警察署と思わしき建物は暗闇に包まれている。常ならば明かりを絶やさずいることによって責務を果たすそれは、内で動く一人の少女以外に人影を持たなかった。
ああ、とかすかに呟いてその少女、宮藤芳佳は、気づいた時には既に腰掛けていた事務机からゆらりと立ち上がる。
月明かりは真っすぐと窓から差し込んで幼い矮躯の足元に黒い影を伸ばし、それは芳佳の視界の中で、何故だかふらふらと揺らいでいた。
「ああ」
歯を食いしばっているつもりだったのに、内臓から染み出す嘆きとも溜息とも、怨嗟ともつかない声は止まらず唇を割ってでる。口から零れていくそれはひどく刺々しくて、芳佳の身体をがりがりと削りながら虚空へ拡散していった。
知っている人ではなかったけれど、芳佳に意味を持つ人ではなかったけれど、それでも殺された彼女だって誰かと共にあったに違いない。
人を殺すということは誰かから、世界から、そしてその人自身からその人を奪うということ。
そして、それは絶対にやってはいけないこと。
どんな理屈をこねようとも、どんな事情があろうとも、一方的であれ相互的であれ、人が人である責任を果たして生きていくかぎり、犯してはならないはずの境界線。
どうしてああも簡単に?
――幸せな彼女は知らない、人間の死に意味を見いだせる人間がいることを。
どうしてああも無意味に?
――幸せな彼女は信じている、どのような崇高な行為であれ、その過程に命が奪われてしまえば、それが瞬く間に無意味に限りなく近い底辺のそれに帰すと。
どうして、どうして、どうして。
月光が瞬くはずもない。額縁に切り取られた夜空には雲ひとつ見当たらず、然るに揺れる己の影、というのは芳佳の幻覚だ。
彼女は己の影に背を向けて、幽鬼さながらのていを引きずり窓辺に立った。足取りが定まらず縺れた足をそのままに窓枠へ手をかけ、ともすれば倒れかねない身体を支える。
皆を守りたくてウィッチになったはずなのに、飛ぶ力を失い、挙句に目の前の命ひとつ救えない。
傲岸不遜で、それ故に何よりも真っ直ぐで純真な想いは、圧倒的な現実を前にして何もなせず、ただうちひしがれる。
「もう、やらせない」
決意を内に込めて、自分に聞かせるように芳佳は言った。
これ以上奪わせないし、誰も傷つけさせはしない。
翼を失う恐怖によって揺らいだ信念は、放り込まれた唐突な現実によって無理やり固められていく。手のひらに食い込む忌避していたはずの感触、はじめに所持品を調べて見つけた拳銃――ニューナンブM60のグリップの硬質な感触は、まるでその形成を後押しするように芳佳の身体を強張らせた。
背負った影はもう視界にないけれど、多分、まだ揺れている。
○
それがかれこれ十分前の話といったところだろうか。
警察署を後にし島を南下、広がる市街地へ向かうために橋を渡ろうと目指して、そうして芳佳は彼女を見つけたのだ。
こちらに背を向け橋を渡りつつある、絹糸のようにきめ細かい長髪を括った、のっぽの女の姿を、である。
それを認めた瞬間、転がりでるように橋の北側のたもとに立ち、銃を構えたのがたった今のこと。大きな背中に銃口を向けて、芳佳は叫んだ。
「動かないで!」
「…………」
長身は動じない。余裕すら感じさせる立ち振る舞いで両手を上げ、その背中でお次は何だ、と問いかける。
「私は第501統合戦闘航空団所属、扶桑海軍の宮藤芳佳軍曹です。危害を加えるつもりはありません、だから、武器を捨ててゆっくりとこちらを向いてください」
いつも失念する所属をちゃんと言えた、などという現状にそぐわない安堵はすぐにかき消えた。既に諸手を掲げて投降の意を示す女に武装放棄を促すちぐはぐさすらに気付かない芳佳の混乱は、まったく自覚されていない。
そんな彼女の胸中の乱れなどどこ吹く風と、果たして女は振り向いた。
「軍人さんでござるか、これは可愛らしい軍人さんもおったものでござるなぁ」
細いが確かに鋭い眼光を光らせる糸目と臙脂色のかわいらしい制服が実にアンバランスだ。麻帆良学園3年A組の長瀬楓と名乗ったその女性は、まるで焦った様子も見せずに芳佳へ会釈をしてみせた。
つられて返そうとした目礼を、頭を振って慌てて取りやめる。ひょうひょうとした態度へのけん制も込めて睨む眼差しも厳しく、芳佳は改めて拳銃を構えなおした。
――私は軍人だ。わずかな躊躇も許されないこの狂気のゲームで守るべきを守ろうとするのであれば……、危険を先んじて排除するために、彼女の根源が否定するヒトゴロシの武器ですらを振るう必要がある――。
あの少女の死を目撃したあの瞬間にごっそりと抜け落ちた心の穴から、体温がじわとこぼれ落ちていく。
胸内から広がる冷気は、引き金にかけた指を小さく震わせた。
「私は殺し合いに乗っていません。民間人を保護するために行動しています。信じてください、としか言えませんが……」
「ほう」
「……お願いします、私にあなたを、守らせて下さい」
