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延暦寺 - (2012/07/12 (木) 00:18:46) の編集履歴(バックアップ)
- 良源の定めた「二十六箇条起請」に「籠山僧、内界地の際を出づべからざる事」という項目があり、
その中で延暦寺の結界を以下のように定めている。
「東は悲田を限る、南は
般若寺を限る、西は水飲を限る、北は
楞厳院を限る この外これを出づべからず」
- 最澄が天台宗の教えによる国家鎮護のために作った、法華経一千部を安置する宝塔のうち、
比叡山の近江側に建てられた「日本国総安鎮」近江宝塔院を東塔院、
比叡山の山城側に建てられた「日本国中原安鎮」山城宝塔院を西塔院という。
- 十四世紀成立の『渓嵐拾葉集』によれば、延暦寺内において
「医方」「土巧」「算術」「兵法」が教えられていた、と。
(zsphereコメント:地方に下った僧が民衆に、病気平癒や土木工事を期待される場合もある。
つまり、延暦寺が単に仏教の教理を教えるだけでなく、
寺院経営の実践的ノウハウを教える養成所としても機能していたということ。
と同時に、延暦寺が当時、宗教だけでなく「科学」のセンターでもあったということ)
「日本の最高の大学であったのみならず、都の政治に関して絶対的支配権を持っており、
同所にはおびただしい寺院がああり、非常に尊敬され、かつ学問と信心によって高名な仏僧たちも少なくなく、
古来、つねに歴代の国王から深く敬われてきた。そして日本で流布している既存の宗教以外の教えを
都の市街で弘めることは、比叡山の允許と承認なくしては絶対にできないことであった」。
参考文献
『僧兵 祈りと暴力の力』衣川仁
『京を支配する山法師たち』下坂守