私はその日から、またゆっくりできるようになった。
fin.
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ここでは初めまして。某所で細々とエロを書いていたYTという者です。
虐待趣味はなかったんですが、名作・井戸落ちゆっくりに刺激されて、私もゆっくりしたくなり、書いてみました。
ですが、これはあのスレの基準だと、虐待じゃないですね。
物足りない人はごめんなさい。
気に入った人はにやにやしていってね!!!
最終更新:2008年09月14日 05:11