声に震えはない。瞳は視線をかち合わせ、銃口もぶれずに楓の体幹を睨みつける。成程確かに、頼みの内容に対する手段はともかく、その見てくれだけならば意思の固まった行動であると思えるだろう。それでも、その目の奥で燃え盛るいびつに歪んだ炎の影は、何よりも雄弁に芳佳の苦悩を語っていた。
「……守るべきに銃を向ける、というのは、おかしなことではござらんかな?」
「私の後ろに隠れてもらえれば、下ろします」
「それに、ふむ」
「……?」
「芳佳殿の瞳は――」
言葉の途中、その瞬間である。息を呑む暇すらもない、些かの誇張もなく本当に「その瞬間」、楓の姿が橋の上から掻き消えた。
影も形も、そこにいた、という記憶すら曖昧にさせるほどにそれは一瞬の出来事で、そしてやはり「同時」に、彼女は芳佳の真横へ現れた。
「――銃を握ることを、良しとしてはいないようでござるな」
芳佳がその姿を追うどころか驚愕の表情を作ることすら間に合わせず、文字通りの瞬間移動を達成した楓は、芳佳の手を覆うように拳銃へ己の手のひらを乗せた。
ようやく反応を追いつかせた芳佳が楓からよろけるように離れたのを見送って、しかし拳銃だけは巧みに、それを撃ち慣れない小さな手からもぎ取ってみせる。
距離をとり憔悴した瞳で敵愾心を向ける芳佳へ、楓は柔らかく笑いかけた。
○
「このような無粋なもの、芳佳殿のような人を守るお方には似合わんものでござるよ」
「それ、でも」
「ん?」
「それでも、私は、守らなくちゃいけないんだ。ウィッチだから!」
噛みつくように叫ぶ芳佳に楓は片眉を上げた。人を食ったようなその表情に湧くさらなる怒りに任せて、芳佳は続けてその白い喉を震わせる。
「私には力があるんです。それを使って、私はあなたたちを守るんです!」
そんな彼女に向かいたち、楓は得心がいった、と内心頷いた。矛盾と使命と怒りに燃えた瞳のこの軍曹は、このなりで「軍人」だというごっこ遊びという訳でも、そしてただ軍人であるからというだけでもない。確たる歪みを抱えて、そうして楓に銃を向けるという選択をしなければならなかったのだ。
やりたい事、やれる事、あの場所でやれなかった事、これからやらなければならない事。それが根底。
ここまで縛られてしまうほど、彼女には意思と力があるのだろう。それでも、例えそれらを持ち合わせても成熟には程遠い少女を、こうまで追いつめる殺し合いの悪趣味さに、楓は改めて反吐が出る思いだった。
「ふむ」
「長瀬さんも……長瀬さんも私を殺さないってことは、殺し合いなんてする気はないんでしょう? だったらお願い、私にあなたを守らせて……!」
芳佳の叫びは最早懇願だ。力とやらを誇るでもなく、それが存在するということ自体に急きたてられて「為すべき事」をなさねばならぬと凝り固まっている。
きっと彼女はここで救わねば、間違いなくポキリと折れてしまうだろう。どのような形にしろ、それが芳佳にとって悲劇であることは想像に難くない。だから楓は、ここで彼女を救う必要があったのだった。
己の小さな教師を思い出さないでもない姿だ、そう思う。
彼は己の力の矮小さに悩んでいたが、彼女の拗れはあの少年を二歩、三歩進めたものだ。
だからこんなに優しくなれたのかも知れない。歩み寄ろうと、優しく頭を撫ぜてやりたいと……。
「芳佳殿は力がある、と仰られたが……守られる側にも力があったとすれば、どうかな?」
言葉を切り出す。芳佳の怪訝そうな探る視線が飛ぶが頓着はなしだ。
「何を……」
「芳佳殿がウィッチ、つまり魔女だとすれば、実は拙者――忍者なのでござる」
「……はぁ? あっ、いえ、えぇ……?」
ニンニン、なんて擬音がどこからか聞こえてきそうなウィンクと突拍子もない告白。煙に巻かれていると気づけないほどに自然で、肩の力が抜けるほど唐突だったその言葉に、芳佳はただ疑問と呆れの返事をこぼすしかなかった。
手慰みに拳銃を弄びながら、シリアスな雰囲気を一笑に付した楓は気楽な調子で続ける。
「甲賀中忍などという大層な肩書きもあるが……実際はただの世間知らずの小娘忍者にござる。とはいえ腕に覚えがないというわけでもなし、ただ芳佳殿にお守りをしていただくだけでは忍びないでござるよ。忍びだけに」
「で、でも、忍者なんて……」
「そりゃ拙者の台詞でもあるでござるよ。よもやこの科学の時代に魔女などという言葉を聞くことになるとは、いやあ、世の中は広いでござるなあ」
魔法使いは知っているのだけれど、なんて屁理屈は勿論口にしない。悲壮な雰囲気はどこへやら。すっかりフランクなそれとなった空気に困惑する芳佳に、楓はまた微笑みかけた。
芳佳だって、決して愚かなはずがない。賢くて、同時に幼いからこそこんな選択をしてしまっただけなのだ。
だから気付かせてやれば、視野を広げてやればいい。
自分だけではなく誰かを頼ることを。
それさえ自覚できれば、彼女の歪みは容易に矯正できる。元よりその決心は否定されるべきものではない。よい方向へ導きさえすれば、それは本来の輝きを取り戻すのだ。
「…………」
