合わせ鏡というものがある。
二つの鏡を並行に置くと、鏡の中に鏡が無限に現れるというものだ。
私は、前から疑問だった。
鏡の中の鏡に、自分が合わせ鏡の一つだと知る術があるのかということだ。
「よし、1時一分前ダ、繋ゲ。」
「ああ。」
俺はズボンのポケットの中でカードデッキ、『オーディンのデッキ』をいつでも出せるように掴みながら片手でパソコンのエンターキーを押した。鬼ごっこが始まって約一時間、今からは時間が来しだい『鬼』と一部の『子』に支給されたスマートフォンが使えるようになる。これでこの沖木島にいる主催側の鬼がすべき業務の大部分が終わり、あとは随時の監視と『上役』への報告だけだ。
「始まったか。」
「……」
その『上役』から声をかけられたというのに、ツノウサギは口を開こうとしない。その目が俺を見る。代わりに話せってことか。
「ああ。アンタの言ったとおりカードデッキは配った。浅倉威も『親』として参加している。」
事前の打ち合わせで聞かされていたことを言うと、その『上役』――神崎士郎は温度のない目で俺を見て一度頷いた。
俺の名前は荒井。鬼だ。それ以外は何も知らない。記憶がないらしい。頭に霧がかかったような感覚で、ハッキリとしたことは何一つ思い出すことはできない。それで不自由を感じたことがないことが記憶が無いことの証明かもしれないが、失くしたものの大切さは失くしてから気づくというし、本当に記憶があったのかそれが大事なものかは俺に確かめる方法は無い。確かめたいという意志も希薄なのだろう。
俺は気がついたときにはこの『合わせ鏡の沖木島』で仕事をするように言われていた。断る理由もなかった。腹も減っていたし、飯が出るというからだ。周りの連中に人間らしい奴が少なくて、自分が鬼だということに自覚が出たのもこの時だ。なぜか俺は幹部待遇らしかったが、貰えるものは貰っておけと思った。気にかかったことはそのぐらいだ。後は……強いて言うなら、ここが地獄で、その中のミラーワールドとかいうもんの更に中のミラーワールドらしいということが、話がややこしくて印象に残っている。地獄→ミラーワールド→ミラーワールドの中のミラーワールドという入れ子構造らしい。けったいな話だ。そしてそのミラーワールドの管理を担当しているのが神崎士郎という男だった。
神崎は不思議な男だ。こいつは鬼ではないらしい。だが人間でもないらしい。地獄での序列にも加わっていないらしく、だが俺や同僚のツノウサギより格上らしい。御雇外国人というやつか。なんでもミラーワールドを作れるのはこの男だけで、ツノウサギ曰く、『神崎よりもっと上』が神崎にミラーワールドの中のミラーワールドでの『鬼ごっこ』を提案したらしい。全部ツノウサギからの受け売りなので信頼できる情報かはわかったものじゃないがな。
受け売りと言えば、もう二つ。奴に珍しく真剣な口調で言われたことがある。「神崎士郎には気をつけろ」と、「何かあったらコアミラーを壊せ」だ。冗談を言っているようには見えなかったが、前者はともかく後者は正気とは思えない話だ。この沖木島は、地獄のミラーワールドのコアミラーによってのみ出入りができる。これが壊れればこの『内側のミラーワールド』と地獄とを繋ぐ『外側のミラーワールド』が崩壊し、この世界に閉じ込められるハメになる。俺達がここに缶詰になっているのもそれを防ぐため、ショッピングモールとの出入り口の向かいにあるあの扉の先に安置されたコアミラーを保全するためだ。厳密にはライダーに変身することでも『外側のミラーワールド』には出られるが、そこから更に外側の地獄に出ることはできない。出ようとしても合わせ鏡の中の鏡に飛び込むように、またこちら側の、『内側のミラーワールド』の世界に戻ってしまう。つまりここから元の世界に帰るには、内と外の二つのミラーワールドと地獄の合わせて三つから抜け出る必要がある。ミラーワールドどうしは合わせ鏡としてループし続けるため、不正な手段での脱出は極めて困難だろう。しかしいったいなんだってこんなに厳重なんだ?前回の鬼ごっこで脱出されたらしいがそれがそんなに気に食わなかったのか?それにあの霧、いったいあれはなんだ?どこから出てくる?それとリザーバー、特に『鬼』役の人選。明らかに何人か鬼ごっこを破綻させかねない人間の名前が上がっていた。なぜわざわざそんな奴らに声をかけた?
「以後も何かあれば報告する。それと改めて言っておくが、アンタはなるべく『内側のミラーワールド』に顔を出さないようにしてくれ。」
「……」
神崎は俺を一瞥すると開け放していた奥の扉の先にあるコアミラーに滑るように入り、消えた。
俺とツノウサギは目配せすると、扉を閉めるために動く。この扉、銀行の金庫室にあるようなもので、鍵を開けるにも閉めるにも同時に二人で動かす必要がある。四人の主催側の鬼が持つ鍵はいずれも同じだが、このことで万が一鍵が盗まれても参加者が脱出できないようにしているらしい。命がけの場で信頼の置けるタッグを組める奴はそうはいないから、というのが理由らしいが、果たして本当にそうだろうか?
「フゥ〜、行ったカ……」
傍らで露骨にホッとしているツノウサギからして、鬼達は神崎を相当警戒しているようだ。だったら鬼ごっこなんて開くな。
「……腹が減ったな。」
まあ、いい。俺にとっては、食い扶持があればそれでいい。俺にデッキが渡されているということは、ここも荒事に巻き込まれる可能性があるということだろうが、ようは殺せば良いのだろう。『鬼』だろうが『親』だろうが『子』だろうが――
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(なんだ、この感覚は?)
手を開く。いつからか、デッキを握り締めていたらしい。手汗が気持ち悪い。そしてその不快感より強く感じる、何かを忘れているという感覚。こんなに強く何かの感情を抱いたのは初めてだ。
「――この鬼ごっこ、どうなると思う。」
俺はツノウサギに聞いてみた。答えは返ってこなかった。
最終更新:2018年08月02日 01:28