のちの根本中堂にあたる根本薬師堂、経蔵、文殊堂の一乗止観院が建てられた。
それから七日後の6月十一日、比叡山寺の大乗戒壇に勅許が降りる。
- 823年(弘仁十四年) それまでの寺号「比叡山寺」を改め、延暦寺の寺号が許される。
- 935年(承平五年) 延暦寺に火災が発生し、根本中堂を含む多くの伽藍が焼失。
940年二月二十四日、尊意は七十五歳で入滅。
その翌日に将門死亡の報が都へ届いたことから、
尊意が命と引き換えに調伏を成し遂げたと噂が立つ。
この祈りの後、忠平の子
藤原師輔の娘安子が皇子
憲平親王を出産し、
良源が師輔の信頼を得る契機となる。
- 966年(康保三年) 延暦寺で火災発生。講堂、文殊楼など東塔の主要堂舎が焼失。
- 970年(天禄元年) 七月、良源、「二十六箇条起請」と呼ばれる延暦寺内の寺院法を制定。
- 974年(天延ニ年) 祇園社を末寺化(『日本紀略』)
慈覚大師門徒が、関白
藤原頼忠邸に集結。補任の取り消しを訴える。
延暦寺における強訴の初例。
智証大師門徒の天台座主補任に反対した慈覚大師門徒が
天皇の勅使を追い返し、宣命を破り捨てる。
- 993年(正暦四年) 七月、観音院住僧成算、比叡山麓の赤山禅院に集団を派遣、襲撃。
同年八月、この件で叡山慈覚大師門徒が成算、
およびその師
勝算(
余慶の高弟)と決裂。
『扶桑略記』によれば千手院、蓮華院、仏眼院等の寺院や房社を焼き払う。
これにより智証大師門徒の山上拠点がほぼ壊滅状態となり、
千人規模での下山を余儀なくされ、以降
園城寺に入る事に。
(山門派と寺門派の分裂)
寺の領域内に馬に乗ったまま入ろうとしたため、起こった延暦寺僧らから
飛礫による襲撃を受ける。
翌月、道長が病に伏すと、その原因を「山王の祟り」とする噂が発生。
また病気平癒の祈祷の依頼を受けた権僧正
慶円が
「このたびの事は山王の祟りだとの夢想があった」ため修法を辞退している。
- 1013年(長和二年) 四月、延暦寺の僧遍救(へんく)、自らの僧房で護摩を行っている最中、
刀杖、弓箭で武装した四十人余りの者が乱入、房内の仏像、経論が破壊され、
雑物が奪われ、護摩壇が「糞穢」で塗り汚されるという事件が起こる。
遍救自身は谷底に身を隠したため無事だった由。
当時の記録によれば首謀者は懐寿という延暦寺の律師で、
遍救の護摩が自分を呪詛したものであると主張して襲撃したという。
- 1020年(寛仁四年) 九月、女人禁制の比叡山に「狂女」が登る。
東塔の総持院周辺を歩いているところを僧たちに取り押さえられたという(『左経記』)
これに反発した山門衆徒が、三井寺僧が戒壇に登ることを拒み、
また同時期、明尊による三井寺への戒壇建立が許されず、
以降山門と寺門の抗争となる。
東寺末寺である多度神宮寺の乗っ取りを平正衡(まさひら、
平清盛の曾祖父)と
共に企てたという。
- 1079年(承暦三年)六月、祇園検校の人事をめぐるトラブルで「叡山僧徒千余口」が
祇園社に集結、訴えへの応答なくば「天神」参詣のため入洛すると迫る。
『大御記』六月二日条によれば、このうち二百人ほどが甲冑、弓箭を
着用していたという。
嗷訴における武装を明記した初見。
- 1104年(長治元年)十一月、東寺が延暦寺大法師仁誉(仁与)を提訴。
東寺末寺である多度神宮寺の所領、尾張国大成庄の押領の疑い。
また翌年には荘園住人の殺害事件も起こっている由。
天台宗としての訴訟を敢行。寺門山門分裂後、初めて手を結んだ事案。
- 1142年(永治二年)三月、園城寺衆徒、延暦寺東塔南谷の坊舎数十宇等を焼き払う。
白山宮加賀馬場との紛争で処罰されていた
林光家の赦免を執奏した頼長を、
叡山衆徒が呪詛したとされる事件。
表向きは訴訟の成就を願ったものとさあれるが、『兵範記』には
「左府を調伏し申すと云々」と記述されている。
- 1176年(安元二年)八月 加賀国で白山系の末寺を焼き討ちした近藤師経が京都へ逃れ、
この件に対する抗議のため白山中宮(
長滝白山神社)の神輿が比叡山に到達。(『平家物語』「鵜河イ軍」)
- 1177年(安元三年)四月 上記加賀の事件をきっかけとした嗷訴。その際、武士の放った矢が神輿に刺さる事件が起こる。
四月二十八日、京都大火。内裏も焼亡する。この際、人の夢に、山王の使いの猿が二、三千降りて来て
松火をともして京中を焼いたと見た、という記述が『平家物語』「内裏炎上」の段にある。
(幕府軍を退けるほどの武力を有していたという事)
参考文献
『僧兵 祈りと暴力の力』衣川仁
『京を支配する山法師たち』下坂守
『平家物語(一)』
最終更新:2014年08月12日 20:06