「ま、それはさておき。どうでござるかな? 芳佳殿と拙者、力を合わせて守るために戦う、というのは」
「あ、えと……」
「芳佳殿の“守りたい”という気持ちは決して間違ってはいない。そしてそれは為さねばならぬ事ではなく、為したいと思う事、であろう?」
「為したいと、思うこと……」
「なれば、胸を張るが良い。それは間違いなく、芳佳殿の選択でござる」
楓は再び、にこりと微笑みかけた。
○
私の、為したいと思うこと。
芳佳は口の中で繰り返す。
ああ、なんて素晴らしい言葉だろう。
為すべきことではなく、為したいと思うこと。そこに強制はなく、ただ先への希望と人の意思だけがある純然たる輝き。
それがまごうことない芳佳の望みであったからこそ、彼女は言い出せなかった。
それでは遅いのだ、と。
我が身にはもはやそれだけでは足りないのだ、と。
呪いとなった強迫観念は、光が明示されたことにより身を潜める。
それでもなお、その歪んだ情熱の炎は、芳佳の瞼の裏に焼き付いていた。
こうして魔女と忍者、「守るため」に戦う即席のコンビが、ここに誕生したのだった。
○
――そんな二人が 彼女を見つけたのは、それからまたしばらく経っての事だ。
E-1とF-1のほぼ境、商店が密集するシャッター街の時代に取り残された哀愁を月の光が浮き彫りにするなか、さてそろそろ虱潰しに店舗の中の捜索を始めようかと方針が固まりかけたその時。
調和のとれた絵画に落ちた一点の染みさながらにぽつんと一人、無人の喧騒に包まれて立つ少女を見つけ、そして、彼女の名は呉識あぎりといった。
○
楓が何事か言葉を軽い調子で口にし、若干の硬さが残る芳佳がそれでも笑顔でそれに応じること数度。身の上話ではなく、情報交換をするでもなく、まるで普通の女子中学生のものと遜色ない四方山話。
日常から乖離したそこに似合わない話題は、いくつもシャボン玉のように現れては消えていった。
道中繰り返していたやりとりだった。緊張感のない人だな、と呆れた態度を露骨にしてみせても調子を曲げないあたりを見るに、おそらく楓は自身、芳佳の緊張をほぐす事を優先しているのだ。そんな彼女を嬉しく思い、そして同時に簡単に流される自分への嫌悪が鎌首をもたげる。
そうして相反する思いを野放しに、半ば投げやりになっていたからこそ彼女はすぐに気付かなかった。再び陽気な声をあげようとした楓の声がぴたりと止まったことで、芳佳はようやく目を見開いた。
彼女らがコソ泥よろしく忍び込もうかと、当たりをつけていた店舗の脇から姿を見せた年頃の少女の表情に、喜びの感情が花開くのが月明かりの下でもよく見える。
無理もない。こんなところに一人でいるなんて、想像を絶する恐怖があるに違いないのだ。それも、自身のような力がない人間であるならば、その恐怖はなおさら深いことだろう。
そうだとわかっていた。わかりきっていた。
それでも理性があげる拒否の絶叫に耳をふさぎ、全身を走り抜けた緊張に任せて、芳佳は強張った腕で腿に巻きつけられたホルスターから拳銃を引き抜いた。
掴みどころのない表情の内側にかすかな緊張を走らせ、やんわりと芳佳を静止しようと肩を掴んだ楓を視界に収めず振りほどく。彼女の「やれやれ」と呆れたような呟きを尻目に、芳佳は言い放った。
「――動かないで!」
少女の相貌が、まるで突き落とされたかのような速度で歓喜から悲嘆へと塗り替わる。
――今の私と人殺し、戦争、そしてネウロイ。いったい何が違うんだろう?
かすかな自嘲は瞬く間に瞼の裏の炎に呑まれて散り散りになり、構えた銃握を握りなおす弱い力にかわり、消えた。
諸々の流れは楓の時と同じだった。
違うのは、彼女が戦う力を持たないただの人間であるということだけ。要するに、芳佳が待ち望んでいた“守るべきひと”であるということだ。
ふ、と全身から力が抜ける心地がして、芳佳は銃を下ろす。楓は軽い雰囲気を纏って、芳佳の問答に口を出すことなく立ち尽くしたままだ。
死を振りまくほの暗い穴が地面を向いて、そしてそれはホルスターに、撃たなくてよかったという安堵と共に収められた。
あぎりの顔にほっとした色が浮かぶ。つられて強張った笑みを浮かべる芳佳。
「ごめんなさい、あぎりさん。でもここじゃ、何があるか……」
「いいえ、いいんです。お互い様ですよ」
大人だな。こんなひどい、方法と呼べるかすら怪しい脅迫を信じてくれる人なんて、きっとそうそういない。
今まではどうも焦りに押されてこんな形でしか話しかけることができなかったけれども、若干の落ち着きを取り戻した今となっては我が身の浅慮に恥ずかしさを覚える。
そうだ、こんなやり方は間違っているに決まっているのだ。為さねばならないこと……為したいことは変わらないが、アプローチの方法は他にいくらでもあるはず。
あぎりへと近づこうとしない楓をなんとはなしに倣い、他愛のない話を浮かべながらこちらに歩み寄るあぎりに相槌を打った。
気をよくしたのだろう、表情にまた少し光を宿してあぎりは歩く。
そうだ、私の友達、見かけませんでした?
