動かない。
いや、動けない。
ゆっくりありすは体を動かせない。顔を押さえる枠のせいだ。
そして、そちらまで視界が届かないので、なぜ動かないのかも分からない。
おまけに薬で思考が鈍っている。
「ゆ? ゆ? なんなの? ゆっくりうごけないわ?」
きょときょとと左右を見るありすの前に、いきなり妹が、ずいっと身を乗り出した。
「ねえ、ありす!」
「ゆっ?」
僕の横に小ぶりなお尻をツンと突き上げた姿勢で、テーブルに手をついて妹はありすに詰め寄る。
「今日はあなたに見てもらいたいものがあるの」
「ゆ、そんなことより、ありすはゆっくりうごきたい――」
「いいから、ね、見て! きっとゆっくりできるわよ?」
押しかぶせるように言うと、妹は身を引いてリモコンの電源ボタンを押した。
ぱちっ、と映像が映し出される。
板の上に乗っている、白いものの映像だ。もっちりとして柔らかそうな楕円状の物体。
かなりアップにしてあり、その白いものと、台になっている板以外は映っていない。
「ありす、これがなにかわかる?」
妹が聞く。ありすは眉をひそめ、ふるふると首を振――ろうとしたが、枠に阻まれて失敗し、目だけを横に動かした。
「わからないわ。ねえ、ありすはゆっくり――」
「いい、見ててね? ありす」
ありすを無視して言った妹が、目顔で僕に合図した。
僕はうなずき、席を立って離れる。ありすがとまどったように言う。
「あら? おにいさんはどこへいくのかしら?」
「さあね?」
妹がしらばっくれたその時、画面に変化が起こった。
刃物を持った人間の手が現れたのだ。
その手は、ためらいなく刃物を白いものに突き立てた。ぷつり、と弾力のある生地に刃が食い込む。
手はそこでいったん止まった。妹がありすに目を移す。
「ありす、これをどう思う?」
「ゆぅ……? いみがわからないわ」
「そう? じゃあもう少し見てて」
手が再び動き出し、白いものに切れ目をつけていった。
さくり……さくり……と刃が生地を切る。そのたびに妹がせわしなく瞬きする。
足を組み替えて、ぎゅっと力を入れたのが分かる。両手で自分の胸を抱きしめた。
僕はにやにや笑う。妹の気持ちがわかる。
声をかけたかったが、そうするわけにはいかない。声を出したら僕の居場所がありすにばれてしまう。
さくっ……と生地を四角く切ると、画面の中の手は、生地をめくりあげた。
もちもちとした生地がぐにゃりと持ち上がる。
と、その中で形を保っていた黄色いねっとりしたものが、とろぉり、とゆっくり垂れてきた。
妹が身を乗り出し、唇を震わせて尋ねる。
「ね、ねえ、ありす。ほ、ほんとになんとも思わない?」
「ゆゆぅ……?」
ありすは眉をひそめて映像に目を凝らしているらしい。クイズか何かだと思ったのかもしれない。
「これは……なにかしら。やわらかくて、もちもちしているわ」
「うん、そうね」
「なかから、とろとろしたものがたれてるわ。なんだかゆっくりしたものにみえるわ」
「そう、そうよ」
「でも……なにか、なにか、ゆっくりできないかんじが、す、る……」
「うんうん……うんうん!」
期待を込めてありすの顔を覗きこんでいた妹が、しばらくしてから、僕に目配せした。
僕は静かに歩き、妹のそばに戻った。考えこんでいるありすの前に、コトリと皿を置く。
「ゆっ?」
目を上げたありすが、皿に気付いた。その顔を、ふわりと甘い香りが撫でる。
皿には、スプーンで盛りつけた黄色いカスタードクリームが乗っている。
「あら……あまあまだわ! とかいはなにおいのするあまあまだわ!」
口の端によだれを浮かべて、ありすが僕を見上げた。
「これをありすにくれるのね? ありすがたべていいのね?」
「いいけど、あたしもほしいなあ……」
「ゆっ! いいわ、おねえさんたちにもあげるわ! ありすはやさしいのよ!」
気取った調子でありすが言ったので、僕と妹は顔を見合わせ、一緒に食べ始めた。
「あーん……おいし」
「ありすにも! ありすにもあげなきゃいけないでしょ!」
「わかってるって。はい、ありす。あーん……」
「あーん……ぱく! ぺーろ、ぺーろ♪ しあわせええぇ♪」
口を開けて目に涙を浮かべ、ふるふると感動するありす。
ゆっくりの性質だとはいえ、こんなときでも感動してしまうなんて、業だなあ。
「おいしいよね、クリーム」
もうひと口、自分で味わった妹は、次にすくったクリームを僕に差し出した。
「はい、お兄ちゃん♪」
「いいの?」
「んふ、あたしが大事にしてきた……クリーム、食べてね」
中ほどのところは言葉を濁して言い、妹がスプーンを向けた。僕は口を開ける。
「はい……」
妹の唾液のまだ残るスプーンを、僕はぱくりとくわえた。
じっくり舐め取って、と言わんばかりに、妹はじわじわとスプーンを引き抜いた。
そして、僕の唾液の残るスプーンでクリームをすくい、僕に見せ付けるように桜色の唇にくわえて、ねっとりと舐め取った。
