この仕事が決まった時から浮かない気持ちでいっぱいだった。辺境の田舎町で育った。真宵森は恐ろしい場所だったのだ。その森を焼くなど、いくら街道整備のためとは言えなにか嫌な事が起こる気がしていた。
当日集められたのはごろつきと言ってもいい連中だった。紋入りの鎧が聞いて呆れる。わざわざ森の最奥へ踏み込んでから焼いて逃げるなど、本人達はスリルを求めているというが自分からすると気が触れているとしか言えない。
だが、警備兵である自分が同行しないわけにはいかない。重たい気持ちを引き上げ、彼は森へ踏み込んだ。
真宵森は昼だというのに不気味な静寂に包まれていた。木漏れ日は十分辺りを明るくしていたが、なぜだか気温が低く感じる。
奥まで入り込んだ時、狼の声が聞こえた気がした。まさか噂の人喰い狼だろうか。獣の足音が聞こえる。心臓が冷える。だが、違うあれは…人だ。狼を馬のように乗りこなしている。長身の若い男だ。男は迷いなくこちらへ近づいてくると狼に乗ったまま声を掛けてきた。
「観光に来るような場所ではないはずだが」
枯れ葉の髪に若葉の瞳。まさに森の色彩の男は左目に傷を負っていて歴戦の戦士のような雰囲気を漂わせていた。鋭い眼光で一団を見まわした彼は戦闘の傭兵に視線を合わせた。傭兵はいぶかしげに首を捻りながら男に問い返す。
「…お前は誰だ?」
男は答えず傭兵の持つ松明に視線を移した。
「申し訳ないがこの森の中で火は扱わないでくれるか。今の時間なら松明は要らないはずだ」
言いながら男が傭兵に松明を渡すように腕を伸ばすと僅かに狼が歩を進めた。男のマントが揺れた。瞬間、心の臓が凍りついた。これは、まずい。剣士の端くれとしての本能が一歩、二歩と後ずらせた。男は、この男は。
「…聞けねえなあ!!」
傭兵はふてぶてしい態度のまま、あろうことか男の目の前で藪に持っていた松明を放りなげた。思わず叫んだ。何を叫んだかは覚えてないが焦りが声として飛び出したのだ。こんなタイミングで投げたら逃げ遅れたやつが焼け死んでしまう。しかも、噂が本当なら。
「え」
何が起きたのか。
放り投げられたはずの松明は地面に撃ち落とされ、男の剣が傭兵の首元に付きつけられていた。
手練のはずの傭兵は剣を抜く事もできず、ただ棒立ちで首を落とされる寸前で止まっていた。男の若葉の目が細められた。冷たい視線はまるで小馬鹿にしているようにも見えた。
「森の誇りを踏みにじったその行い、看過するわけにはいかない」
冷えた声だった。傭兵はその声と殺気で我に返ったのか後ずさると剣を抜いて吠えた。
「若造一人と犬っころで何が出来る!こっちは人数がいんだよ」
いいつつこちらを手で指した傭兵は無謀にも男に食ってかかるつもりらしい。勘弁してくれこちらは逃げ出したい気持ちでいっぱいなのに。
先ほど、傭兵に剣を突き付ける一瞬前、男のマントが翻って、確かに見た。まるで虫のような美しい夜色の羽が男の背から伸びているのを。透き羽の妖魔。その言葉が脳裏に浮かんで焦りとなって焦げついた。
だが、意外にも妖魔は力を抜くとふっと笑った。
「…犬っころ、だそうだ」
狼を降りた透き羽の男はそう狼に話しかけた。狼は懐くように顔を上げたと思うと、そのしなった背を伸ばし、立ちあがり、気が付くとそこには狼の姿はなかった。
狼は一人の青年に変わっていた。空色の瞳は冷たく、狼の耳と尾は警戒と怒りからか毛を逆立てていた。青年は男から弓を受け取るとこちらを睨みつけた。
「…そうかじゃあ犬に噛まれたぐらいで泣かねえよな?」
透き羽の男は狼だった青年の言葉に笑みを深めた。ぞっとする笑みだった。殺気と怒りが美しい表情となって表れていた。
もう耐えられなかった。踵を返すと足をもつらせながらその場を逃げ出した。
最終更新:2013年03月22日 13:19