あぎりのその言葉に改めて彼女を注視して、その手が少しだけ大きくふらついたような気がして、そして次の瞬間。
月明かりを照り返して銀色が二筋、夜を切り裂いた。
○
「……あらら~?」
「やはり、でござったか」
「長瀬さ……、あぎりさん……っ! どうして!」
芳佳とあぎりの間に手を突き出した楓を見て、未だに一片の殺意も滲ませず自身と楓を殺そうとしたあぎりを見て、そして楓の指に挟まれて勢いを失った包丁を見て。
芳佳の悲鳴は、どうしようもない悲嘆の色に染まった。
「どうしてと言われましても……人には色々、事情というものがあるんですよ~」
本性を表した、ということなのだろうか。普通のイントネーションと打って変わって、呑気なほどに間延びした口調であぎりは話す。さながら明日の天気はどうなるでしょう、とでも言うほどに、今しがた殺意を発露させたとは思えない日常的なしゃべり口だ。
「そんな……! 人を、人を殺すことが許される事情なんて、そんなのあるはずありません!!」
「あなたにはなくても私にはあるんですねぇ、これが」
「そんなことって……!」
「落ち着くでござるよ、芳佳殿」
頭の芯がかあっと熱くなり、狭窄しきった視野の中であぎりのみを見つめていた芳佳の肩に、ポンと暖かい手のひらが置かれた。縋るように見つめた先の楓の「大丈夫」と言わんばかりの笑顔に、思わず込み上げた涙が一筋頬を伝う。それをぐい、と親指で拭って芳佳に軽く頷きかけると、楓はあぎりにひとつ足を進めた。
「卑怯ですよ~、そんな強いのを隠してるなんて」
「はっはっは、お互い様でござるよ。それに忍びは、忍んでこその忍びなれば……お主もそれはわかるでござろう?」
あぎりは笑みを深くする。対する楓ものほほんとした笑顔をたたえたままで、彼女の背に隠される形となった芳佳だけがまるで隔絶されたかのように非日常の只中にいた。
空気が重いのか軽いのか、その感覚すら危うくさせる笑顔と、笑顔と、取り残された少女。芳佳の視界にいる二人の忍びが揺らめいて、芳佳の影もまたぐにゃぐにゃと溶けていく。
「警戒されてるなんて思いませんでした~」
「勘でござる」
「私もまだまだですねぇ」
頬に人差し指をあて首を傾げるあぎりの仕草に思わず、芳佳の背筋を怖気が走り抜けた。
この人は、多分、人間が従わねばならない理の外にいる。
○
芳佳の言うところの「理」の外に同じく身をおく楓にすら、あぎりは確かな異常であると捉えられた。日常と非日常の境が曖昧なこの生き物は、間違いなく覚悟を決めている。
奇襲にぴくりとも反応しないところを見ても、芳佳は間違いなく戦闘における足枷だ。この生き物と刃を交えることになれば、こちらは非常に不利となる。
おくびにも出さず冷や汗をひとつ流して、楓はからかうように言った。
「日々之修行でござるよ、あぎり殿。拙者も学生の身ゆえ、充分な鍛錬を積めているとは言えんでござるが」
「学生さんなんですか~? てっきりコスプレかと」
「……まあ、そぐわぬとは自覚しているでござる……」
「温い環境におられるんですね~……私も人のこと言えませんけど」
「そうでござるなぁ。良き友、可愛らしい師に素敵な学び舎……そして、守るべき主と培った術をぶつける事のできる、敵」
お主のことでござる、と含んだ笑顔で、楓は言外にそうにじませる。
「一介の忍びには過ぎるほど、それはもう恵まれた環境にござるよ」
口角を持ち上げ、今度ははっきりと、に、と笑いを作る楓。柔らかい印象を与えるはずの笑みはどこか不敵だ。
しばしの沈黙。命のやり取りをするだなんて到底信じられない穏やかな雰囲気のなか、口を開いたあぎりの返答は、さながら開幕を告げる鐘の音だった。
「……私、あなたのことが好きになれそうにないです」
脱力しきり、ただ垂れ下がっているだけだったあぎりの手にナイフが現れたのも僅かに、その刃は楓と芳佳へ、空気を割いて疾駆する。
二本の軌跡を引いて駆けるそれらは、しかしその本懐を果たすことなく、甲高い金属音とともに地に倒れ伏した。
何の事はない。勘付かれることなく奇襲を成功させたあぎりもさることながら、表情を崩さずそれを打ち払った楓も相当な手練れであると、ただそれだけの話だった。
「芳佳殿、一旦引くでござるよ!」
ほぼ同時に、楓は芳佳の元へ、あぎりは真横に駆け出した。楓は自らを追うように再び走るナイフを空中で器用にひとつ拝借する。余裕、と言わんばかりの笑みを崩さない楓は、だがその実舌打ちを漏らさないことに苦心していた。
(誘い込まれた、でござるな)
楓が芳佳を守って行動することを始めから読んでいたのだろう。一見無意味に見える牽制と、楓の影に隠れた芳佳を狙う――楓に躱す事を許さない軌道のナイフ投擲。それらが相乗して楓の逃走経路を絞り込む。
(敵ながら天晴れ、といったところか)
何事かを喚く芳佳の腕を掴んで細い路地へ走り込む楓。エアコンの室外機や朽ちかけの看板が煩雑に放置されたそこを、
「失敬!」「きゃっ」
判断を切り替え芳佳を抱きかかえて彼女は走り抜けた。
(そして誘い込んだ以上、ここには――)
潜り抜けるには隙間が足りず、いつの間にやら脇の店舗の屋根を駆けるあぎりの存在によって飛び越えることも叶わない、行方に幾重にも張り巡らされたテグス……暗がりにもはっきりと浮かび上がるそれを切り捨て、楓は改めて確信する。
(初めから、という事でござるな……!)
