出勤前にモーニングコーヒーと洒落込むべく、今日は早めに家を出た。
会社最寄り駅近くの喫茶店は出勤者向けに早くからやっている。
そこでトーストにスクランブルエッグで軽く朝食を取って、それからブラックを
ゆっくり味わおう。
しょせんは大したものではないが、こういうのは気分が大事なのだ。その程度の事で優雅さを味わえるのだから、素直に味わった方が利口だ。
時間は十分にある。
今日は随分と暖かく晴れていて良い気分である。俺と同じように駅に向かう出勤者も何となしに起源良さそうに見える。
橋に差し掛かると対岸の道路に何やら人だかりが出来ているが見えた。
あれは何だろうか。電柱の周りで、十四五人ばかり各々その先の方を見上げている。
よく見ると電柱のてっぺんには一匹のゆっくりがおり、「わからないよー!わからないよー!」と泣き叫んでいた。
本当に分からない。
猫が登って降りられなくなるというのは良く聞く話だが、何で饅頭生命体があんな所に登る事が出来るのだ?
しかし……俺は考え直した。そもそもゆっくりなのだ。饅頭が動き、言語を解するのだ。
それを思えば電柱に登るなど大した事でないのかもしれない。
マンションだろうと這い上がってくる奴らだ。
それにしても、馬鹿は高い所が好きと言うが、わざわざ表現してみせる事もないだろう。
橋を渡り、人だかりに近付くと、その輪の中、電柱の根本にはもう一匹のゆっくりが泣き叫んでいた。
「ちぇえええん!ちぇえええええんッ!」
何やら尻尾のようなものを沢山生やらかしたゆっくりが、電柱を見上げてひたすら叫んでいる。
その顔は傷だらけで、帽子は薄汚れ所々すり切れた後が見える。そして近くにこいつのものと思しき尻尾が二本ほど転がっていた。
俺は不思議に思い足を止めた。そうして人だかりに加わってしまった。
なぜこのゆっくりは傷だらけなのだろう。二匹はどういう間柄なのだろう。
一方の疑問は直ぐに解消された。
真下で泣いていたゆっくりは突然泣き止むと、その場を後ろに下がり、勢いを付けて電柱に突進したのだ。
助走を付けてジャンプし、ゆっくりらしからぬ見事な跳躍を見せ、そのまま電柱に激突した。
傷だらけになるわけだ。
「らんしゃまあああ!」
電柱の上から「ちぇえん」と呼ばれたゆっくりの泣き声が聞こえる。
「らんしゃま」と呼ばれたゆっくりは痛みにぐるぐる回っていたが、そのうち止まってまた泣き出した。
俺は素早く見物人の顔を見回した。
饅頭とはいえ、他者の不幸を見て機嫌良くなる奴というのは気持ちの良いものではない。
まあ俺もよくゆっくりを不幸にしているのだが、それとて仕方なしに投げ込んでいるのだ。
だが皆の顔は真剣そのものだった。老若男女、一様に真面目な顔をしている。
沿線の私立の制服を着た小学生達など、「頑張れ!」と声を掛けている。
世の中捨てたものではないらしい。
まあここの住民はよくゆっくりを不幸にしているのだが。
「らんしゃま」は再び電柱に距離を取った。
小学生のうち一人が電柱に向かって飛び、一歩二歩駆け上がる動作をしてみせる。登り方を教えているらしい。
ゆっくりは再度助走を付けた。
「ちぇええええん!」
今度は角度も良く飛び付く事が出来た。その勢いで電柱を駆け上がる。
そして二メートル程登ったところで勢いが尽きてそのままずり落ちてきた。
頭を地面に打ってひたすら回り続けるゆっくり。今度はさっきより回る時間が長い。
その傍らには新たにもげた尻尾が落ちている。
上の方からは相変わらず「わからないよー!」と泣き声が聞こえてきた。
三回目。
今度は電柱との距離を倍にとって勢いを稼ぐつもりのようだ。
相当早いスピードで電柱に飛び付く。角度も上々。
「らんしゃま」は、これならてっぺんまで上れるだろうという勢いで、電柱に刺さっている足場の鉄棒に激突した。
尻尾が何本かバラバラ降ってくる。
そのうちの一本が、登り方を教えていたのとは別の小学生の頭に落ちてきた。
その子供は帽子の上にのっかった尻尾を手に取りまじまじと見つめ、「おいなりさんだ。」と言って食ってしまった。
「おいしい。」
そんなもの食って大丈夫なのか。
それはともかくとして、苦痛から立ち直った「らんしゃま」はまじまじと電柱を見やっている。
障害物の位置を確認しているらしい。
段々上達しているし、こいつはそれなりに学習能力があるようだ。
見物人は一人として立ち去る者もなく成り行きを見守っている。
会社とか学校とか大丈夫なのか。
四回目。
既に満身創痍な「らんしゃま」だったが、尻尾が減ったせいか俊敏になった気がする。
今度は更に早いスピードで飛び上がって、螺旋を描くようにして電柱を駆け上がっていった。
鉄棒も見事にかわしてゆく。
三メートル、四メートル、どんどん登ってゆく。
そして電線や変圧器などの構造物も難なくかわした。
見事としか言い様がない。
だが回避行動よって勢いが無くなってきた。
九割がた登ったところでほとんど止まってしまった。
「らんしゃまあああッ!」
見物人は、俺も含め固唾をのんで見守っている。ここから落ちたら助からないのではないか?