上気したような上目遣いでささやく。
「ごめん、あたしのスプーン、使わせちゃって……」
「いや、いいよ。僕は平気」
「そうなんだぁ……♪ うれし」
小悪魔みたいに色っぽい笑みを浮かべると、妹はわざとクリームを残すような舐め方をして、僕にも使わせた。
僕もお返しに、口に入れたクリームをかき混ぜてからスプーンに載せて差し出し、妹に舐めさせてやった。
そんな甘甘プレイを兄妹でやっていると、ありすが「ぷくぅぅ!」とふくれてしまった。
「おねえさん、おにいさん! ありすにももっとくりーむをよこしなさいな! ありすはもっとほしいわ!」
仲間はずれにされた悔しさからだろうが、それを聞いた妹が、また目を輝かせて身を乗り出した。
「もっと? ありす、もっとほしいの?」
「ゆん、そうよ! ゆっくりもってきてね!」
「ほんとうにいいの?」
「いいっていってるでしょおおお!」
うわ、青筋立てた。ヒスを起こしたみたいだ。
ありすは他のゆっくりより怒りやすいのかもしれない。
ともあれありすのご用命なので、僕は席を立ち、クリームのお代わりを持ってきた。
そしてありすにひと口か二口やり、あとはまた兄妹で舐めたり舐めさせたりする。
クリームがなくなると、また持ってくる。
それを繰り返しているうちに、どうも違う気がしてきたので、いつの間にか抱きついていた妹を押し戻して、僕は言い聞かせた。
「ちょっと待ちなよ、これ、ありすとの遊びだったろう」
「そ……そうだね」
妹はスイッチが変なほうに入ったらしく、汗ばんだ顔を僕の胸に埋めて、はふはふ息をしていた。
僕に押し戻されて、ようやく正気を取り戻す。
「こんなことしてちゃ、いけないよね……」
「そうだよ」
「でもなんか、これはこれでいいから、お兄ちゃん、あとで……ね?」
おねだりするような目をしてきたので、僕はそのおでこにキスをして、頭をなでてやった。
それから二人でありすに向き直った。
「ねえありす、まだまだクリーム、ほしい?」
「ほしいわ! もっとありすにもあまあまがほしいの!」
かなりイライラしているようだ。まあ無理もないか。仲良しの飼い主である妹を、僕に取られちゃったんだから。
妹がありすの頬に触れて、やさしく言い聞かせた。
「ごめんね、つい夢中になっちゃった。でもありすのことも好きだよ」
「すっ……すき、なの?」
好きだと言われたとたん、ぽっ、とありすは頬を赤らめた。
じつに単純だと思うけれど、ありすが一番弱いキルワードが、「好き」のひとことだと聞いたことがある。
仕方がないんだろう。
「す、すきっていえばゆるされるなんて、おもわないでね!」
「わかってる。だから態度で示すね。ありす……」
顔を寄せた妹が、ありすの頬にキスした。
それも、つついて離すような軽いキスじゃなくて、唇を塗り当てるような濃厚なキスだ。
「ゆ、ゆうぅぅ、おねえさん、そんなぁ……ちゅっちゅ、すごいわぁぁ♪」
たちまちありすが身をくねらせる。うーん、可愛いかどうか微妙なところだ。
キスを終えると、妹は僕に目配せした。僕はクリームを取りに行く。
妹はありすの顔のそばで、睦言のようにささやく。
「ね、画面見て、ありす」
「ゆぅ?」
そこには、例の白いもちもちに刻まれた、拳が入るほどの穴が映っている。
今またそこに現れた手が、空洞と化しつつある穴の奥にスプーンを差し込んで、クリームをかき出していた。
「もうずいぶんクリームを取っちゃったから、スプーンが届かないの」
「ゆぅぅ? それはこまったわね……」
「だから、しぼり出してもいいかな?」
「あら、しぼればでるの? じゃあしぼればいいとおもうわ」
「そう? ありがとう」
妹は微笑むと、ありすの両方の頬を、手のひらで挟んだ。
「ゆぅ……?」
そして、少し力をこめて、ぎゅっと押した。
画面に映る空洞の奥から、ねろねろとカスタードクリームが出てきた。
スプーンがそれをすくい、持ち去った。
妹が、またありすに顔を寄せてささやく。
「まだまだ出てくるわね、ありす」
「ゆ、そうね……」
うなずこうとしたありすが、ふと、言葉を切った。考えこむような顔をしている。
その間に僕は戻ってきて、ありすの前に皿を差し出した。
そして次の皿を手にして、また立ち去った。
「あら? おにいさん? たべないの?」
「全部食べていいのよ、ありす」
妹が頬杖をついて、うっすらと微笑む。
「ううん、全部食べなきゃダメよ、ありす」
「……おねえさん……?」
ありすが不安を感じたように尋ねたとき、画面に再び人間の手が現れた。
それと同時に、妹がありすの頬に手を伸ばした。
「ゆううっ!?」
妹がありすをおしつぶす。
画面に映る穴から、ムリムリとクリームが出てくる。
人間の手がその大部分をかきとった。
ややあって、僕がありすの視界に現れ、一枚目の皿の隣に二枚目の皿を置いた。
そして妹と二人で並んで、にこにことありすを見つめた。
妹がとびきりのプレゼントをするような声で言った。