進行方向のやや先を目掛けて、喧しく降り注ぐ瓦礫――この狭い路地で引き返す隙を作れば屋根伝いにこちらを追うあぎりの攻撃に晒され、さりとて甘んじて受け止める訳にもいかないそれを、彼女は一気に加速して潜り抜けた。行く手を阻む幾多の鉄線をものの数とせず断ち切り、そして自ら障害を増やさねばならない状況にどうしようもなく漏れてくる舌打ちは、最早飲み込む事すらできない。
「長瀬さん……!」
「しっかり捕まっているでござるよ!」
次なるトラップ、ガス圧によって吹き荒ぶ鉄片と釘、簡易な破片手榴弾と化した日常の残滓は芳佳を抱きかかえた楓に殺到する。行く手を阻むそれらを睨み据えて、彼女は走った。
○
手を替え品を替え襲いくるブービートラップの数々は、抱えるもののない日頃であれば、それこそ表情をそよと揺るがせる事もなく切り抜けたものだったろう。
高度なツールがある訳でもない、ちょっとした日常用品で作り上げられねばならなかったそれは、しかし足手纏いを抱えた楓相手に十分過ぎる戦果を挙げていた。
反撃に出るいとまも、一息つかせる余裕すらも与えないほど綿密に設置されたそれらをやっとの思いで掻い潜り、商店街を貫く太い路地へとたどり着く。
天高く伸びるタワーを背に、闇のなかに広がる山間部を上に見て伸びる緩やかな坂道。両脇に続くアーケードは、見れば街が本来あるべき姿を思い起こさずにはいられない。
そんな平和な日々からシャッターを閉ざし、ありがちなアーチ型の天井をもたない商店街は、満天の星空と自らに並んで連なる街灯たちに見下ろされてどこまでも伸びていた。
「芳佳殿、怪我は!」
「長瀬さんこそ……! ダメです、止まって!」
細い路地を抜ける一瞬前の、なり振り構わず、といった猛攻を鑑みるに、恐らくこの太い路地にはトラップが仕掛けられていないのだろう。素人目にも罠を置くには広すぎる道であると思えるし、ここに抜けられることを危惧していたから仕留めにかかっていたことは明白だ。芳佳にすら理解できる単純な理屈だった。
そして同時に、だからと言って休息を取れるような状況でもない。ここで足を緩めればじり貧の防衛戦が待っていることも、また明白なのだから。
楓は芳佳に応じずなお走り続けようとする。ペースを緩めた足音が続き、道の中ほどにまで来たところで、それは突然リズムを崩した。
「くっ」
「長瀬さん!!」
劈くような芳佳の絶叫。つんのめった楓の体から赤色が放物線を描いて飛び、血液がパタパタとアスファルトと芳佳の耳朶を打つ。芳佳は楓の腕から無理やり飛び出し、その弾みにとうとう膝をついた彼女に駆け寄った
「長瀬さん! ひどい……!」
「いやぁ、失敗したでござる。芳佳殿、走れるならば先に……いや、そこに隠れてーー」
「ダメです、じっとして」
楓の脇腹に深々と突き刺さるのはどこの家庭でも見かけるような包丁だ。
バネ仕掛けさながらに跳ね上がるよう細工された棒に括り付けられ、鎌のような外見で襲いきたそれは、芳佳を庇わんとしたことと上空の敵によって、避けることも許さず楓に牙を尽きたてていたのだった。
芳佳は歯を食い縛って楓のわきにしゃがみ込み、柔肌から生える包丁を見据えてさらにその顔を険しくする。泣き出す寸前の少女と歴戦の兵士の貌が奇妙に同居するそれを、敵と自分と、取り巻く全ての現実を憎んだ憤りの炎の舌がちらちらとなめた。
「抜きます」
「いや芳佳殿、それを抜かれると出血がーーぐッ」
低く短く告げ、柄すらをねじ込もうとしているかのように限界まで突き刺さった包丁に芳佳は手を添える。彼女の意図を知らない楓の慌てた静止も間に合わず、それは血飛沫と共に抜き放たれて、炊事という日常と殺人という非日常の堺を曖昧にする姿を露わにした。
○
楓は咄嗟に空を噛み締め、電流のように流れた激痛をやり過ごす。そうして息つく間もなく芳佳を怒鳴りつけようとした矢先のことだ。
視界に、初めて見る光が瞬いた。
「芳佳ッ……ど、の? ……これは……」
「治します、動かないでください」
温かみすらを感じる青い光、そして痛みが失せじくじくと何かが蠢くような感覚の傷口。
珠のような汗を浮かべた全身から、そして傷口に軽く添えた手から一際強く青い光を発する芳佳は、治します、と繰り返して呟いた。
治します。守ります。私が、この力で。
現実の埒外にある光が、鬼気迫る、と言わんばかりの芳佳とは真逆に、慈しみの感覚を残してじわりと染み込んで行く。
呆気にとられて目を見開く楓の探るような視線にむず痒さを覚えたのか、芳佳は必死な表情に重ねて強張った笑みを浮かべた。
「言いましたよね、私は“ウィッチ"だって」
強がりにも満たないただ意地が発する言葉。誇らしさの欠片もない、状況に追い立てられ、責任に押しつぶされそうになりながら揺れる瞳に楓は返す言葉もない。