「もう一息だ」と、全員の心が一つになったような気がした。
「ちぇええええんッ!」
「らんしゃま」は叫ぶと最後の力を振り絞って蹴り出した。
そうして残りの一割を一気に飛び越え、とうとう頂上に辿り着いた。
「らんしゃまあ!」
「ちぇえん!」
周りからは拍手喝采が沸き起こっている。
増えて二十人になった見物人達は、良くやった、頑張った、と皆満足そうだ。
だが全員すぐに不安顔になった。見るとゆっくりは不安定にゆらゆらゆれている。
「わからないよ!わからないよー!」
「わからないよー!」
あー。
あいつも降りるときの事考えてなかったんだな。
電柱の頂点に二匹は狭すぎたようだ。
ゆっくりはしばらくゆれていたが、そのうち耐えきれなくなって、ふっ、と落下してきた。
「わ゛がら゛な゛い゛よ゛!」
「ヴュッ」という生々しい断末魔と共にゆっくりは揃って地上に還ってきた。
「あーあ」と、全員の心が一つになったような気がした。
「ちぇえん」は「らんしゃま」の下敷きになってしまった。
「らんしゃま」は下敷きからころんと転がって、仰向けで「ゆっ……!ゆっ……!」と呻いている。
「ちぇえん」は俯せになって身じろぎもしない。
しばらくすると「らんしゃま」は横目で「ちぇえん」を見つめ、何か語りかけだした。
しかし素人目に分かるが即死である。どうも惨い結果になってしまったようだ。
「行こっか。」
ばつの悪い顔で即死と瀕死の二匹を眺めていた見物人は、小学生を先頭に早々と立ち去っていった。
ここの住民はドライだなあ。
現場には俺と二匹だけが取り残されてしまった。
歩行者が何人かこちらを見たりもするが、特に関心も示さず通り過ぎてゆく。
「ちぇ……えええん……」
「らんしゃま」はひたすら語りかけているが、当然のように反応は無い。
なんだか見るに忍びない姿だ。仕方ない。
死体をひっくり返せば一目瞭然なのだろうが、さすがにそれは酷な気がする。
俺は傍にしゃがみ込んで、既に分かっている事だが、改めて死体を確認してから瀕死のゆっくりに向かって首を振って見せた。
「ちぇえん……」
どうやら理解出来たらしい。手間が省けて助かる。
こいつも尻尾を全部失った上に、頬や額が裂けていて助かる見込みは無いだろう。
俺は立ち上がって右足を上げた。武士の情けとか仏心とか、そんなところだ。
俺を眺めていた「らんしゃま」は怯える事もなく、むしろ急かすように目を閉じた。
間抜けな割に妙に理解の良い奴だ。
止めを刺した後、あの世で仲良くやってくれと思いつつ二匹を川に投げ込んだ。
潰れた死体はすぐさま水に溶けてゆく。
そして俺は駅とは反対の、家に向かって歩き出した。
革靴が随分と汚れてしまったのだ。
こんな格好では会社に行けない。家に帰って靴を磨き直さなければならない。
モーニングコーヒーなどしている時間はもう無いだろう。
俺は陰鬱な気分で家に向かった。
By GTO
最終更新:2009年02月22日 00:24