なればこれは、同時に楓の責でもあるのだった。
偶然の連続がどれほど意地の悪いものであろうと、その瞬間ごとに背伸びしたがるこの少女を守ることができる最善の選択肢があったはずだ。だのにそれを選び取れなかったのは楓の弱さで、だから彼女は芳佳を今更たしなめることはできなかった。
できることは自己嫌悪を見せない事だけで、楓は茶化すように零した。
「成る程、これが芳佳殿の力の正体。魔女の魔法という訳か」
「まだまだ半人前ですけどね」
「なぁに、あっちは一人、こっちは二人。拙者も一人前ではござらんが、芳佳殿とならば二人前にも三人前にもなるでござるよ」
「おだてないでください」
「フフフ」「えへへ」
芳佳が楓の内心を汲んだかはわからない。硬い表情を僅かに崩して、ほんの少しだけ弛緩した空気が漂い出す。
それが救いと思える自分に、楓はなにより虫唾が走った。
○
いつでも飛び出せる姿勢へと楓は居住まいを正し、そして芳佳は常に比べて格段に落ちている魔力効率に疑問を浮かべながらも治癒に全力を注ぐ。
余裕ぶったこの人でも焦るのだな、と警戒の視線を巡らせる楓の横顔を意識の端に置きつつ芳佳はそう思う。
嫉妬からくる無様な感動に、もはや自嘲のひとつすら湧いてこなかった。
「――あの人は、あぎりさんはどうです? 近くに?」
「見当たらないでござる。気配もない……」
「でも、追ってきますよね」
「間違いなく」
手負いの獲物を見逃す道理はない、と呟く楓の言葉に芳佳は焦燥を深める。思うように進まない治療に、彼女はひどく苛立っていた。
これしか出来ないのに、その唯一すら捗らない。
やらなきゃ今までの全てが否定される。受け継いだ願いも、自らが目指した道も、一切合切全てだ。なにを守るために立ち上がったのか、その意識すらも揺らめいた炎に飲み込まれて今は見えない。
「芳佳殿、拙者は動けると思われるかな?」
「……っ」
「己の身体は知っておかねばならんでござるよ。内蔵がやられているようでござるが……」
「……刃は腎臓まで達しています。他の臓器も……」
自分を抱えていたせいで、という言葉を飲み込み芳佳は唇を噛み締めた。
この状態で戦闘行為に及べば楓は遠からず死に至る。いつもならば時間をかければ間違いなく完治させることの出来る傷だが、襲撃者の脅威に怯える状態では明らかに時間が足りない。
吐き捨てたくなるほど遅い実感が、急速に全身に浸透していく。
私がいなかったらこんなことには。
そんな思いが、行き場のない胸中をぐるぐると駆け回った。
「芳佳殿――」
楓が芳佳に伸ばした手は届く事なく固まった。不自然なその挙動を視界の端で捉えていた芳佳も、治療の手は休める事なく傷口から視線をあげる。泰然とした楓に似合わないすり減った表情で睨みつけるその先には勿論――。
「あらあら……致命傷だと思ってたんですけどねぇ。なんの手品ですか~? それ」
月明かりを拒絶する建物の影、全てを飲み込むそのなかにあってすら闇をも拒む小さな人影。
名前以外に知るところのない、ただ明確な殺意をもって襲いくる呉識あぎりの姿が街灯をスポットライトに、そこにはあった。
○
「意外とお元気そうで~」
「お主の素敵な贈り物のおかげでござるよ」
嫌味なほど――事実、嫌味なのだろう――に冷静な言葉が響く。女性らしい丸みを帯びた声だというのに、何故だか底冷えするようなそれだ。
視界に捉えたはずの彼女がふらりと動いて闇に溶ける。楓が応じた軽口は届く先を失って、霧散するように暗がりに広がった。
「あら~、お礼なんていいですよ~。大したおもてなしも出来なくて、私としてはむしろ不満なんですし~」
「いやいや、充分でござるよ……芳佳殿、出血を止めるだけでいい、頼むでござる」
叩かれたように体を強張らせ、芳佳は深い闇を探っていた視線を楓に向けた。月明かりの視界にもはっきりと映る疲労の色の濃い彼女の目には、決死の覚悟が浮かんでいる。
咄嗟に、駄目だ、と断言出来ない自身への怒りと、今更偽善ぶろうとする己の醜さに弾かれて芳佳は口走った。
「でもっ」
「その子、傷を治せるんですか? はぁ~、それは不思議な手品ですねぇ」
“でも"、一体なんだというのだ。闇夜の淵から染み出るように割って入った茶々に安堵すら覚える。
月光と物影のラインに隔てられた向こう側は異世界で、それに溶け込んでいるあぎりは、きっと理解の及ばない闇の住人だ。
ふと、愚にもつかないファンタジックな妄想が芳佳の脳裏を掠めた。
「心配ご無用、ちゃちゃっと済ませてすぐに戻ってくるでござるよ」
だがそれも一瞬。芳佳の確信は「己の限界」という絶望と共に訪れた。
施された制限によるそれという偽りの限界だとはいえ、決死を誓わせてしまうほどに力が及ばなかった事に変わりはない。
最初の彼女に続いて、まただ、また間に合わない。
あれ程毛嫌いしていた銃を握ろうという決意も、父との約束も、“為したい”という想いも、現実の前には等しく脳を走る電気信号でしかあり得ないそれらは、こうして何事も為せず否定された。
駄々をこねる子供のそれとなんら変わりない暖かな雫が零れて、体の熱はその分だけ無慈悲な今に吸い取られていく。
そしてそれを拭う大きく暖かい指がないことに、彼女の確信はより強まった。
――この人は死ぬつもりだ。他の何でもない私を、本当ならば守る側でなければならないはずの私を、守るために。
「……応急処置しか出来ません、お願いだから無茶は……」
私が奪うのだ。楓と共にあるべき人たちから、世界から、楓自身から、私が彼女を奪うのだ。
これではマロニーと何も変わらない。
守らせてくれなどとどの口で言えたことか。
全てが水泡に帰した。正真正銘、掛け値なしの芳佳の全てが、なんの余韻も残さず消え去った。
「ダメですよぉ人を無視しちゃ。イジメ、カッコワルイ♪」
がらがらと崩れる心の音に被せるように声が聞こえた。懺悔の時間も涙にくれる救いの時間もないまま、現実はやってくる。
○
以前にあぎりの姿を認めた、楓が死線を走り抜けた路地から二件左の店舗の影――緩い坂を駆け降りるように、殺意がひた走った。
それを直前に察し、未だ柔らかい光を放っていた芳佳を押しやり、以前に鹵獲したナイフを振るって楓は飛来した刃物をはたき落とす。
無論、それで攻撃は終わらない。ジャブの次はストレートと相場で決まったパターンをなぞるように、続く一撃は白月の元にその身を晒したあぎりの突撃であった。能面を彷彿とさせる薄い笑みを貼り付け、地を這うと見まごうほどの低い姿勢で彼女は走り寄る。
何が良いのか考えることすらおぞましい「あわよくば」を狙った二本の牽制を打ち払い、間を置かず楓も、辛うじて止血を終えた脇腹の引き攣るような痛みを無視して迎撃に坂を駆け上がり出した。
皮肉なことに、先の口論の応酬にあった「培った術」を見せることはできない。脇腹と背後に庇うハンデのおかげで、恐らく小手先の技術は出そうとした瞬間に芳佳の死と引き換えることになる。
敵意を向けられたあの瞬間に撤退するべきではなかった、余力のあるうちに潰しておくべきだったのだ。生ぬるく優しい日々に浸りすぎていたことと、その生活を彷彿とさせる芳佳が隣にいたことで判断を誤った。
彼女がきっと立ち直ってくれるはずと過信したことも痛い。展開が早すぎたこともあるが、それは前述にもある通り己が守ってやらなければならなかったことだ。
報いだな、と苦笑がこぼれる。雑念が楓の胸中に身を結んだ瞬間、二人の忍びは交錯した。
重力の助けも得て、順手に握られた包丁が楓に降り注ぐ。
彼女の体を狙った本命の剣筋を見抜いていなし、逆の手に握られた包丁をナイフでうち払えば、さあここからは楓のターンだ。
無茶な負荷に耐えかねた楓のナイフが、折れ曲がり用を成さなくなるが構わない。防具の類もないように見受けられるし、膝うちでも打ち込めばそれでおしまいなのだから。
ぐ、と脚に力を込めたその瞬間だった。僅かな高低の優劣を覆すために、ほんの少しだけ硬直が長かったこと。それが楓にとって問題であり、あぎりにとってまたとない好機であったのだ。
コンマ以下の攻防の先か後か。ほんの少しだけ大きな足音――踏み切り音が芳佳の鼓膜を叩いた。人智を超えた戦闘をただポカンと見るしかない彼女にはそれすらも区別がつけられない。
ただひとつだけ確かなことは、
「もらいましたぁ」
楓を飛び越えたあぎりが手に新たな刃物を携え、もはや遮るもののない芳佳の正面の中空にその姿を見せていたことだけだった。
○
見事にしてやられた、とほぞを噛むのは、ほんの一瞬前まであぎりと対峙していたはずの楓だ。
両腕に外向きのベクトルを与えて防御に用いたため引き戻す間がなく、楓に己を飛び越えるあぎりを妨害する術はない。
その背を押すように肩を足蹴にしてさらに加速したあぎりを歯噛みと共に見送った楓は、しかしまだ己という防壁を失った芳佳を諦めてはいなかった。
「させんっ」
ナイフを手放し、勢いを殺さず進行方向を逆へと捻じ曲げる。振りかぶられたあぎりの手からは、まだナイフが離れていない。
方向転換に奪われた時間と、そこで稼がれた芳佳への距離を清算すべく、体内を脈動する力を一瞬だけ片足に込める。あぎりは手を振り抜き、そこから離れたナイフは迷わず芳佳へ飛ぶ。
大地を抉るような足音が響き、楓は未だ宙を舞うあぎりの下を潜り抜け、事もあろうに芳佳を狙うナイフに“追いついた”。
神速の攻防のなか、あり得ない、と言わんばかりにあぎりの能面にひびが入る。それも、傷口の下にじわりと広がる内出血の感覚もすべて無視して、芳佳の目前で得た得物を構えて楓はあぎりへと向き直った。
彼女の身体にはもはや一刻の猶予もない。着地し再び駆け出すあぎりを睨みすえ、楓は地を蹴った。
○
目まぐるしく攻守を入れ替え切り結ぶ二人の手元は到底芳佳に追えるものではない。ネウロイとの戦いがまるで児戯とも思えるような高度な戦線は、芳佳がへたり込む脇を抜けて坂道を下っていく。
ある種の芸術とすら呼べるようなそれは、しかし彼女に一切の情動を与えなかった。
銃がナイフと包丁に替わっただけ。これは芳佳が最も嫌うただの殺し合い、戦争に他ならないのだから。
「駄目、だよ」
あぎりが害意をもって行動していた以上、遅かれ早かれ戦闘は起こっていただろう。それでも彼女がいなければ、楓が命の危機と隣合わせのまま戦いに身を投じることはなかったはずだ。
要するに、はじめから間違っていたという訳だ。
状況に否定されるまでもなく、全てを守るという、その選択の時点で、間違いが始まっていた。
「殺し合いなんて」
守りたいから。だから大嫌いなはずの銃を手にネウロイとの戦争を始めた。この胸糞の悪い殺し合いがそれとは何の関わりもない戦いだとしても、その芳佳の根底にはやはり何の関わりもない。
「絶対に駄目」
現実から目を逸らさずありのままに自身を晒す宮藤芳佳は、もはや狂っていた。あるいは同時に、これまでになく正気であった。
震える脚に鞭打って立ち上がる。
私は守らなきゃならない。希望を与えて笑顔を守り、悲しみをまき散らすものと戦うウィッチでなければならない。
わたしは、けっして、まもられるものであってはならない。
――なにより深く、呪いのように染み付いた一言こそが芳佳そのものであった。
「その力を、多くの人を守るために」。
瞼を下ろせば闇のなかにちらついていた炎は、その言葉に端を発している。
がきんと響いた刃物が噛み合う金属音が、それを一際大きく燃え上がらせた。
○
芳佳が駆けだすとほぼ同時に、楓が空中へと身を投げ出した。芳佳にとってはその意味もそこに至る流れもまったく与り知らぬ話ではあったが、そうして晒した隙が、楓に対して坂の上のポジションを確保し、いつの間にか落としていた己の支給品――拳銃を握り締めていたあぎりにとっては、千載一遇の仕留め時だった。
だから、大地を蹴って飛んだ。楓を庇うように射線上へ身を晒す。
同時に展開しきった魔力シールドの向こうで、底の見えない瞳が青色に照らされているのが見えた。
きっと背中では、細い目が驚愕にめいいっぱい見開かれている。
時間の流れが遅くなったかのように、芳佳の目に写る全てがその動きを緩慢にしていた。
宙を流れていく自分の体。
今にも引き鉄を引かんと張り詰めた彼女の指。
後ろの彼女は何をしているのか、首を回すことも叶わない身には知ることができない。
銃口と楓を結ぶその直線。
永遠のように間延びした時のなか、芳佳がそれに割って入り、シールドの中心が重なったその刹那。
全てが始まり、同時に全てが終わった。
○
ばぁん。
○
音も光も、一切の前触れなく芳佳の背中に激震が走った。
痛みはない。ただ凍えた灼熱だけがいっぱいに広がって、間を置かずすぐ消えた。脊椎を正確に穿った訳でもないライフル弾は、しかしごっそりと彼女の神経をえぐり取り、そもそもそれを感じる仕組み自体が失われたためだった。
ああ、こんな時までも、私の影は定まらず揺れている。
そんな思考が最後に掠めて、芳佳の意識は、ようやく届いた銃声の余韻が消え去るより早く、境界線の向こうの暗闇に沈んだ。
○
腹腔に響く銃声が届いて、ようやく楓は我に返った。
「……芳佳、殿ッ」
手遅れだ。一拍おいて強烈な鼓動が肋骨を叩く。
改めて考えをまとめるまでもない。狙撃と思しき一撃を背中に受けた小さな身体は千切られて上下を泣き別れにし、未だに宙を上半身が舞っている。
衝撃に引かれてくるくると廻るそれが楓に対面し、もう何も写すことのない虚ろな黒が彼女の瞳を覗き込んだ。
――こんな馬鹿な話があるか。
彼女がもつ希望は、望みは、例え歪んでいても輝きを放つはずのものだ。
守らなければいけないもので、失われてはならないものが、こんな風に無意味に散っていいはずがない。
たった今、ただの感傷でしかなくなってしまった希望を追い求める心に従って、楓は肉塊に手を伸ばした。
飛び散るその残滓は、指先に触れたそばから熱を失っていく。光をつかむことはできず、それは加速度的に無明の闇へと還っていく。
そうして、側頭に突き刺さったナイフについぞ気付くこともなく、長瀬楓は宮藤芳佳の後を追った。
○
最終更新:2012年07月05日 05:58